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ワルツ文具堂飄奇譚  作者: 実茂 譲
万年筆〈アナスタシア・ロマノヴァ〉
15/52

『悪意の不在』

「ふーむ」

 仙太郎は店のカウンター裏で新聞をめくる。

 外ではセミが店の裏庭と表側の両方から、繁殖してえ、繁殖してえ、と鳴いていた。

 仙太郎が読んでいるのは舞打千軒のローカル紙「舞千新聞まいせんしんぶん」だ。

 その一面によると、怪盗レインボーがまた予告状を出したとのことだった。

 怪盗レインボーとは、いわゆるご当地怪盗である。東京や大阪などの大都市ではダンプカーでATMに突っ込み、機械ごと持ち去るという畜生にも劣る盗賊行為が流行っているが、そこまで都会でなく、山も海もきれいな水路もある舞打千軒ではもっとスマートな怪盗レインボーがいる。

 レインボーについて分かっていることは、


   イ.十六から十七の少女である

   ロ.金持ちからしか盗まない

   ハ.盗むのは主に高価な文房具である

   ニ.レインボーの名は世襲制らしく、現在は二代目と思われる


 この四つだった。

 確かに仙太郎が高校生のときにもレインボーは出現したが、そのときも十六か十七、当時の仙太郎と同じくらいの歳のようだった。

 現在もやはりレインボーを名乗る怪盗がいて、十六か十七の少女のようなのだから、多分世襲で初代が二代目に後釜を譲ったのだろう。

 それか不死身か? それとも若作りか?

「いやいや、十年もサバ読んだら、もうそれ、サバじゃなくてマグロ読みだよ」

 と、一人新聞相手に仙太郎は意見を述べる。

 ぺらり。

 第三面の関連記事をめくる。

 まあ、今のレインボーが二代目だとしても、しょうがない。

 怪盗といえども、少女である。

 いつまでもかっぱらいにうつつを抜かしていられない。

 学校もあるし、受験もある。

 いや、待てよ。ひょっとしたら怪盗専門の学校がどこかにあって、そこには全国から怪盗の少年もしくは少女が集まっていて、おまけに怪盗用のセンター試験なんかもあっちゃったりして、そこではお宝をいかに優雅に、いかに知的に、いかに無駄なくかっぱらうかを競い合っているのかも……。

 視界に違和感を感じて、ふと紙面から目を上げると、桐島七美きりしまななみが店のなかにいて、そっと表のガラス戸を閉めているところだった。

 桐島は世界でも稀有なワルツ文具堂のガラス戸をガタガタ鳴らさずに動かすことのできる人間である。


   Q.そんなことがなぜできるのか?

   A.鍛錬と経験の成果だ。


 桐島七美は祖父道雄のころから、ワルツ文具堂に通っている。だから、根性まがりのガラス戸と敷居の癖も把握していた。

 なにより、お得意さまでもある。

 文房具が好きで、週に三日は必ず来る。好みは古いもの。

 戦前のものらしい旧字体のゴム印。

 シールではなく水で濡らして糊を溶かす旧式の口取紙インデックス

 コピー機のなかったころの必需品であるカーボン複写用ガラスペン。

 そして、もちろん電報複寫簿も。

 七美は味のある不便さを楽しめる通であり、仙太郎はありがたいなあ、と思いながら、ひいきにしてもらっている。

 ガラス戸を閉じると、七美は仙太郎のほうへ振り返り、もじもじどぎまぎして顔を真っ赤にしながら、ペコリとお辞儀をした。

 別に仙太郎に恋をしているわけではない。

 誰に対しても、そうなのだ。

 誰に対しても恋をしているわけではない。

 人見知りなのだ。

 仙太郎と七美は同じクラスだった。つまり、欧助や長老、ぽわ光、つつじとも同じクラスだったということだ。

 そのころからこんなふうに人見知りだった。

 物静かで牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけていて、教室の隅でいつも本を読んでいた。それが高じて、現在は作家になった。

 仙太郎はいくつか読んでみた。貫かれたテーマは『悪意の不在』だ。つまり、登場人物全員いいひと。それを甘いと説くか、今ある世界へのアンチテーゼと取るかは人によってそれぞれだ。

 だが、こうして著者本人を見ていると、『悪意の不在』というのは、ただ、七美が悪いことなんて到底できないし、思いつきそうにもないからだと知れる。

「いらっしゃい」

「は、はい。あの――」

 そこで言葉が止まってしまった。これでも一年分の会話をしたつもりで、これ以上は辛くて、逃げ帰りたいのだ。

 しかし、そこは仙太郎ももう七年、ここに座っている。

「そろそろ来るだろうと思って、桐島が気に入りそうなもん、いくつかピックアップしてみたよ」

 仙太郎本日のおすすめはレトロな入れ物類である。海外物の平たい丸缶で、画鋲やハトメ鋲の入れ物だ。

 ガラスのカウンターにパープル・フェルトをさっと敷いて、その上に缶を次々乗せていく。

 さっきまでのおっかなびっくりな表情が嘘のように消えて、フェルトの上の直径四センチを超えることのない缶たちを夢中で眺めている。

 たくましい雄鶏が胸を張る翡翠色の缶。

 ダンディな紳士が微笑む缶。

 旧ソ連のものらしいキリル文字だらけの赤い星の缶。

 どれも顧みられることのないデッドストックだったが、桐島七美にしてみれば、宝の山だ。

 三十個近い缶は全部完売、ついでに赤、黄、緑の三本セットのセルロイド万年筆や大きな文具入れも買っていき、桐島七美は幸せ顔だ。

 七美は買ったものを袋に入れてもらうと入ってきたのと同じくらい静かにガラス戸を開けて、帰っていった。

「ふーむ」

 仙太郎はまた新聞を開いた。

 すると、ガタガタガタガッタガタとやかましい音を立てて、ガラス戸が開き、いかにも元気いっぱいのスポーツ少女らしいのが開きかけた戸を無理やり通ろうとして、ボストンバッグを引っかけて立ち往生していた。

 少女は結局、そのままの状態で用事を済ませるつもりになって言った。

「すいません。ここに姉がきませんでしたか?」

「姉?」

「はい、桐島七美といいます」

「さっきまで来てたけど――」

 仙太郎は立ち上がって、ガラス戸に手を引っかけると、下を蹴飛ばして、戸を開けた。

「きみは――ひょっとして妹さん?」

「はい」少女は元気いっぱいに答えた。「桐島詠きりしまえいといいます!」

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