フェア・プレイ
次の日には欧助が一万もするシャーペンを買ったという話はあっという間に友人知人親戚家族へと知れ渡った。
「いいことだ。書くもののために学生が福沢のとっつぁんを一枚切る。学生は勉強が本分だからな。ところで、その欧助ってのはどこのどいつだ?」
このようにメカニカル・ペンシルには凄腕広告マン百人が束になってかかっても敵わないほどの宣伝力があった。
のちの欧助の生業となる『世界じゅうのとびきり優れたモノ』を探し出す仕事はワルツ文具堂から始まったのかもしれない。
ただ、そのころ仙太郎は祖父道雄の意地の悪い策謀によって、身悶えするような状況に置かれていたので、欧助のことはきれいさっぱり忘れて、いかにしてこの状況を打破するか考えなければいけなかった。
というのも、仙太郎は長老と辻岡の買い物がまだ微妙に気になっていたのだ。そして、祖父はその〈微妙に気になる〉をうまい具合に焚きつけて、〈大いに気になる〉にまで膨らまさせていた。
道雄は必ず一日の売り上げと在庫の増減を帳簿につけていた。欧助がラミーを買ったあの日、小竹と辻岡が何を買ったかも当然帳簿につけてあった。万年筆で帳簿をつける絶滅危惧種のためにつくられたバンクノート仕様の帳簿は道雄の部屋のライディング・ビューローの引き出しにある。鍵がかかっているが、仙太郎は合鍵を持っているし、いつでも帳簿を見ていいことになっていた。
だから、小竹と辻岡が教えなかったあの日の買い物の中身を知ることができる。
しかし、それはフェアではない。ゲスではあっても一応真面目がつく仙太郎はそうやって女性の秘密を見るのは潔くない行為であり、まだケロヨン洗面器で前を隠しながら女湯に全裸で突進するほうが男らしいと思っている。もちろん、刑事罰とこれにより失うであろうささやかな社会的地位との兼ね合いがあるのだから、帳簿と女湯、どっちか選べと言われれば、欧助ほど馬鹿になれない仙太郎は黙って帳簿を開くだろう。確かに真面目と称されているが、しょせんはゲスなのだ、自分は。
そういった仙太郎の気質を知り抜いている道雄はわざと文具屋のカウンターに帳簿を無造作に置いたり、引き出しの鍵をなくしたフリをしてこっそり盗み見する機会を与えたりして、年寄りの慰みにしていた。
仙太郎は天邪鬼だったから(もちろんそこのところも道雄に見抜かれていた)、こうなったら何が何でも見てやらんぞ、と心に決めるのだが、そうやって頑なになればなるほど、気になってくる。
買ったのは長老ではない。長老は文房具で買ったものを隠すなんて面倒なことはしない。
だとすれば、何かを買ったのは辻岡つつじということになる。
剣道一筋の凛として、禁欲的なところが多分にある辻岡は男子だけでなく女子に対して宝塚的な人気を博している。
そのちょっと堅いイメージに合わないものをここで買ったのだろう。一人称ボクの剣道女子が買うのを恥ずかしがるもの。少女チックか、おしゃれなものだ。
そんなもの、この店にはこれでもかと溢れている。そもそも文具というのは古来からおしゃれなのだ。東洋の筆、西洋の羽ペンと使っているだけで知的に見える。そして、大量生産大量消費の資本主義万歳の世の中でも文具はかっこいいものであり続けた。
ああ、ダメだ、余計に分からん。
今の仙太郎は人間の悲哀を一心に背負う哀れな標本であった。
こういうときはじっとしていてはならぬ、ということで、〈壮絶なる整理整頓キャンペーン〉を開始した。まず消しゴムに襲いかかり、MONOの最も大きく最も売れ行きが芳しくないレンガみたいな消しゴムを前に引っぱり出し、ボールペン用消しゴムを消しゴム縦隊の一番後ろに押し込んだ。
次に糊が餌食になった。猛烈な整頓欲望に突き動かされた仙太郎はでんぷん糊やアラビア糊、スティックタイプの糊を会社と容器の形別に分類した。分類と整頓に取りつかれた仙太郎はエリス島の移民審査官よりも情け容赦なく、文具たちの運命を決めていった。あるクラウンの穴あけパンチは華やかさが足りないという理不尽に理由により(この世界のいったいどこに穴あけパンチに華やかさを求めるやつがいるのか?)、奥にやられ、代わりにスミレやカジキマグロがパステルカラーで描かれた便箋が一躍脚光を浴びた。
かと、思えば、絵の具がワリを食らって、ぺんてるや顔料と一緒くたに、ガラスの戸棚へ封じ込められた。ところがガラスケースに入れた途端、これらの絵の具類が非常に好ましいものに見えてきて、もっと客が手に取りやすいようにと、ガラスケースから出す。すると、何だかまたムズムズしてきて、絵の具を手あたり次第ガラスケースにぶち込んで。すると、ガラスケースに入った途端、絵の具たちはまたもや立派に見えてきて――。
このような間抜けなループ行動が含まれているとしても、〈壮絶なる整理整頓キャンペーン〉は店にノアの洪水をもたらし、神の代理たる仙太郎が新秩序をこの小さな宇宙に敷衍してはいた。
すると、あら不思議。精魂尽き果てて、好奇心は剥がれ落ちる。そして、心の持ち方がとても静かで禅の境地に達したみたいに落ち着いてきた。
文具は人を迷わせるが、そのくせ迷う人間をよりよき道へ歩ませる力を持ってもいる。
今の仙太郎はキューバのラジオ放送みたいに文具万歳と叫びたい気持ちだった。
「あの」と呼びかけられる。
「はいはい」仙太郎は商売商売と揉み手しながら振り返った。
そこには辻岡つつじが立っていた。




