女子バレー部員と男子バレー部員
舞打南高校の終了ベルが鳴り、一学期を終えた高校生たちのうち、まず自転車に乗った帰宅部が校門から夏休みめがけて弾丸のようにすっ飛んでいった。
次に部活のあるものが体育館や校庭に飛び散っていき、十人がかりでゴールポストを動かしたり、切り立てのゴムの匂いがするバスケットボールとじゃれ合ったりしていた。
文化部のほうは十把一絡げにまとめられて押し込められた学生館と称するオンボロのコンクリート建物へ。部活とは名ばかりでスマート・フォンのカードゲームに勤しむ輩もいれば、放送部のようにその日の放送予定を確認して、心地よい権力欲を満たされている連中もいた。
放送部は学校の放送手段を一手に握っていると信じていたし、また自分たちがあらゆる部活のなかで最も高価な機器を扱っているとも信じていた。それは半分は本当で半分は事実誤認だった。
校内放送を牛耳ったのは事実だが、最も高価な機器を扱っているのは放送部ではなく、物理同好会だった。この部活には本物の透過型電子顕微鏡があった。だいぶ型は古いが、そのときは定価二千万円で売られていた。なぜそんな高価なものが学生館にあるのかは科学的観察では解明され得ない永久の謎だが、とにかくまだ使えた。ただ、物理部は部員が一人しかおらず、その部員も幽霊化していたので、廃部の危機にあった。電子顕微鏡は電源ソケットを外され、減価償却もされず、帳簿から漏れ落ちた状態で眠っていた。次に目を覚ますころには人類は目から電子を放ち、顕微鏡なしで物を分解拡大視できるようになっているかもしれない。物理同好会の部屋はそれほど奥まっているのだ。
二千万相当の無駄遣いというスキャンダラスな事実が誰にも顧みられないまま朽ちていくあいだ、また二人、校門から飛び出していった。一人は男子バレー部員でもう一人は女子バレー部員だった。バレー部はその日は休部であったし、おまけに男子バレー部員は女子バレー部員に借りがあった。
「じろやん、ちゃんと約束守れよー」
と女子バレー部員がじろやんの肩をグーで軽く突いた。
「納得いかねえ」
男子バレー部員のじろやんは言った。
「おれがお前の数学をみてやって、それで八十二点取れた」
「そうそう」
「おれが勉強教えてやった成果だよな?」
「じろやんはダイヤの原石の可能性を引き出すんがうまいんよ」
「そうだな。おれのおかげだってことは分かってるわけだ」
「そうそう」
「でも、おれはお前にプレゼントを買ってやらないといけない」
「そうそう」
なぜだ?
じろやんは女子バレー部員の柳の数学をみてやっていた。柳ときたら分数の割り算すら危うい有様だったのだ。それがじろやんのみっちりスパルタ・コースによって、柳はひいひい泣きながらも勉学し、見事八十二点をとれた。
なのに、じろやんはその柳に柳が指定したものをプレゼントとして買わなければいけない。
普通、逆だろ? じろやんのおかげで数学八十二ありがとーこれお礼の品だよー。
これならわかるが、じろやんはいま、柳に何かを買うために自転車を市街地のほうへと走らせている。
いや、理由は分かっていた。柳の数学の出来なさにあきれたじろやんは物で釣ったのだ。
今度の数学で八十以上取れたら、何でも買ってやるから頑張れ、と。
こんな約束をした背景にはおばさん――つまり、柳の母親が、自分は娘が数学で八十点以上取るのを見ることもできないまま死んでいくのだろうかという大袈裟な悲愴と、まあ、これならやる気はでるだろうが、どれだけ頑張っても、せいぜい七十点だろう、と油断があった。
幼馴染の頭の悪さはそれなりに知っているつもりだったじろやんがここにきて、その惰性で痛い目を見ることになったというわけだった。
じろやんは柳の自転車を追っている。柳は馬鹿だが、まさか五桁の買い物を企んだりはしないだろう。数学が少しはできるようになったのだから、学生に分相応なものを選ぶはずだ。
いや、あえて高価な商品を選んで、そこから買えるわけないだろの軽いグー。そして、スターバックスでなんちゃらフラペチーノとザッハトルテの流れだろう。食い意地は張っているほうだが、このプランなら千円はぎりぎり超えない。
どうか柳が空気と財布情勢を読みますように。
柳は市の中心へと行くかわりに塗屋造りの続く古い町へ入っていった。八百屋や瀬戸物屋、写真館、厩舎、大きな桶がある町工場、昔は醤油問屋だった空き家、和菓子屋があり、道はきれいな水が流れる溝に縁どられていた。荷馬車と軽トラック、薄型タブレットと黒電話、紙芝居屋とポケモンGOが併存する不思議な町は幅十メートル以上ある水路にぶつかった。
水町と呼ばれる通りで真ん中を走る水路で町は東西に二分されていた。水路自体は清流のようで、透き通っていて、水草のあいだを泳ぐ鮎の姿が見える。季節なのか、毛針を付けた子どもが鮎を狙ってリールのない竹竿を振っている。
柳は水町を北へと遡る道を取った。この先にあるのは夏だけ開く子ども用の川遊び道具を売る店、焼酎の立ち飲み屋、海苔の専門店、水饅頭のうまい茶屋『おいかわ』がある。
七月二〇日過ぎ。猛暑日ではないし、光化学スモッグとは無縁の町だから暑さもまだ本番ではないが、自転車をこぎつづけてきたから、かなり汗ばんでいた。赤い毛氈を敷いた露台に腰かけて、冷たい抹茶と桃味と蜜柑味と葡萄味の水饅頭が食べられたら。今はスターバックスのザッハトルテよりもおいかわの果物水饅頭三種が食べたかった。一人千円をちょっと超えるが仕方ない。自分へのご褒美を兼ねることにする。
だが、柳は好物のおいかわを通り過ぎた。そして、しばらく走り、塗屋の破風に大きく『ワルツ文具堂』と打ち出された金属看板の店の前でキキーッとブレーキをかけた。