結月道雄(77) 魂の叫び
老人会の麻雀パーティで、自動麻雀卓の真ん中へ牌を転がし落としながら、結月道雄はこの上ない多幸感に満ちていた。
道雄のような七十七歳の老人が感じる幸福――それはこれでいつ死んでも大丈夫だ、という安心だ。
そこまで大袈裟な心構えを持ったのは彼の孫、仙太郎が生まれながらの文房具屋だと確信が持てたからだ。仙太郎はあと二か月で二十歳だが、道雄は店の名義を全部、仙太郎に変えておいた。自分ももう七十七だし、文房具屋から足を洗うべきだ。
文房具屋というのは世人が思うよりもずっと魑魅魍魎が飛び交う伏魔殿なのだ。一日じゅう座って、トンボ鉛筆をちょろちょろ売っていればいいという業界ではない。卸業者から行商人といってもいい個人バイヤーまで、様々な連中が文房具屋に怪しげな文具を売りに来るのをときにあしらい、ときに引き留め、これだと思う文具を一気に買い取る。その機敏さと大胆さがなければ、到底、文房具屋は務まらない。
そして、仙太郎にはその素質がある。
道雄は仙太郎の教育にあまり干渉せず、のびのびさせていたが、何も知らなかったわけではない。高校時代の仙太郎の性格はクラスメートから『ゲス真面目』と評されていた。
それはなるほど的確で思わず、道雄もうなずいた。
仙太郎の外見は背がひょろりと高く、その哲学者のごとき顔つき(とはいっても、この顔は便秘に悩んでいる顔に見えないことはない。哲学者だってクソはたれる)とフレームレス眼鏡のおかげで知的な青年に見えたが、その口は息をするように心無い嘘を――ただし、誰も傷つかない嘘をポンポンついた。昔ならちゃらんぽらんと呼ばれてもおかしくなかったが、とにかく容姿が知的だったので、黙っていれば真面目に見えた。
それで『ゲス真面目』である。
担任から知ったかぶりをするなと注意されたとき、仙太郎は偽りの知的さを総動員して、
「先生。ぼくは知ったかぶりをしたことは一度もありません。ただ、口から出まかせを言っているだけです」
と、いけしゃあしゃあ言ったそうな。
だが、文房具業界ではそのくらいの肝がないとやっていけない。
きっと仙太郎なら自分が成し遂げられなかった偉業――とは言わなくとも、小さな不良債務をうまくさばいてくれるだろう。
いや、不良債務といっても実際にはただの在庫不良である。
ちくしょうめ。道雄は入れ歯の世話にならずに済んだ口のなかで罵倒語をこねた。
あれは探偵物語が流行った一九七九年の十一月、あのころ、やくざな行商人どもはみんなアフロヘアに黒い中折れ帽をかぶって工藤俊作のマネをしていたが、おれに『一日筆』を三百本も売りつけたのも、その手合いだった。
何であんな馬鹿な商品を三百本も買っちまったのか。
一日筆というのは一日で壊れてしまう万年筆のことだ。
一万年ではなく、一日しか使えないから一日筆。
朝起きて、金メッキのリングがある一日筆のキャップを取り、紙の上にペン先を滑らせる。そして、夕暮れ時、その日の仕事が終わって帳簿を〆(しめ)た瞬間、一日筆はぶるぶる震え出して、まずキャップが割れて、次にペン軸が消滅し、宙に浮いた形で残ったペン先が最後の輝きで使用者の目を差し、力なく横たわる。
もちろんいいところもある。
一日筆を使えば、その一日、どんなに字がド下手でも素晴らしくうまく書くことができる。
檸檬とか憂鬱とか草書体とかキリル文字とか。何でもござれ。一日筆のペン先にインクを吸わせてひょいと振るえば、弘法大師と嵯峨上皇と橘逸勢が裸足で逃げ出し二階の窓から落っこちるほど美しい文字が紙に並ぶ。どんなに引っかかりやすい紙でも大丈夫。一日筆は紙を選ばない。
とにかく一日だけはうまく書けるのだ。
だから、売れるな、と思ったが、さっぱり売れない。
時代が下るにしたがって、ますます売るのが難しくなった。
考えてみると、わざわざ万年筆を使いたがる連中はもれなく達筆だし、また一日筆は紙を選ばないというが、万年筆を使う客たちはむしろ自分の愛用している万年筆にぴったりの紙を探すことに喜びを感じている。
こうなると、一日筆はただのコレクターズ・アイテムでしかない。実際、これまでに二本の一日筆が売れたが、一度目は二十七年前、二度目は五年前、どちらもペンの蒐集家のあいだではよく知られた顔だった。
「こんなはずじゃなかった」
と、昨日、道雄は『ワルツ文具堂』の裏庭でドン・コルレオーネみたいに籐の椅子に深く座り、仙太郎に言った。
「お前はもっとこう、新しいものを売るはずだった。色彩センサー付きのボールペンとか、百枚綴じポケットホッチキス(超小型超強力油圧プレッシャーでラクチン!)とか。一日筆なんて売るべきじゃなかったんだ」
「おれは売ってみせるよ、じいちゃん」
マイケルになるには背が高すぎる仙太郎はひょろ長い体を曲げて、祖父の腕を優しく握った。
道雄・コルレオーネは賢者のごとく人差し指を立てた。
「工藤俊作のマネをするやつに気をつけろ。そいつが裏切り者だ」
「裏切るって何を裏切るの?」
「わからんが、とにかくそう言うものなんだ。こういうシーンでは。ゴッドファーザーぐらい見たことあるだろう?」
思い出しながら、道雄はほくそ笑んだ。ドン・コルレオーネは最後孫と遊びながら、ひまわり畑のなか、麗らかな日差しと共に死んでいった。自分とドン・コルレオーネの違いはドン・コルレオーネには倒すべき敵バルジーニとタッタリア、それに裏切り者のテッシオが残っていたが、自分にはそういった敵は残っていない。
だから、今、死んでも大丈夫なのだ。
全自動麻雀卓から牌が現れた。これは最近買い替えた最新式で手牌を自動で並べるだけでなく、ドラめくりまでしてくれる。自分で配牌しないと、麻雀の楽しみが半減するとほざくやつらは呪われろ。平均年齢七十六・五二歳の麻雀メンツにとって、震える手で対面の山から四つの牌を一度に握り取ることがどれだけ大変か、知ってみればいいのだ。
「さてと。親はわたしだな」
道雄は牌を種類ごと、数字ごとに並び替える。
おや? 捨てる牌がない。つまりアガリだ……つまり、これは――、
役満だ! 天和だ!
既に天高く飛び立っていた道雄の魂が叫んだ。
そして、地に残された肉体は牌をごちゃごちゃにしながら麻雀卓へうつ伏せに突っ伏していた。