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水無月家の執事になる前の話 3


 俺は電話を終えて雪乃の座るベンチに戻る。

 隣に座りながら辺りを見回せば、色取りも鮮やかな様々な種類の鳥が溢れるドーム状の温室の中、置物ですと立札があったら納得してしまうだろう大きな灰色の鳥の柵の前に執事の姿を見つけた。


「あいつ、まだ動かんのか」


「ええ、まるでハシビロコウさんにでもなったかのようにあそこからぴくりとも」


 雪乃の隣に座り、彼女の肩を抱く。細い肩を抱き寄せれば、小さな体は俺の腕の中にすっぽりと納まる。

 可愛い弟たちは、と探せば一際目立つ金髪頭が目に入って、真咲はその傍に居て南国特有の鮮やかな羽根を持つ鳥について飼育員と話しをしているようだった。真智は、少し離れた所で恐々と水鳥たちを見ている。何故か一路が真智の背に隠れるようにして見ている。水鳥って近くで見ると恐竜感があるので、子どもは怖いのかもしれない。一路は子供じゃないが。


「充さん、ハシビロコウさんに会うのをとても楽しみにしていたから、ふふっ、本当に楽しそうね」


「そうだな。珍しくカメラを構えるのを忘れているからな」


 雪乃がくすくすと穏やかに零す笑い声は耳に心地よい。

 執事という職業は特殊だが、近年、上流階級では一種のステータスとして執事という存在は再び需要が高まっている。園田も言動が馬鹿なのであれだが、一応、俺が行かせた執事の学校を首席で卒業した優秀な執事だ。確かに優秀なのは認めるが、俺を好きすぎるのが問題だ。あいつの部屋のアルバムが殆ど俺の写真なのは気持ち悪い。あいつは執事という立場を利用した合法のストーカーだと俺は思っている。


「充さんは、私やあなたより年上の大人の男性だけど、ああいう所は子供みたいね」


 雪乃の言葉に彼女から園田へと視線を映す。

 ここから見える横顔は、キラキラと好奇心に輝いている。あのぴくりとも動かない妙な威圧感のある鳥の何が楽しいのだろう。俺には分からんが、園田のその横顔は、あいつの趣味である時代劇を見ている時と同じで楽しんでいることだけは確かに伝わって来る。


「……まあ、いいんじゃないか? あれはああいう体験をもっとするべきだ。今まで出来なかった分、これからたくさんな」


「そうね……。いままでは私の体の所為でこんな風にお出かけは出来なかったし、あの子たちも心配ばかりして離れようとしなかったから……充さんにも真智や真咲にも色んな経験をさせてあげたいわ」


「君の体の所為なんて、馬鹿げたことを言うな」


 そう告げて、じとりとした視線を向ければ、こちらを見上げた雪乃がぱちりと目を瞬かせた後、ふわりと笑って膝の上にあった俺の手を撫でた。


「ふふっ、ごめんなさい。そうね、皆の優しさを否定しちゃいけないわね」


「あいつらは総じてマザコンなんだから仕方が無いだろ」


「もう真尋さんたら」


 雪乃がくすくすと可笑しそうに笑った。

 彼女の笑い声がこの世に溢れる音の中で俺の一番好きな音かも知れない。延々と聞いていたい。

 彼女の艶やかな黒髪を一房手に取って指先で遊ぶ。しっとりとしてさらさらと指を抜けていく感触が心地よい。彼女の髪の手入れは俺がしている。毎晩、風呂を済ませた彼女の髪の為に特別に取り寄せた椿油を馴染ませて、柘植の櫛で手入れをするのが俺の楽しみだ。一応、家は別だが雪乃の両親も多忙なので両親が居ない日は、うちに泊まる。月の三分の二は我が家で寝起きしている。俺としては雪乃はもう妻なのだからこっちで良いと思うんだがな。うちのクソ親父が「高校卒業まで待て」とうるさいんだ。どうせ家になど居ないんだから構わんだろうに。


「ねえ、真尋さん」


「ん?」


 雪乃が俺を見上げているのに気付いて顔を向ける。


「そういえば聞いたことがなかったのだけれど……充さんを助けようと思ったのは分かるのよ。誰だって充さんみたいに理不尽な暴力に晒されている人がいれば助けるでしょう? でもどうして真尋さんは、充さんを傍に置こうと思ったの?」


 予想だにしていなかった雪乃の言葉に、俺はぱちりと目を瞬かせた。

 雪乃の大きな黒い瞳がじっと俺を見つめている。垂れ目な彼女の目元にある黒子が色っぽいのが好きだな、とどうでも良い方に流れる思考をどうにか戻して、首を捻る。


「助けたのは多分、前も言ったがマスターのコーヒーが美味かったからだな」


「なら、傍に置いたのは?」


 俺は雪乃から視線を外して、園田へと目を向けた。

 ハシビロコウ同様、ぴくりとも動かずハシビロコウを見ている。

 飼育員が出て来て、ハシビロコウにお辞儀をすると石像のように動かなかったハシビロコウがお辞儀を返した。それに園田がますます顔を輝かせ、くるりとこちらを振り返った。興奮した様子でハシビロコウを指差す園田に、俺は分かったという意味を込めて頷き返し、雪乃が手を振り返せば園田は嬉しそうに笑って、再びハシビロコウに顔を戻した。

 無邪気な子供みたいな横顔に何となく急に「ああ、あんな表情もするようになったのだな」と思って、息を吐き出すように小さく笑った。

 そうだ、漸くあんな顔をするようになったのだ。


「……死を当たり前のように迎え入れてしまうあいつを、繋ぎとめておくにはそれしかないと思ったからだ」


 雪乃の手が俺の手の上に戻って来る。

 雪乃は俺の言葉に少し考えるような、何かを思い出すようなそんな顔をした。


「……初めて、充さんがうちに来た日、あの参考書と少しの着替えが入った鞄を腕に抱えて、リビングで立ち尽くしていた姿が今でも忘れられないの」


 俺の手とは似ても似つかない華奢で白い手をそっと握り返す。


「真尋さんに電話が来て、リビングを出て行ってしまったでしょう? 私がお茶の仕度をして、双子ちゃんは知らないお兄さんに興味はあるけど、私のスカートにくっついたままで……充さん、リビングの入り口でぽつんと立ったままだったの。あなたが「座って待ってろ」と言った言葉に従おうとしても、どこに座れば良いのか分からなかったのね」


 小さな苦笑がぽつりと落ちた。それは賑やかな鳥たちの鳴き声にあっという間に埋もれてしまった。

 園田が水無月家に来たのは五年前、真智と真咲はまだ六歳、雪乃は十二歳だった。


「窓の外で雨がざあざあ降っていて、それを心細そうに見ていたの。ただ一つの持ち物だった鞄を胸の前で抱えて、まるでリビングの中で迷子になってしまっているみたいだったの。でも、私が声を掛けるより先にあなたが電話を終えて戻ってきた途端、お父さんを見つけた子供みたいにほっとした顔になったのよ」


 雪乃がふっと表情を緩める。


「……その後、あいつはわりとすぐに君にだって懐いたじゃないか」


「一緒に過ごす時間が長かったもの。でも、充さんが私に懐いてくれたのは、私が水無月真尋の愛する人だったからよ。充さんってね、誰にでも分け隔てなく接する人だけれど、仲良くしているのは真尋さんと親しい人だけなのよ。あなたが嫌いな人は嫌いだし、好きな人は好きなの。充さんにとって真尋さんが世界の根幹なのね」


 雪乃が顔を上げて俺を見る。


「充さんにとってあなたは神様なんですって」


 俺は何とも複雑な気持ちになって誤魔化すように雪乃の額にキスを落とし、彼女の肩を抱き直す。


「俺は歴とした人間なんだがな……まあ確かに俺を崇拝している節がある。あんなんだから未だに童貞なん、って」


 ぺしりとつないでいた手を叩かれて彼女を見れば、じとりとした目がこちらを睨んでいる。


「あなたってどうしてそうデリカシーってものがないのかしら」


「愛する妻を持つ主人として優秀な執事の将来的な幸せを案じただけだろ」


「ああ言えばこう言うんだから、この人は」


 雪乃が呆れ交じりに言って、傍らに置いてあった鞄からタンブラーを取り出す。彼女が喉を潤すと、真尋さんもどうぞ、と渡されて口を着ける。温かいお茶は茶葉の甘みが強く渋みをほとんど感じない。


「美味いな」


「女将さんが特別に用意して下さったのよ」


「帰りに買おう。それより体は平気か? 寒くないか?」


「ここは南国仕様だから寒くなんかないわ。そういえば、さっきは何の電話だったの? お義父様?」


 俺が渡したタンブラーを鞄にしまいながら雪乃が問いかけて来る。俺はジャケットのポケットからスマホを取り出して、操作しながら口を開く。


「あれの父親が園田の家に顔を出したそうだ」


「ちゃんと塩を撒くように言った?」


 雪乃が至極真剣に言った。

 基本、雪乃は怒りを長引かせないが園田の父親に限っては、本当に許せないようだった。確かにアレは俺からしても塩漬けにしたい人間だ。


「奥さんが漬物用に買ってあった塩の大袋をまき散らして掃除が大変だったと笑っていたぞ。案の定、充を返せと大騒ぎだったらしい。園田夫妻は、極々普通の一般人だからな、水無月に対する態度とは正反対で、泥棒呼ばわりされたそうだ」


 雪乃がぱちりと目を瞬かせた。


「だが仕込んであったボイスレコーダーがきっちり作動してくれたおかげで、事がより一層、有利に進みそうだ」


 俺は画面に表示されたメッセージの内容に思わず口端に笑みを浮かべる。やはり、馬鹿は勝手に自分の首を絞めてくれるものだ。


「真尋さん、手加減なんかしちゃだめよ? 充さんはいっぱい頑張ったんだから、その分だけでもあの人に分からせなくちゃ」


「過剰に分からせてやるつもりだから安心すると良い。……ん? なんだ?」


 不意に頭の上に何かが落ちて来た気がして手を伸ばせば、何か温かいものに触れた。


「まあ、可愛い! 見て、真尋さん、リスザルよ! 赤ちゃんも一緒だわ」


 彼女の膝には子ザルを背に乗せたリスザルが居て、きょとんとした顔で雪乃を見上げている。わらわらとどこから湧いて出たのか、いつの間にかリスザルたちが俺と雪乃を囲んでいた。人の肩に座ったり、膝に乗ってきたりとやけに人懐こい。


「なんでここにいるんだ? ここにリスザルの展示なんかあったか?」


 俺の膝の上に乗るリスザルに手を出せば小さな手が真尋の指を掴んで、首を傾げると頭を摺り寄せて来た。可愛らしい仕草に指の背でそっと撫でてやる。


「あなたたち、どこから来たの?」


 雪乃がにこにこしながら問いかける。母子のリスザルは、彼女の膝の上で毛づくろいを始めた。 

 俺はスマホを取り出して、妻と親子のリスザルを動画に残す。俺の妻はなんでこんなに可愛いのだろう。

 だが何だかカシャカシャうるさいと振り返れば、いつの間にか園田が俺たちに向かってシャッターを高速で切っていた。片手で口元を抑えて地面に膝をついてこちらにカメラを構えて小声で「はぁぁ、極楽ですっ」とか噛み締めるように呟くのが聞こえた。俺の気のせいでなければ「尊い」と鳴きながら泣いている。

 近寄ろうとしていた弟たちと親友たちは園田に気付いて、他人のふりをするべきか否か悩んでいる。


「……あの日の俺は疲れてたんだな」


 そうぽつりと呟いて俺は園田を意識の外に放り出して愛しく可愛い妻とリスザルだけに意識を向けることにしたのだった。








「あのね、真尋さん。確か真尋さんのお家は、会社を経営していてお金持ちなのよね」


 稽古帰りに偶然見つけた住宅街の片隅にひっそりと看板を出している初老の夫婦が営む喫茶店は品の良いアンティーク家具と控えめなクラッシックが心地よい穏やかな空間で飲むマスターこだわりの美味しいコーヒーがこの上なく美味しい喫茶店だった。そこで週に二回、稽古帰りにそこで一息吐くのがここ数か月の俺の楽しみだった。


「こんなことを頼むのは間違っているかも知れないんだけど、私たちどうしたらよいか分からなくて……」


 マスターの奥さんの早苗さんが言い辛そうに顔を俯ける。

 ここもこれまでか、と俺は最後になりそうなコーヒーを飲みながら早苗さんの言葉の先を待った。

 まだここに来始めたばかりの頃に毎回、高級車で送り迎えをされていたものだから「父が社長だ」とだけ言ったことがあった。正式な後継として俺の存在は公表されていないが、自分の目立つ容姿と優れた才能くらいは嫌というほど自負している。俺の存在は隠されている訳では無いし、名前は知っているのだから少し調べれば幾らでも真尋の家がどれほどのものなのかは分かるだろう。

 水無月の家の力や金に焦がれて、甘い蜜を吸おうとする輩は山ほどいる。ここの夫婦は、そんなことはなさそうだと思っていたが、どうやら思い違いだったようだといつもは美味しく感じる筈のコーヒーがただ苦いだけの液体に思えた。


「真尋さんのお家で経営している会社には、社員とかアルバイトなら住める社員寮とかないかしら」


「……ん?」


 想像していた言葉とは少々毛色が違うような気がして思わず俺は顔を上げる。


「早苗さん、離婚するのか?」


「え? 私?」


「早苗さん、大事なことを言っていないよ。それと僕は早苗さんが別れたいって言っても別れませんよ」


 マスターが慌てたように言って、磨いていたコーヒーカップを置いてカウンターから出て来る。

 早苗さんも自分の言葉足らずを理解したのか、違うわ、と焦ったように首を横に振った。


「そうじゃないの、違うのよ。私だって武明さんと別れる気はなくてね、そうじゃなくて、あの……助けたい子がいるの」


 早苗さんの縋るような目を見つめ返しながら、俺はコーヒーの味がいつも通りに戻っているのを感じていた。








 そうして出会ったのが、藤谷充だった。

 身長に比例しない細い体。襟首の伸びきったよれよれの長袖のTシャツに艶の無い髪。育ち盛りに違いないのにいつだって一番安いコーヒーを一杯だけ。参考書はどれも古本屋で買ったり、バイト先で譲り受けたりしたお古だ。

 穏やかな物腰と丁寧な言葉遣いは彼の年齢には到底そぐわない。マスター夫妻が笑いながら会話をしていると置いて行かれた子供のような寂しそうな顔で見つめていることがある。勉強の合間、ふと顔を上げて窓の外を眺める時、夜の所為で反射するガラスに映ったその顔には、何にもなかった。

 案の定、無理矢理にその服を捲れば、細い体には暴力の痕が見本市のように散らばっていた。

 腹に咲いた鮮やかな紫色の痣に俺の怒りも鮮明になった。腕には煙草を押し付けたかのような火傷の痕があって、昨日今日付けられたのだろう、じくじくした傷口もそこにはあった。

 誰にやられたと俺が聞いてもあの馬鹿は、庇うように言い訳をして逃げ出した。

 それから俺やマスター夫妻も何度か会いに行ったけれど、なかなか捕まえられず、俺は俺で痴女に襲われて心配した母親に一か月もフランスに足止めされたのもタイミングが悪かった。

 次に漸く会えた時には、藤谷充はぼろいアパートの色あせた畳の上で血まみれになって倒れていた。

 藤谷を刺したのは、藤谷の保護者であった遠縁の女とその恋人の男だった。男は、藤谷の足を刺して逃亡したが衣服に血が付いたままだったため近くの公園付近で職質を掛けられ、咄嗟に逃げようとして暴れたため公務執行妨害で逮捕されていた。女は駆け付けた警察に傷害の現行犯で逮捕され、二人は現在、仲良く警察のお世話になっている。

 そして、藤谷充は俺の知り合いの病院の特別室に入院中だ。今は父専属の運転手が運転する車に負ってそこへ向かっている最中である。

 病院に着くころには、霧雨のような雨が降り始めた。俺は運転手に一度、帰るように告げてから院内へと足を踏み入れる。

エントランスホールには大勢の患者やその家族、見舞いに来た人々、忙しなく働くスタッフたち。病院独特の匂いと控えめながら確かに喧騒と呼べるそれを背に足を進める。

 専用エレベーターに乗って最上階の特別室が並ぶ階へと向かう。エレベーターから降りれば、赤い絨毯が敷かれ、内装も病院というより高級ホテルのような造りになっている。カウンターで受付を済ませて、藤谷の部屋へと歩いて行く。部屋番号を確認してドアを開けて中へと入る。入って右手に洗面所、左手にはトイレがありその隣には風呂がある。正面にはドアがあって、コンコンとここでノックをするが返事はない。受付で部屋に居ると言っていたから、寝ているのかも知れないと静かにドアを開けて中へと入る。

 ただっ広い部屋には、入ってすぐにソファセットがあり右手奥にキッチンがある。左手にはベッドとデスクがあって、ベッドにふくらみがあった。

 足音を忍ばせてベッドに近付いて行けば、雨音に混じって微かな寝息が聞こえて来た。覗き込めば、藤谷は静かに眠っていた。


「……寝ているのか」


 そう呟いて、俺は近くにあったデスクからキャスター付きの椅子を引っ張ってきてベッドの傍に置く。アタッシュケースは足元に置き、外に出ていた包帯が巻かれ、ガーゼの当てられた腕を中に入れて布団を掛け直してやる。彼の反対の腕からは点滴の管が伸びていた。

 目にかかっていた髪を指先でそっとはらい、俺は椅子に座り、背凭れに寄り掛かるようにして身を沈めた。

 薄暗い部屋には静かな寝息と雨の音、たったそれだけしかない。

 俺はその寝顔をぼんやりと見つめる。余り顔色は良くない。

 救急車で運ばれ、藤谷はそのまま手術となった。女が刺した腹の傷は浅かったが、男が刺した足の傷が思ったより深かったと担当した医者が言っていた。だが、それより酷かったのが過労だという。調査させて分かったのは、喫茶店で藤谷が飛び出して行った後、それでなくとも三つも掛け持ちしていたのに、藤谷は女に言われるままにバイトを増やし、一日に一時間しか眠らないような生活を強いられていたようだった。その上、藤谷の部屋として宛がわれていたのは、洗濯機を置く狭いスペースだった。

 藤谷は、手術から三日、目を覚まさなかったほどだ。目を覚ましてから二日経って漸く集中治療室から特別室に移動になったのだ。

 世間ではブラックバイトやパワハラなんて言葉を耳にする機会が多かったが、藤谷がバイトをしていた二件のファミレスもスーパーもコンビニも夜間の工事現場も皆、藤谷の異変に気付いて心配し、どうにかこうにか救い出せないかと悩んでいた。バイト先には制服がある。それに着替える時に皆、藤谷の体にある傷に気付いていたのだ。それに給料を払う店長たちは、藤谷に頼まれて給与明細の偽物を作っていた。藤谷が学費として貯金する分をそこに記載しない手書きの給与明細だ。この偽物とそこに書かれた金額を女に渡していたらしい。本物は藤谷が別に管理し、税金等はしっかり払っていたそうだからこういう点で藤谷は頭が良いということだけは分かる。

 藤谷の周りには、藤谷を心配する人たちがたくさんいた。喫茶店のマスター夫妻もバイト先の店長や仲間たちも工事現場のおじさんたちも皆、藤谷に「大丈夫か?」とずっと声を掛けていたのだ。

 ただ、この馬鹿はそれに応える術を知らなかった。

差し伸べられた手の意味を藤谷は、本当に知らなかったのだろうか。


「……ん」


 衣擦れの音がして、いつの間にか下がっていた視線を上げれば、藤谷が目を覚ましていた。寝ぼけた瞳が辺りを見回し、俺に気付くとぱちりと瞬く。


「ま、真尋さっ、つっ」


「急に起きるな」


 起き上がろうとして痛みに呻いた藤谷に呆れたように言った。藤谷は、うーと呻きながらベッドに沈む。


「看護師を呼ぶか?」


「いえ、大丈夫、です」


 青白い顔で藤谷は首を横に振った。

 それから痛みが落ち着くと藤谷は、リモコンを操作してベッドの上体を起こした。


「調子はどうだ? 不自由はないか?」


「はい。お蔭さまで……でも、あの……こういう部屋って高いですよね? 私、貯金はあまり無くてですね、出来れば一番安い大部屋に……それと手術台とか治療費とかの支払いは少しずつ長い目で見て頂けると」


「金の心配は一切するな。お前は何も心配せずに元気になることだけを考えていろ。医者が言っていたぞ、この人は刺されて死ぬんじゃなくて過労で死にそうだと。お前のバイト先の人たちも心配していた。無論、マスター夫妻もな、だから焦らなくていいからゆっくりと休め」


 青白い顔は喫茶店で勉強を見ていた時よりも間違いなく窶れている。

 リハビリよりも優先された休養の意味をこいつは今一つ分かっていないに違いなかった。

 藤谷は、まだ何か言いたげに口を開いたが俺の目をじっと見た後、俺が取り合わないと分かったのか諦めたように口を閉じた。藤谷は、すみません、と一つ断って傍らに置いてあったペットボトルから水を飲んで、ふっと息を吐きだした。

 沈黙に雨音が混じる。病院の中は賑やかなはずなのにまるでこの階だけ別の世界にでもあるかのようだ。


「……レイコさんは、」


 やんわりと藤谷の声が沈黙を揺らす。


「どうなりましたか? ……罪に、問われますか?」


 藤谷は顔を俯けたまま俺に問いかけて来る。

 俺は椅子の背もたれに身を預けて足を組む。


「……お前を刺した二人は警察で取り調べを受けている。……例えば、お前がその怪我を事故だと言い張るのなら、まあ……事故にしてやれないこともないが、俺はする気はない。あの女も男もきちんと罪を償うべきだ」


 口を噤んだ藤谷は、じっと両手の中に有るペットボトルを見つめている。前髪が邪魔で、こいつがどんな顔をしているのか俺からは見えなかった。

 なんだか長いこと藤谷は、黙っていたような気もするが雨がまた少し強さを増したころ、ぼそぼそと口を開いた。


「祖母が、亡くなってから……色々な家を転々として、何度目かの家で葬式が出て親族が集まった時、レイコさんが私を引き取ると言ってくれたんです」


 ぽつぽつと藤谷が言葉を紡ぐ。


「父の母だった祖母は私が嫌いでした。……私の顔は、母にそっくりらしくて、それに祖母は、思い通りにならなかった息子のことも嫌いで、嫌いな人間から生まれた私を疎んでいました。それでも祖母は四年もの間、私を育ててくれました。藤谷の家は、それなりに大きな家で家政婦さんに私は家事を教わって、少しでも祖母に好かれようと頑張りましたが、他の孫のように愛しては貰えませんでした。そして祖母は、風邪をこじらせ肺炎でこの世を去りました。私は施設に入るのだとばかり思っていましたが、私は伯父の家に引き取られました。伯父はとても厳しい人で伯父夫婦は私をいないものとして扱いましたが、一年も経たないうちに従姉が年ごろになるからと今度は、叔母の家に引き取られました。そうやって長い時は一年、短い時は二週間、色々な家を転々としました。でも、そのどこにも私の居場所はありませんでした」


 ぺこん、と藤谷が握りしめたペットボトルが間抜けな音を立てた。


「……でも、レイコさんは私に居場所をくれました。葬儀場で私を押し付け合う親族の中で「なら、あたしが引き取るよ」と言ってくれたのがレイコさんでした。いつも押し付け合いの末に渋々私を引き取ってくれているのに、レイコさんは初めて自分からそう言ってくれた人でした。レイコさんには借金があって、私は返済を手伝うように言われました。別に理由なんて何でも良かったです。私は初めて藤谷充という人間を必要とされたことが嬉しかったんです。初めて私を進んで引き取ってくれた人の役に立ちたくて私は頑張りました。中学生の頃は新聞配達と牛乳配達くらいしか仕事はありませんでしたが、中学を卒業すると色々なバイトが出来るようになって、お金を渡すと嬉しそうにしてくださいました……真尋さん、レイコさんは私に初めて居場所をくれた人なんです。だから、私のこれは……事故なんです」


 藤谷がゆっくりと顔を上げた。

 俺は足を組み直し、足元にあったアタッシュケースを手に取って中から書類を取り出してその書類を藤谷の手元に置いた。


「レイコの出生をお前は知っているか?」


 いえ、と書類を見もしないで藤谷は小さく首を横に振った。


「レイコはお前の父方の祖父の愛人の娘。つまりお前の叔母でありお前の父の異母妹だ。レイコとその母は、お前の祖父が生きていた十二年前までは毎月、二百万ほど貰って生活していた。それ以外にも愛人が強請れば強請るだけお前の祖父は金を与えたらしい。だが、祖父が死んで金の供給が途絶えると母子はすぐに貧困にあえぐことになりレイコは金の無くなった母を捨てた。レイコは男の財布を当てにして生きていたらしいが、年を経て昔ほど男が釣れなくなった頃、お前に目を付けて引き取った。警察の取り調べでレイコはお前のことをこう言っているそうだ「あれは都合の良い子だった。何をしなくても、何を与えなくても金を運んで来る都合の良い子だった」と」


 ぺこん、ぺこんとまた藤谷の手の中でペットボトルが間抜けな音を立てる。


「そんなことは最初から、知っていましたよ」


 藤谷は淡く微笑んで何でもないことのように言った。


「あのミナヅキグループの後継者でもある真尋さんには、分からないかも知れませんが……誰にも必要とされない恐怖も、居場所がないという恐怖も。私は、どんな理由であろうとも、私なんかを必要としてくれる人の傍にいたかっただけなんです」


 吐き出された言葉は、刺々しくて俺を突き放すための冷たさを孕んでいた。藤谷の目は暗く淀んで俺への敵意すらそこに浮かんでいる。


「だからこれは、事故です」


 藤谷は、俺の目を真っ直ぐに見つめてそう言い切った。


「ならどうして……お前は、お前に居場所と存在価値を与えたレイコを騙して、金を貯め、勉強をして大学に行こうとしていたんだ」


 その垂れ目に一瞬、動揺が走る。


「洗濯機を置くためのあんな狭いスペースで膝を抱えて眠る夜が辛かったんだろう。奪い取られるばかりで与えられないことが寂しかったんだろう。その体に振るわれる暴力が、怖かったんだろう?」


 俺はじっと揺れるその瞳を見据えた。


「お前は、逃げ出したかったんだろう? レイコから」


 パキン、とペットボトルが一層大きな音を立てて、水の揺れる音がした瞬間、それは俺の顔面に向かって飛んで来ていた。ずっと見ていたのだからそれが飛んでくることは分かっていて俺は咄嗟にベッドを蹴るのと同時にアタッシュケースを盾にした。キャスター付きの椅子が後ろへと下がり、アタッシュケースに当たったペットボトルは、床に転がって、書類もばらばらになって床に散らばる。


「知ったような口を利くなよっ!!」


 アタッシュケースを下ろせば、怒りに歪んだ顔が俺を睨み付けていた。


「あんたみたいに、何でもかんでも持ってるような人間に俺の気持ちが分かって堪るかっ!!」


 先ほどまで部屋の中に確かに在った静寂がその怒鳴り声に散らされる。


「家族の食事の残飯を犬みたいに床で食わされたことも、真冬にベランダに締め出されたことも、炎天下で一日中草むしりをしたことだって、一週間水しかもらえなかったことだって、あんたは経験したこと無いだろ!? 理不尽に殴られることの怖さだって、あんたには分かんないだろ!? あんたは知らないから、そんな風に偉そうなことが、分かったようなことが言えるんだよっ!!」


 俺は立ち上がり、傷の出来たアタッシュケースを椅子に置いて藤谷に近付いて行く。カシャン、と点滴台が倒れてけたたましい音を立てると同時に胸倉を掴まれていた。

 ふーふーと荒い呼吸をしながら藤谷が俺を脅すように睨み付ける。まるで袋小路に追い詰められた猫のようだ。


「分かりもしないくせに、分かったような口を利くなっ」


「……そうだな、俺はお前の辛さも苦しみも何一つとして分からん。だが……お前にだって俺の苦労や寂しさなんて分からないだろう」


「はっ、あんたみたいな恵まれた人間の苦労なんて知るかよっ」


 藤谷は吐き捨てるように言って引き攣った笑いをその顔に浮かべた。胸倉を掴む手に力が籠められて少し苦しい。

 きっと俺は自分より体も大きく年上の男の怒りに晒されているのだから、怯えて逃げ出したって、寧ろ、ぶん殴ったっていいんだろうけれど、俺はそのどちらも選ぶ気にはなれなかった。


「……俺とお前は全く違う人間なんだから、俺とお前の辛い気持ちが比べられる訳が無いだろう。比べたって何の意味も無いことだ」


 俺の胸倉を掴む包帯の巻かれた震える手に自分の手を重ねた。点滴の針がずれてしまったのか、その腕から血が垂れて白いベッドに赤いシミが出来る。


「だが……独りが寂しいことや怖いことくらいは、俺だって知っている」


 そっと藤谷にもう片方の手を伸ばした。俺の手に一瞬びくついたのに気付かないふりをして、いつも良い子良い子と弟たちにするようにその髪を優しく撫でた。


「言っただろう? 俺は下僕にも優しくする男だと……孤独以外の全てをお前に教えてやると。だから、そう怯えて警戒するな」


 びくりと藤谷の体が強張ったが無視してそっと抱き締めた。

 きっとこんな風に抱き締められたことがないのであろう体は、俺の腕の中でどうして良いか分からずに固まっている。

 子どもをあやすようにぱさぱさのその髪を撫で、もう片方の手でとんとんと背を叩く。強張っていた背からだんだんと力が抜けていく。けれど、自分と俺の間にある藤谷の手は、縋り方を知らないようでだんだんと力を失って今は彼の体の横に投げ出されたままだ。

 俺は何も言わなかった。藤谷も何も言わなかった。雨の音だけが時間が流れていることを教えてくれる。


「誰かの、腕の中、は……」


 不意にか細い声が胸元から聞こえて来た。藤谷は俺の胸に耳を当てて、驚いたように片手で口元を覆っている。


「どんな世界なのか、何が聞こえるのか、何が、あるのか……知らなかった、けど、」


 途切れ途切れの言葉が彼の目から溢れる涙と一緒に落ちて行く。


「心臓の、音が……聞こえるんだ……っ」


 顔を上げた藤谷が、くしゃりと笑った。

 ぼろぼろと伝って落ちて行く涙が彼の頬を濡らす。


「それに、とても……あったかくてっ、俺、おれっ……ごめっ、ごめんなさいっ、俺っ」


 俺から離れて涙を布団で拭おうとする藤谷の手を掴んで止めて、その顔を覗き込む。


「ずっと我慢していたんだ。好きなだけ泣け。俺の胸くらいならいくらでも貸してやるから」


 な、と穏やかに微笑んでぽんぽんとその頭を撫でれば、藤谷は俺の言葉をゆっくりと咀嚼して理解すると、くしゃりと歪んだ顔を両手で隠すように覆って背を丸める。

 俺は胸の借りかたも知らない彼を再び抱き締めた。よしよしとその背を撫でる。


「今までよく頑張ったな」


「ふっ、ううっ、うぁぁあああああああ……っ!!」


 耐えきれなかった嗚咽が溢れ出して、子どものような泣き声が広い病室に響き渡る。


「も、やっ、もうやだぁぁああっ、おれ、おれだって、おれだって……あい、されたかっ、た……なの、になんで、な、で、もう、やだっ、やだあぁぁあああっ」


 その言葉が胸を抉るように突き刺さって俺は、抱き締める腕に力を込めた。

 やだやだと駄々をこねるように泣きながら藤谷は、それ以降も何かを言っていたけれど烈しくなる嗚咽に邪魔されたその言葉たちは明確な輪郭を持つことは無く、正確な意味も形も分からなかったけれど、ただ愛されたいと願った十八年間の想いをぶちまけながら泣いているように思えて、俺はただ抱き締めていてやることしか出来なかった。










 結局、あの日、一時間ほど泣いた藤谷は、泣き疲れて眠ってしまい、その上、翌日から三日も熱を出して寝込んでしまったためにろくに話が出来なかった。多分、気が緩んだのだろうと医者が言っていた。

 毎日、見舞いには通ったが平日は俺も学校や稽古があるのでそんなに長居は出来ず、熱が下がって少ししてからは藤谷もリハビリを始めてすれ違うこともあったので、一冊のノートを藤谷に渡した。雪乃に相談したら「交換日記をしたらどうかしら?」とアドバイスをしてくれたからだ。

 このノートはとても役に立った。藤谷も面と向かって話すより、こちらの方が少しだけ素直になれるようだった。病院の中であったこと、リハビリを頑張ったこと、こんな夢を見たこと、他愛のない話題の中に少しずつ「面白かったです」「驚きました」「少し大変でした」と藤谷自身の感情が添えられるようになった。俺は感想と共に、学校であったこと、雪乃や弟たちのこと、友人のことなどを書いた。このノートは、藤谷が退院した後も二年ほど続けられることになるとはまだこの時の俺は知らなかった。

 そんな日々はゆっくりとだが確実に過ぎていき二冊目のノートが一杯になろうかというころ、藤谷は喫茶店のマスター夫妻、園田武明さんと早苗さん夫婦のもとに養子に入り、名を藤谷から園田充に改めた。

 あの馬鹿は、最初、迷惑を掛けたくないと拒んだが、マスター夫妻は笑って受け流してしまった。

 マスター夫妻には、もともと息子二人と娘が一人いるが、実は三人と夫妻に血の繋がりは無い。長男と長女は実の兄妹でマスター夫妻の親友夫妻が亡くなってしまい幼稚園生だった二人を引き取り、数年後、その長男と長女が小学校に行こうとした時に玄関を開けたら、生後三か月くらいの赤ん坊が毛布に包まれ籠に入れられてそこに置かれていて、その赤ん坊が三人目の子どもになったのだというから驚きだ。

 とはいえ園田はマスター夫妻の四人目の養子になったとは言ってもそれは戸籍上のことで、園田夫妻と本人が一緒に暮らしたことはない。

 雨の降る十一月の七日、園田は退院したその足で水無月家にやって来た。

 あれから五年が経って、もう六年目に差し掛かろうとしている。


「あのリスザル様は本当に良い仕事をしてくださいました」


 しみじみと俺の隣でカメラを抱き締めながら園田が言った。

 リスザルたちは、あのあと暫く俺と雪乃の傍に居たが、餌の時間になるとすぐに係員の呼ぶ声にこたえるようにして戻って行った。

 今は園を後にして鈴木家の運転手の市川さんが運転する車で、旅館に戻る途中だ。まだ午後二時だが雪乃に無理はさせられない。俺と雪乃はそのまま宿に残るが、その代わりに弟たちは園田と一路と海斗と共に町の方へ出かける予定になっている。土産屋を見たいらしい。


「泣きながらカメラを構えるのは止めろ。通報されて連行されても迎えには行かないからな」


「すみません、迸る激情が抑えられず……っ」


「お兄ちゃん、みーくんにそんなこと言ったって、泣き虫さんだから無理だよ」


「お兄ちゃんのことになるとみーくんはすぐ泣くからね」


 真咲と真智がそう言って笑えば、一路と海斗もつられて可笑しそうに笑った。


「ふふっ、充さんは真尋さんが大好きだもの仕方が無いわ。ねえ、充さん」


「はいっ!」


 園田が嬉しそうに笑って頷いた。雪乃はこいつを甘やかしすぎだと思う。


「充さん、ハシビロコウさんを随分と気に入ってらしたようだけれど」


「はい! あの威圧感のあるところがどことなく真尋さんに似ているような気がいたしまして!」


 ぶふっ、とどこかの兄弟が噴き出したのが聞こえた。じろりと睨めば、海斗は背中を丸めて肩を震わせ、一路はその背に突っ伏して体を震わせている。


「それにあの灰色の翼や羽根も薄っすらと青みがかっていて、本当に綺麗なのですよ」


 園田は無邪気に笑いながら言った。

 あれこれ言う気も失せて、そうか、と頷いて返した。

 それから嬉しそうにハシビロコウの魅力について語る園田の話に耳を傾けている内に車は旅館へと到着する。

 一度、荷物を置いてから出かけると言うので全員、車から降りる。俺は雪乃の腰に腕を回して、旅館の玄関へと向かうが、ふと、何やら騒がしいことに気が付いた。

 中へ入れば、スーツ姿の男が女将になにやら言い募っているようだった。雪乃を後ろに庇えば真智と真咲が不安そうに雪乃の手にしがみつく。一路と海斗が俺の隣に並び、園田が俺の前に出た。


「だから、ここにいるって言ってるんだ、部屋を教えてくれれば俺が会いに行く!」


「申し訳ありませんがお客様の許可なしにお客様のお部屋をお教えする訳にはいきませんし、そちら様がおっしゃるお客様がここに宿泊しているかどうかもお教えする訳には行きません。どうぞ、今すぐお帰り下さい」


「絶対にここにいるんだ、朝、ここから出て行くのを見たんだからなっ!」


「今すぐお帰り下さい。そうしないと警察を呼びますよ?」


 俺に気付いた女将が、目の前で騒ぎ立てる男に気付かれないように着物の袖の中で小さく、外へ行くようにと指を振った。

 どうやら俺を探しに来たお客様らしい。最近は、ストーカーもいないと思っていたのだが、俺の預かり知れないところで湧いていたのだろうか。と首を傾げると同時に男が「くそっ」と舌打ちして、踵を返した。


「まあ」


 俺の後ろで雪乃が声を上げた。

 そこにいたのは、園田の、いや藤谷充の父だった。

 父親は、園田に気付くと顔を輝かせた。


「ああ、ここにいた! やっぱりここにいたんだ!」


 そう言いながら両腕を広げてこちらにやって来ると園田の腕をがしりと掴んだ。


「あ、おい!」


 海斗が父親の腕を掴んで離そうとするが、父は聞いていない。


「漸く会えた……っ! 会いたかった、ずっとずっと!」


 目を潤ませながら安っぽい言葉を吐き出す父親に俺は吐き気を覚えながら、やれやれと肩を竦めて前に出ようとした時だった。


「ええっと……あの、どちらさまでしょうか?」


 園田の心の底から困り切った声が父親の顔を凍らせた。

 父親の腕を園田から引っぺがそうとしていた一路と海斗がぱちりと目を瞬かせて、園田を見ている。


「申し訳ありません。あの、以前どこかでお会いしたでしょうか? もしや私をどなたかとお間違えでは?」


「な、なにを言って……俺だよ、俺が分からないのか?」


 父親が頬を引き攣らせるようにして笑いながら園田に問う。園田は、困り顔で父の顔をじっと見つめる。あれは嘘をついている顔ではない。極々真剣に本気で言っている顔だ。

 だが、当然かと納得する。

 園田は垂れ目だが、父親は吊り目だ。似ている箇所は背格好だけで、それ以外は全く似ていない。唯一の共通点は、血液型と性別くらいのものだろう。それに園田を捨てた時、父親はまだ三十代だった筈だが、今は五十代後半に差し掛かり、仕事の所為か家庭が上手くいっていない所為か、随分と老け込んでいて若い頃の父しか知らない園田には、それが自分の父親だなんて分かる訳が無い。


「私の主に御用だったとしても今はご遠慮くださいませ。ご友人とご家族との極々私的な旅行の最中です。ここまで押しかけてくることがどれほど無礼なことか今一度、お考え下さいませ」


 そう言って園田が自分の腕を掴む父親の手を外させれば、その手は呆気無く離れて体の横に力なくぶら下がる。


「本当に俺が、分からないのか? いいや、そうだ、分からないふりをしているんだろう? 拗ねて口を利かなくなることがよくあったものだからな。そうだよ、そうだ、拗ねているだけなんだろう? 俺は、俺はお前の」


「ぐえっ」


 目の前に立っていた園田の襟首を掴んで後ろへ引っ張った。潰れたような声を出した園田はそのままふらつきながら後ろに下がる。


「園田、これは俺の客人だ。先に雪乃と真智と真咲を連れて部屋に戻っていろ」


 俺は父親を睨み付けながら言った。父親の顔が見る見るうちに青くなっていくのが愉快だ。海斗と一路が冷ややかな視線を父に向けている。


「で、ですが……」


「充さん、この方は本当に真尋さんのお客様なんですよ。邪魔したらいけないわ、お部屋に戻りましょう? それに少し疲れてしまったから、手を貸して下さる?」


 雪乃がそう言って手を差し出せば、園田は慌ててその手を取った。


「真尋様、お医者様はどうしますか? いっそ、救急車の手配をっ!」


 園田があわあわしながら問いかけて来る。すると雪乃が緩やかに首を横に振った。


「そこまでじゃないですよ。大丈夫、座ってのんびりしていればすぐに元気になります。真尋さん、先に行っているわね」


「ああ。真智、真咲、雪乃を頼んだぞ?」


「はーい!」


「雪ちゃん、僕が鞄を持つからね!」


「みーくんの鞄は僕が持つから、雪ちゃんをお願いね!」


 俺の弟たちは何て賢くて気が利いて優しい良い子だろうか。


「分かりました。では雪乃様は必ず無事に部屋にお連れしますね!」


 そう言って園田は肩に掛けていた鞄を真智に渡すと雪乃の手を取り、ゆっくりと歩き出した。父親は、去り行く息子を呼び止めようとしたが、俺に睨まれると開きかけた口を慌てて閉じた。


「女将さーん、どこかお話しできるお部屋、お借りできますか?」


 一路が人懐こい笑みを浮かべて女将に尋ねる。女将は少し考えたあと、あ、と人差し指を立てた。空いている部屋の心当たりがあったようだ。


「水無月様が本館でご利用なさっているお部屋ならすぐにご用意が出来ますが」


「ああ、あそこか。これには勿体ないが、まあいいだろう。すぐにそこに仕度をしてくれ」


「真尋、俺と一も同席するからな」


「分かっている」


 俺は父親の腕を掴んで歩き出した。






 一緒に来た女将が手際よくお茶の仕度をしてくれて、俺と父親が向かい合うようにして座り、一路と海斗は俺の両脇に座った。女将は、お茶の仕度を終えると、失礼します、とすぐに部屋を出て行って、豪奢な部屋の中はしんと静まり返る。

 俺は座椅子に座り、ゆっくりとお茶を飲む。一路は早速、茶請けの菓子に手を伸ばしていた。本当にこいつは甘いものが好きだ。

 

「それで、何の用があってここへ来たんです?」


 海斗がとってつけたような丁寧口調で園田の実の父親・藤谷(すぐる)に問いかけた。

 目の前、座布団の上に座った藤谷秀は、居心地が悪そうに尻をもぞもぞさせている。


「あ、あれの父親は、俺だ……っ」


「え? どちら様って言われたのに?」


 一路が、くすくすと笑いながら小首を傾げた。淡い茶色の髪がふわふわと揺れる。

 藤谷の頬に朱が走る。


「お、お前が……お前が息子に何か言ったんだろう!? でなければ実の父親にあんなこと……っ」


「言う訳が無いと?」


 藤谷の言葉を遮って、代わりにその先に続くはずだったのだろう言葉を繋げた。藤谷は、そうだとでも言いたげにぎこちなく頷いた。


「あいつが幾つになったのか、お前は知っているか?」


「……二、二十三だ」


「ああそうだ。あいつはもう二十三だ。お前があいつを捨てて出て行って、十六年だ。お前はその間、一度だって充に会いに来たことは無かっただろう? 息子を押し付けた自分の母親の葬儀にだって顔を出さなかったそうじゃないか。お前を疎む一族がわざわざお前の写真を充に見せると思うか? 自分を捨てた父親の顔など忘れてしまうに決まっているだろう」


 湯呑を茶托に戻して、座椅子の背もたれに身を預ける。


「その十六年間、いや、俺と共に過ごしたこの五年は除こう。俺と出会うまでの十一年間、自分の息子がどれほど辛い思いをしたか知っているのか?」


「お、俺だって苦労したんだっ。それにあいつは一度だって俺に連絡なんて寄越さなかった、知っていたら、俺だって」


「寝言は寝てからいいなよ、おじさん」


 一路がすっぱりと切り捨てた。可愛らしいその顔に冷たい笑みが浮かんでいる。


「七歳の時に捨てた時点でおじさんはもう父親なんかじゃないんだよ。ただの遺伝子提供者。畑に種蒔いただけの無責任な農夫だよ?」


「俺の弟の言う通りだ。寝言はベッドの中で誰にも害を及ぼさないように言えよ。至極不愉快だよ? そもそもさ……七歳の小さな子どもが連絡先も知らない父親に連絡なんて出来る訳が無いじゃん。考えが浅墓すぎるよ」


 海斗がすっと青い瞳を細めた。両者とも顔が良いだけに迫力がある。

 それでも藤谷は怯みながらも何かを告げようと口を開くが、俺はそれを阻止して言葉を先に紡ぐ。


「流石はお前みたいなクズを産んだだけはあって、あいつの祖母は実の孫であるあいつをほぼ放置して、顔を合わせれば「あの女に似ている」「憎たらしい」「顔を見せるな」と怒鳴ったそうだ。その後、祖母が死んだ後、あいつを引き取った伯父や叔母もクズばかりだった。……あいつは、時に台所の床の上で犬の皿に入れられた家族の残飯を食わされ、真夏の炎天下の中、一日中草むしりをさせられ、真冬の風呂場で延々と躾と称して冷水にしたシャワーを掛けられ、そのまま極寒のベランダに出され、一週間もの間、飯を抜かれた。冬だろうが半袖のTシャツ一枚きりで、家族が旅行に行く時はあいつは公園で野宿を強いられていた。児相の職員が来てもあいつは虐待を受けていることを口に出来なかった。日々、憂さ晴らしのように殴られて、蹴られて……学校にもろくに行かせてもらえず、積立金を払って貰えないから修学旅行にも行けなかった。服やおもちゃの一つだって買って貰えず、十分な飯も貰えず、愛されもせず、ただ罵倒と暴力の中だけで生きて、しまいにはお前の父親の愛人が産んだ娘に引き取られ、金を搾取され、その身に有り余る暴力を受け続け、あわや殺されるところだった」


 握りしめた湯呑がぴしりと音を立てた。


「あいつは、出会った時から年齢にそぐわない丁寧な言葉遣いと物腰をしていた。それが何故か分かるか?」


 藤谷は目を左右に泳がせて悩んだ後、首を横に振った。


「……八歳の頃、祖母が「お前の両親とは真反対の上品な人間になりなさい」とあいつに言ったからだ。あいつはそうすれば愛してもらえると思って、必死に周囲の大人の真似をして言葉や仕草を真似た。それはあいつにとってその身と心を護る仮面になった」


 ぴしぴしと湯呑が音を立てる。


「それでも誰にも愛されなかったあいつは、その時付けた仮面を未だに外せないままでいる。俺の前ですら外したのは、たったの一度きりだ。知っているか? 俺のもとに来た当初、あいつは床で飯を食おうとした。座れと言えば必ず床を選び、風呂に入る時にシャワーしか使わずにいた。広い部屋の片隅でいつも怯えたような顔をして、撫でようとするとびくりと怖がり、何かをしてやるとすぐに「ごめんなさい」「すみません」と口にした。欲しいものを欲しいということも、好きなものを好きということすら知らなかった。何かを与えれば「これは私のですか?」と必ず不安そうに聞く。ノートの上に綴った文字の中でしか自分の本当の気持ちを言えず、熱を出していても具合がどれほど悪くても、それを口にすることすら出来ず……倒れた時に「怒らないで」と怯えて泣いた息子の何をお前が知っていると言うんだ!!」


 机に打ち付けた湯呑が、パリンと音を立てて砕け散った。

 ひっ、と藤谷が情けない声を出した。


「抱き締めた時に泣きながら「心臓の音がする」と笑ったあいつの何をお前が知っているとほざく?」


 俺はふっと笑いながら小首を傾げて、真意を尋ねる。藤谷は、蛇に睨まれた蛙のようにがたがたと震えながら俺の視線から逃げるように小さくなる。


「うちに来て追い返された時点で大人しくアメリカに帰っていれば、全てを失うこともなかっただろうにな」


「…………え?」


 藤谷の喉から干からびたような声が漏れた。

 だが俺がそれに答えるより先に一路の手が俺の手を掴んだ。


「真尋君、血が出てるよ、もう怒りに任せて湯呑割っちゃだめでしょ?」


「医者呼ぶほどでもねーけど、これ巻いとけよ」


 一路に手を抑えられ、海斗が自分のハンカチを俺の右手に巻いた。右の手のひらに三センチほどの傷があった。浅い傷だが血が溢れて、机と湯呑が赤くなっているし、お茶も零れている。一路が洗面所から備え付けのタオルを持ってきて机の上を拭く。


「おじさん、日本で油売っている間も自分の大事な会社のことちゃんと気にかけなきゃ駄目だよ?」


 海斗が笑いながら言った。

 ばっと顔を上げた藤谷の目が不安に見開かれる。


「そもそもミナヅキを敵に回した時点でoutに決まってるのにねぇ。世界に名をとどろかせるグループトップの一族がさぁ、そんな名も無いような小さな会社を助けてくれるなんて本気で思ったの?」


「おじさんの会社が消えたところでミナヅキが困るものなんて、何一つないんだよ? それとおじさんの家庭が壊れてもね」


「な、なにを……」


 俺は一路と海斗に礼を言って、右手を見ながら口を開く。これはまた雪乃に怒られそうだ。


「お前の会社はミナヅキの子会社に買収された。お前は代表取締役を解任されて、お前の妻からは離婚届けを預かっている」


「奥さんと子供たちはある国にある凄く快適な僕んちの別荘に避難して貰ってるから大丈夫だよ。だってさぁおじさん、DVはいけないと思うよ? あと浮気も僕は不潔だと思うなぁ。困るよね、愛人さんの間にも子供がこの間生まれたばっかりなんでしょ?」


「その上、お前、愛人に独身だって偽って結婚の約束までしてたらしいじゃん。でも、安心しなよ。お前の奥さんと愛人につけた弁護士は、父さんの知り合いのすっごく優秀な弁護士さんたちだからさ」


 一路と海斗が矢継ぎ早に告げた言葉に藤谷の顔からだんだんと血の気が失われて行く。


「お前の会社の女子社員数名からもセクシュアルハラスメントの訴えが出ているし、お前の秘書からはパワーハラスメントの被害が訴えられている。お前の持つすべてを売り払っても慰謝料には足りんかもしれんが……自己破産はさせんぞ? お前みたいなクズに相応しい就職先は俺が世話をしてやるから安心するといい」


 俺は立ち上がって、藤谷の隣に膝をつきその胸倉を掴み上げ、こちらを振り向かせた。


「あいつがお前のことなど忘れ切っているからこそ、俺も何もしないでいようと思ったのに……お前自身がわざわざ飛び込んで来たのだからそれ相応の覚悟は出来ているのだろう?」


 ふっと笑ってその目を覗き込む。ぐらぐらと揺れる黒目の中に恐怖と絶望がじわじわと滲み始めている。


「……お前の息子が味わった十一年間の苦汁をよーく煮詰めて濃縮して更に味を濃くして熱々のまま飲ませてやるからな。喉が焼け爛れて声が出なくなっても尚、飲ませ続けてやる。あいつはそうやって生きて来たんだからなっ……覚悟しろよ、クズ野郎」


 ぎりぎりと手に力を込めれば、藤谷は「ぁ、ぁ」と小さな声を漏らした。どんと突き放すように手を離せば、藤谷は頭を抱えてガタガタと震えだす。


「ミナヅキに手を出したんだ。……お前に幸福が一つでも残るなんて、思うなよ?」


 俺はそれを眺めながら、ただ静かに笑った。







―――――――――――――――

ここまで読んで下さって、ありがとうございました!!

いつも閲覧、感想、お気に入り登録、励みにさせて頂いております。


新年早々、不穏ですみません(汗)

次回は雪乃さんか一路視点でこのお話は終わりになります。(予定)

でも次の更新は執事か本編番外かは分かりませんっ!!


昨年は本当にお世話になりました!

今年も「称号は神を土下座させた男」を作者共々、宜しくお願い申し上げます。


次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪



追伸


Twitter始めました⇒hrsn36


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