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執事と奥様inイギリス 後編


 本日は、一路様、海斗様ご兄弟のお母様――エレナ様のご実家、クロフォード家にお邪魔させていただいております。

 雪乃様と真奈美様は、本場のイギリス料理をエレナ様と律子様(一路様ご兄弟の祖母)に教わりたいとキッチンにおられます。真尋様は、一路様と海斗様の父・兵馬様とジェローム様(一路様ご兄弟の祖父)様とチェスを楽しんでおられます。

 一路様と海斗様、真智様と真咲様は料理の手伝いを終えて、今は暖炉の前で何やら歓談しておられます。真尋様は一路様によりキッチンに入ることをそもそも拒否されて、ジェローム様とずっとチェスをしています。

 私は、出来上がったお料理をダイニングのテーブルに並べていきます。クロフォード家にはメイドさんがいるそうですが、クリスマスの今日、イギリスでは基本的にすべてのお仕事がお休みです。学校や会社はもちろん、公共交通機関でさえ終日運休で、クロフォード家のメイドさんもお休みで、家族と過ごしているそうです。


『みんな、そろそろディナーの時間ですよ』


 律子様の声に皆がダイニングへと移動し始めます。

 律子様は、日本を離れたのが幼いころで、イギリスで過ごした時間のほうが長く、日本語はほとんど話せないそうです。近年、少しお体を悪くされたそうですが、今日は娘一家が遊びに来ているとあって、とてもお元気そうです。

 ダイニングの長テーブルには、たくさんの料理が並びます。

 全員が席に着くと、ジェローム様の後に続くようにして食前のお祈りをして、楽しいクリスマスディナーの始まりです。


「うわぁ、大きなチキン!」


 やはり目を引くのは、ひときわ大きなそのお料理です。


「これはチキンじゃなくて、ターキー、七面鳥だよ」


 海斗様が緩く首を横に振って訂正を入れます。


「七面鳥?」


「そう。日本ではなんでかチキン……鶏肉を食べるけど、こちらでは七面鳥を食べるのが普通なんだよ」


「そりゃあ、おいしいよ。切り分けてあげよう」


 そういって兵馬様が専用の大きなナイフとフォークで七面鳥を切り分けてくださいます。人数が多いので、七面鳥はもう一羽いて、それは、真尋様が器用に切り分けていきます。真尋様は食材を切ることはとてもお上手なのです。

 柔らかくジューシーなもも肉をお皿に乗せてもらった双子様は、がぶりと噛みつきます。もぐもぐと動く頬に比例して、お二人の表情がぱぁっと輝きます。


「おいしい!」


『おばあ様、エレナさん、すごくおいしいです!』


『ありがとう。たくさん食べるのよ』


 律子様が嬉しそうに頷いて、他の料理も勧めます。

 双子様の間に座る真奈美様もにこにこしながら、子どもたちと楽しそうに食事をしておられました。

 私は僭越ながらその向かいのお席で雪乃様の隣に座らせていただいております。真尋様は反対隣りにいて、その隣りに海斗様、海斗様の隣には兵馬様、向かいのお席には律子様とエレナ様、そして、一路様が据わっています。家長であるジェローム様は正面のお席です。


『あらあら、本当にたくさん食べるのね。作った甲斐があるわ』


 律子様が、淡々と上品に、しかし、驚くほどたくさん食べる真尋様に感動の声を漏らしました。真尋様が『とても美味しいです』と答えます。

 エレナ様が『だから作り甲斐があるのよ』と律子様の言葉にうなずいています。

 イギリスでは旅行者も十八歳以上から飲酒が許されますので、真尋様はおいしそうにワインを楽しんでおられます。私もお酒は好きなので、今夜はクロフォード家に泊まらせて頂けるので運転の心配もございませんので、久々にお酒を楽しんでいます。


『春には、よりにぎやかになりそうだね』


『おじい様、俺たちはここに下宿したいんだけど、いいかな?』


『もちろん』


 ジェローム様は、海斗様の申し出に嬉しそうに頷きました。


『真尋くんたちもこちらに来るなら、より一層にぎやかで楽しくなりそうだ。孫たちをよろしく頼むよ』


『こちらこそ。おじいさまには素晴らしい家を紹介していただけて、春にこちらへ来るのが楽しみです。なあ、雪乃』


『ええ、本当に。あんなに素敵なおうちに住めるなんて、夢のようです』


『あの家は古いが、歴史のある良い家だ。それと雪乃さん、もし体に不調があれば遠慮なく頼ってくれ。私の兄の息子の娘、つまり一路たちの従姉妹が腕のいい医者でね。今度、紹介しよう』


『お気遣い、ありがとうございます。心強いです』


 雪乃様がにこやかに応じます。


『ねえ、お母さんはフランスに住んでるんだよね』


 真智様が尋ねます。真奈美様が、ええ、と頷いて返します。


『日本より近いから、春になってあのおうちに住んだら、また遊びに来てね』


『近いから大変じゃないでしょ?』


『……いいの?』


 真奈美様が目を丸くしています。

 私も真智様と真咲様が、真奈美様にこのようなことを言っているのを初めて聞きました。双子様は、いつも真奈美様が帰ってきて、再び出発する時も泣いたことも、さみしがったこともありませんでした。「行ってらっしゃい」「元気でね」でおしまいだったのです。


『うん、いいよ』


『ね、お兄ちゃん、雪ちゃん、僕たちのおうちに遊びに来てもいいよね?』


 真智様が真尋様と雪乃様に尋ねます。

 真尋様がワイングラスをおいて、ちらりと雪乃様を見ます。


『もちろんよ。お義母様、ぜひ、気軽にいらしてくださいね。お食事の用意があるから、事前に連絡をくださると嬉しいですわ』


『ありがとう、雪ちゃん。必ず連絡するわ。……真尋もいいかしら?』


 真尋様は、相変わらずの無表情で真奈美様を見ていました。


『俺は別に……雪乃がいいならかまわん。好きにすればいい』


 雪乃様が、じとり、とにらみますが、真尋様はどうして睨まれているのかが分かっていないようでした。

 真尋様、言葉が、あまりにも言葉が足りないのでございます。

 真奈美様は『ありがとう』とおっしゃいましたが、どことなく寂しそうな雰囲気でした。しかし、双子様に声をかけられると、いつものはつらつとした笑みを浮かべて、食事を楽しみ始めます。

 それからごちそうを食べ終えた後は、順番にシャワーを浴びて、就寝時間となったのでした。









 皆が寝静まった屋敷の中は、外に積もった雪の影響もあって、驚くほどの静寂に包まれていた。

 私――真奈美は、なんとなく寝付けずにバルコニーへ出た。

 外は雪のおかげで淡く明るかった。ベッドを振り返れば、愛しい子どもたちがぐっすりと眠りこんでいる。傍らには眠る直前まで読んでいた本がおかれている。


「さすがに、寒いわね」


 吐いた息は白く凝る。

 クロフォード家の庭は、バラの咲く季節が一番の見ごろだと教えてもらった。以前、その時期に訪れたらしい一番上の息子が、珍しくこの庭で撮ったバラの写真を送ってくれたことがあった。普段、業務連絡みたいな内容しかよこさないので、嬉しかったのを覚えている。

 だが今は、バラの木々は雪に埋もれ、他の木々も葉を落としてなんとも寒々しい。

 ふと隣の部屋のバルコニーに人影があるのに気づく。


「……真尋?」


 その掛け声に、人影が――真尋が振り返る。

 なんだ、母さんかと息子は、白い息とともに吐きだす。


「眠れないの?」


「いつものことだ」


 息子がある事件をきっかけに不眠症に陥っていることは知っているので、心配で首を傾げた私に、真尋は首を横に振った。


「もともと睡眠が浅い性質なのは知っているだろう? 枕が変わるとなかなか寝付けない。だが、雪乃がいるので、多少の睡眠は確保できるだろう。それにホテル生活に慣れて睡眠は確保できているので、一日寝ないぐらいでは大丈夫だ」


 息子は淡々と告げる。

 私は「そう」と頷く。


「雪ちゃんは?」


「もう寝ている」


 真尋は端的に答えると口を閉ざした。

 私の息子とは思えないほど優秀な彼は、さほど自分からペラペラしゃべるタイプではない。弟たちや雪ちゃんが喋るのを横で黙って聞いていて、意見を求められると口を開く程度だ。


「……今回のこと、本当にごめんね」


「? いきなり来たことか?」


 少しだけ眉を寄せて首を傾げた真尋に、私は小さく首を横に振った。


「違うわ。真琴さんの暴走よ」


「…………ああ、あれか」


 ぐん、と数段低くなった温度のない声に肩が跳ねる。

 真尋は、夫にとてもよく似ているが、それでも真尋のほうが数倍、美しい顔をしていた。同じような顔なのに、何かが夫とは違うのだ。

 その顔は常に表情がなく、まるで作り物めいている。


「真琴さんには一応、釘をさしておくわ。言うことを聞くかどうかは、その……分からないけれど」


 多分、仕事関連のことに関して、あの人は私の言うことなんて聞かない。

 私のことを世界一大事にはしてくれているけれど、水無月に係わることには私の夫ではなくミナヅキの経営者としての顔しか見せてくれない。


「今回、あの人、雪乃にめちゃくちゃに怒られてな」


 おもむろに息子が言った。


「ええ、聞いているわ。電話口で騒いでいたもの」


「普段、雪乃はでしゃばるタイプじゃないだろう? あの人の中で雪乃は、控えめでおとなしく、夫の一歩後ろで黙って従うタイプだったんだろうな」


「……雪ちゃんが? 雪ちゃんは黙っていてはくれるけど、黙っているからって大人しいってわけじゃないでしょ」


 私の素直な感想に真尋は、喉を鳴らして笑った。

 息子の妻であり、私の義理の娘でもある雪ちゃんは、私の知る中でもっとも凛として一本芯の通った強い女性だ。一見、儚げな見た目とは裏腹に何事にも動じず、いつも穏やかに微笑んでいる。どんな困難にも臆せず立ち向かい、自分がこうと決めたことを貫いている。

 正直、真尋とはなかなかうまく親子関係を築けなかった私が、こうして真尋と過ごせるのは雪ちゃんのおかげだ。雪ちゃんは幼いころから真尋をよくよく理解していて、真尋がどう思っているのか、何を考えているのか、ということを聞けば正解率百パーセントの答えをくれた。

 彼女がいなかったら、いくら双子が生まれても、真尋と今のような穏やかな親子関係は築けなかったでしょうね。


「昨日の昼も、母さんに無視されていたからか俺に電話をしてきてな。俺が出る前に、雪乃が電話に出たんだが……くくっ、雪乃をこれでもかと警戒していて、最後にはお礼まで言っていたので、笑いをこらえるのに精いっぱいだった」


 私の目はまん丸になっていることだろう。

 夫の所業より、息子が誰が見ても笑っているとわかるほど、笑っていることが珍しかった。よほど、真琴さんの言動が面白かったようだ。確かにあの生まれ故に偉そうな夫が雪ちゃんにおびえている姿は面白いかもしれない。


「でも、そうなのね。あの人ったら……」


「雪乃に母さんに電話に出るように頼んでくれ、と言っていた。雪乃は『海外だもの、時差があるでしょう』と笑って、明日の朝伝えると言っていたから、明日の朝以降、雪乃に言われてから電話に出てやってくれ」


 真尋はそう言って肩をすくめた。


「雪ちゃん、相当怒っているのね。……あの人、何かとんでもなく失礼なことを? なんだかすごい色々言ってたのよ。だまされたとか、失礼だとか」


「失礼なのは間違いなくあっちだがな。――雪乃は子どもが産めないとかなんとかな。だが、雪乃はそれは早々怒らん。俺と真智と真咲をないがしろにしたことに、怒ってくれたんだ。俺もたびたび、彼女を怒らせるが……あんなに怒っているのは初めて見たな」


「私が言えた義理じゃないけど、あんまり迷惑かけちゃだめよ? 雪ちゃん以外にあなたのお嫁さんになってくれる人なんていないんだから」


 この気難しいを極めた息子を丸っと受け止められる女性なんて、雪ちゃん以外に存在しないと私は確信している。

 そりゃ息子の持つ美貌やら、家の金やら権力やらに寄って来る女は(男もだが)星の数ほどいるかもしれないが、夫婦として仲睦まじく穏やかに共に過ごせるのは、大らかで器の大きな雪ちゃんだけだ。


「そんなことを言うのは、母さんだけだ」


 息子はそう言って、長々と息を吐き出した。真っ白な吐息は、すぐにはらはらと消えてしまう。また雪でも降りそうだな、という息子のつぶやきに空を見上げれば、どんよりとした重い雲が夜空を覆っていた。


「……真智と真咲は、極力、ミナヅキには関わらせたくない。会社にも……家自体にも。いっそ、黛の婿養子になって、成人して条件を満たしてすぐに真智と真咲を俺と雪乃の養子にしてしまいたいくらいだ。あの人は、俺がそう思っているのを、俺の我が儘だと思っているようだがな」


「何も分かっていないのね、真琴さんは。真智も真咲もそれぞれに夢があるのに」


 真智はサッカーに関係する仕事、真咲は通訳や翻訳家といった言語に関係する仕事に就きたいと、大分前から言っている。私は夫にもそれを何度か伝えたことがあるが、ミナヅキの中でしか生きたことのない夫は、子どもの戯言だと思っているのだろう。


「…………あの人は、いつも俺の意思を、俺の我が儘だと言う。だから、対話ができないんだ」


「真尋の我が儘って、私も聞いたことないけど……どんなことを言ったの?」


「俺は起業したいと、自分の力を試したいし、自分のしたいことをしたい。だから水無月に係わる気はないと……まあ、これは我が儘と言えば我が儘だろう。あの人が俺に金をかけて教育を施してくれたことだけは、感謝している。あとは……まあ雪乃のことだな」


「結婚のこと?」


 息子は首を横に振った。


「結婚に関しては、あの人も母さんにべたぼれして、一族の反対を押し切って結婚しただろう? だから、多少の不満はあれど、あまり反対はしなかった。自分が知る感情に関して、人は寛容になるからな。むしろ、雪乃のご両親を説得するほうが大変だった。苦労はさせないなんて、俺には口が裂けても言えなかった。事実、苦労をかけっぱなしだ。……俺に娘がいたとして、将来、俺みたいなのを連れてきたら、殴って追い出してると常々思う」


「ふふっ、すごい言い草。でも、そうね……私たちの時もなかなか大変だったわ。でも私には、真尋がいてくれたから……貴方が女の子だったら、違う苦労があったかもしれないけど」


「あの家は化石みたいな価値観で生きているからな、どいつもこいつも。伯母さん以外は旧石器時代の遺物だ」


 その声に少し不機嫌が混じったように聞こえる。

 だが、確かに息子の言う通り、水無月の親族は江戸時代かとツッコミたくなるほど、男尊女卑が激しい。会社自体は時代に合わせて変化を遂げています、という顔をしているが、上層部は男ばかりで、女性の幹部もいるにはいるが、どれも水無月の血筋の人間だけだ。


「それで、雪ちゃんに関連する我が儘って結婚のこと以外なら何?」


「過ぎたことだし、別にいいだろう」


「過ぎてないわよ。私は今知ったんだから、鮮度抜群よ」


 面倒くさそうに話を終わらせようとした息子をじっと見つめる。

 すると少し悩むようなそぶりを見せた後、渋々といった様子で口を開く。


「俺と雪乃が結婚した当初、雪乃はすぐに同居する予定だったんだ。彼女も俺も、弟たちも園田も、黛のご両親も納得の上でな。だが、あの人が学生の内はだめだと反対したんだ。それだけだ」


「……雪ちゃんのご両親が反対したからだって、私は聞いていたけど?」


 真尋が雪ちゃんと結婚すると連絡してきた時、私はとても嬉しかった。真尋が呆れるくらいにお祝いの言葉を贈って、慌ただしく帰国して真尋――ではなく、雪ちゃんに真っ先に会いに行ったほどだ。

 雪ちゃんが何度も何度も死を乗り越えて、幼いころからの夢だった「真尋さんのお嫁さん」と叶えられることが、彼女の頑張りを見てきた分、本当に嬉しかったのだ。

 だが、息子夫婦は結婚した後、完全同居はしなかった。雪ちゃんは隣の実家に基本的には夜になれば帰宅している。

 真琴さんが雪乃の両親の要望だと言っていたので、まだ十七歳の娘と離れて暮らすのは寂しいのかもしれないと思っていたのだ。とくに雪ちゃんはほとんどの時間を病院で過ごしていたから、高校生になって病状が安定して一緒にいられる時間がようやく増えた。だからこそ、これまで過ごせなかった時間をご両親も一緒に過ごしたいのかな、と。十六歳での結婚は国は認めているけれど、確かに親元を離れるには早すぎる年齢だ。

 真尋も黛家の両親のことにはとても気を遣っているので、息子なりに雪ちゃんとご両親を想ってのことなのだろうと、そう思っていたのだ。


「黛のお義父さんも、お義母さんもうちで暮らせばいいと言ってくれた。自分たちは仕事で留守にすることもあるが、うちには基本的にずっと園田がいるし、例え真夜中に何かあっても俺や園田がいれば、雪乃を病院に連れていける。俺たちは雪乃の病状について詳しいし、雪乃に何かあっても安心だと。だが、あの人は高校生で同居は外聞が悪いし、双子の教育にもよくないとうるさくてな」


「双子の教育って……あの人があの子たちに何をしたって言うのよ? 真尋や、そもそも雪ちゃんがいなければ、双子があんなに真っ当に育ったわけもないのに」


 私も真琴さんも留守がちで、育児をしたなんて口が裂けても言えない。

 私は私のキャリアと仕事と自由を引き換えに子どもたちを見捨てたようなものだ。

 最初は、息子――真尋から逃げた。

 感情らしい感情がなく、転んでも平然としている子どもだった。なのに異常に頭がよくて、一歳で文字を理解して、二歳の時には大人のような口調で喋っていて、三歳で英語を喋っていた。まるでロボットのような息子とどう接していいか分からず、本当に子どもなのかも分からなくて、私は逃げた。

 だが、雪ちゃんが成長するにつれて私たちの間の橋渡しをしてくれた。

 感情なんてないんだろうと思っていた息子にも感情があるという当たり前のことを、私は雪ちゃんに教えられたのだ。

 雪ちゃんがいてくれたおかげで、真尋とはなんとか親子になれた。双子が生まれたことももちろん大きな要因だ。

 双子を抱いた当時八歳の息子が笑った時は、私は感動のあまり号泣した。家政婦の時塚さんも涙ぐんでいた。

 だが、あまりにも真尋がしっかりしているから、時塚さんもいてくれたから、真奈美は幼い双子を息子に任せて、結局、仕事を選んだ。

 雪ちゃんは病弱で病院にいることが多かったが、それでも私より双子と過ごした時間は長い。真尋だけでは、きっとあの子たちはあんなに素直に優しい子には育たなかった。そもそも真尋が優しく誠実に育ったのは、雪ちゃんのおかげなのだ。

 真尋は、日常生活に必要な所作は私や主に時塚さんに教えられた。だが、人としての大事な部分は、年下であるはずの雪ちゃんが息子に教えてくれたのだ。


「事実、雪乃がまだ実家に帰ると知った時は、双子が泣いて大変だったんだ。一緒に暮らせると思って楽しみにしていたからな。とはいえ、雪乃が夜帰るたびに泣くもんだから、最初のことはほぼうちにいたし、最近もほぼうちにいるがな。あっちのご両親も口裏を合わせてくれているし、俺はあの人に何も話さないから、あの人は何も知らないが」


「そうなのね……ごめんね、お母さん何も知らなくて……。私は雪ちゃんがいれば、真尋もちゃんと眠れるし安心だと思ってたから、深く考えてなかったのよ。世間体って、あの人は何に対する世間体を気に……」


「……母さん?」


 不自然に言葉を途切れさせた私に真尋が首を傾げた。

 何かがひっかかるのだ。世間体という理由だけでは、片づけられない何かが、そこにあるような気がして眉を寄せる。

 息子はずっと雪ちゃんと共にあることを望んでいた。今も昔も、それこそ物心がつく前から。だから、さほど家にもいない中もよくない父親の言うことを聞いた理由が分からない。真尋だったらその人より秀でた頭をフル回転させて言葉を尽くして、父親を丸め込んだはずだ。

 ふと、私は雪ちゃんが共に暮らす上で、私が最も安心した理由が一度も息子の口から出ていないことに気が付いた。


「ねえ、まさかと思うけど……真琴さん、貴方があの女の件から不眠気味だって知らないの?」


 真尋は私から視線を外して、空を見上げた。

 沈黙がやけに長く感じる。

 

「……言ったさ。恥を忍んで、眠れないから雪乃がいれば安心だ、と。だが……それもあの人にしてみれば……俺の我が儘、だ」


 息子の口元にかすかな笑みが浮かんだ。それは、嘲笑にもとれたが、愚かな父親ではなくて、自分自身を嗤っているようにも見えた。自分に無関心な父親に少しでも期待してしまった、愚かな自分を嗤っているように見えたのだ。

 私は、はくはくと唇を震わせることしかできなかった。

 雪ちゃんが最初に気づいてくれたのだ。

 あの事件以降、真尋が眠れなくなっているようだ、と私に連絡をくれた。私はすぐに日本に帰って真尋と話をした。真尋は「大丈夫」の一点張りで、無駄にプライドが高い息子は医者に行くのも拒んだ。睡眠薬の類もあまり効かないようで、だが、雪乃がいれば眠れるからと。事実、雪乃がいれば人の出入りがあるリビングでも真尋はぐっすりと眠ることができる。

 睡眠は人間にとってとても重要だ。睡眠不足は集中力の低下を招き、精神の健康にもよろしくない。だから、私はどんな睡眠薬よりも有効な雪ちゃんが傍にいてくれるならと安心していたのだ。

 夫にだって私は相談した。夫は「医者を手配しておく」とだけしか言わなかったが、それでも息子を心配しているようなそぶりを私の前では見せていたのに。


「……馬鹿な人……っ」


 私は両手で顔を覆ってうなだれた。

 馬鹿すぎて、言葉も出てこない。代わりに身勝手にも涙が出てくる。それが夫に対する失望なのか悲しみなのか、憤りなのか分からない。なのに私の頬を勝手に伝って落ちて行く。

 何か言わなきゃと思うのに嗚咽がこぼれそうで、唇を噛みしめることしかできない。少しして息子が部屋に戻った音がした。

 こんな身勝手な母親、置いて行かれるのが当たり前だとますます涙が出てくる。

 弱みを見せるのを何より嫌がる息子が、仲の良くない父親に、どんな思いで告げたと思っているのだろうか。眠れないなんて、子どもみたいなことを言ったとでも思っているのだろうか。


「お義母様、大丈夫ですか?」


 ふいに肩に触れた手に咄嗟に顔を上げるとなぜか雪ちゃんがいて、その背後に真尋が立っていた。

 どうやら息子は部屋に戻って雪ちゃんとともにこちらの部屋に来て、バルコニーまで出てきてくれたらしい。


「こんなところにいたら冷えちゃいますよ、中へ入りましょう? ね?」


 雪ちゃんの声はどこまでも優しくて、私は子どもみたいに泣きながら頷いて、中へと入る。


「あなた、私、お茶でも淹れてくるから、ここで」


「いや、俺が行く。海斗がまだ起きてるはずだ」


「何時だと思ってるの? だめよ、って……行っちゃったわ」


 呆れたように雪ちゃんが呟く。

 振り返った先で息子が部屋を出て行く背が見えた。


「お義母様、とりあえず座りましょう?」


 暖炉の前の毛足の長いカーペットにクッションを並べてくれ、そこに並んで座る。

 雪乃が私の背中をさすってくれて、泣き止まなければと思うのに涙が止まらない。


「真尋さんが急に私を起こされて何かと思ったら『母さんが泣いてる』って言うんです。私が『どうして?』って聞いても『泣いてる』しか言わないで、いきなり私を抱き上げてここに。あんなに動揺している真尋さんを見るの、久々だわ」


 くすくすと雪ちゃんが可笑しそうに笑った。


「どう、よう?」


 息子に一番似合わない言葉に私は思わず首を傾げた。


「ええ。表情こそあまり変わらなかったけど、お義母様が泣いている事態に、びっくりしていたみたい」


「びっくり」


「ふふっ、ああ見えて私やお義母様みたいな大人に泣かれると困るんですよ。ちぃちゃんや咲ちゃんが泣いてるのは対処できるんです。赤ちゃんの頃から泣くという姿をよく見ているから、慣れですね。でも自分が泣くってことがあまりにもないものだから、大人が泣いているとどうしていいか分からないみたいで」


「私……真尋が泣いてるところなんて、赤ちゃんだった頃しか見たことないわ。予防接種でさえ泣かない子だったんだもの……」


「格好つけだから泣くのがかっこ悪いと思ってるんですよ。私の前でだって、早々弱った姿はみせてくれませんもの。あのバカ高いプライドと見栄と意地の塊、どうにかならないかしら……」


 はぁ、と雪ちゃんが溜息を零す。息子の散々な言われように、私は思わず笑ってしまった。

 いつの間にか涙も止まっていて、頬に残っていたそれを手のひらでぬぐった。


「ごめんなさいね、急に泣いたりして……」


「いいえ、驚きましたけど……真尋さんに何か言われました?」


 私は首を横に振った。


「……私ね、知らなかったのよ。真尋と雪ちゃんが結婚した後、どうしてすぐに完全同居にならなかったのか……ずっと雪ちゃんのご両親が反対しているからだと思ってたの、夫にそう聞かされてね。でも、真尋にさっき、本当のことを聞いて……でも、あの子、直接は言わなかったのよ。私が違和感に気づいて、口にして、やっと認めたの。あの馬鹿な夫が反対したんだって……」


「そうですけど、私も真尋さんも高校生ですから。世間一般から見れば早すぎる結婚です。いくら私の体のことがあっても、何も知らない人にしてみれば……」


「あの人、真尋が眠れないこと、知らないのね」


 私は雪ちゃんの言葉を遮るように言った。

 真尋もそうだが、雪ちゃんも優しい子だ。馬鹿な夫のあまりに無知な所業を私のために隠していてくれたのだろう。 

 雪ちゃんは曖昧な微笑みを浮かべて、少し困ったように眉を下げて頷いた。


「……私ね、相談したの。発覚して日本に帰って真尋と話して、そのあとに。あの人、『医者を手配しておく』って言ったきり……でも、私の前では心配そうな顔をしていたのよ。なのにまさか……眠れないことを、我が儘で片づけるなんて」


 勉強のしすぎで睡眠リズムが狂って、眠れなくなったわけではないのだ。

 まだ十四歳だった息子が性被害にあった。あの家政婦だって手配したのは真琴さんだ。その結果、眠れなくなったと告げた息子の想いを、我が儘だと一蹴したことが、ありえないのだ。


「お義父様は、知らないんです。何も……真尋さんが、無表情で冷静な息子が、傷つくんだってことを……母親が泣きだしたら困って私のところにくる子どもみたいなところがあるのも、なーんにも知らない。知ろうともしない……」


 そう言って雪ちゃんは悲しそうに目を伏せた。


「でも」


 雪ちゃんが顔を上げて穏やかに微笑む。


「お義母様はちゃんと、知ろうとしてくれる。……知らなかったことを、どうか悔やまないでください。あの人、さっきも言いましたけど、バカ高いプライドと見栄と意地の塊だから、そういうことを人の言うのが苦手なんですよ。でも、お義母様にはこうしてちゃんと伝えたんですから……きっと、お義父様相手なら喧嘩になって終わりでしたよ」


「何も知らないことは、時に罪だわ……」


「今、知れたからいいじゃありませんか。そうだ、お義母様、日本へ戻ったら私、水無月家に引っ越してもいいかしら? お父様は出禁になったから、もう意見は聞きません。といっても、最近じゃ殆ど、実家には帰らないんですけどね」


 うふふと雪ちゃんがいたずらに笑う。

 彼女のこういう優しくて、すべてを包み込んでくれる温かさが私の息子をずっと救ってくれているのだろうと実感する。


「もちろんよ。貴女は真尋の大事なお嫁さんで、私にとっても大事な娘だもの。これからもあの子たちをよろしくね」


「はい、お任せください」


 そう言って雪ちゃんはぽんと胸を叩いた。

 そのタイミングで真尋がトレー片手に戻って来る。

 息子は私の顔を見ると、分かりやすくほっとしたような雰囲気になった。雪ちゃんの言う通り、私が泣いたことに動揺していたのは本当らしいと驚く。


「海斗がハーブティーを淹れてくれた」


 そう言って目の前にカップが置かれる。ふわりとカモミールが香る。


「……大丈夫か?」


躊躇いがちに投げかけられた心配に顔を上げれば、こちらの様子を窺う黒い瞳とかち合った。


「ごめんね、お母さん、何も知らなくて……」


「母さんが謝ることじゃない。俺もあの人に詳細は伝えなかった」


 きっと息子は、我が儘だと言われた時点で理解してもらうことを諦めたのだろうと想像できる。

 それは、これまでの真尋と真琴の積み重ねてきたものの結果なのだ。夫は息子に対して全く誠実ではなかった。


「今度から真尋や真智や真咲に話があるときは、私の同席を条件にするわ」


「だがそれは、難しいんじゃないか?」


「ビデオ通話があるじゃない。雪ちゃん、問答無用で真琴さんが何か言ったら私に知らせてね」


 雪ちゃんは私の提案に驚いていたけれど、ふっと優しく笑って頷いてくれた。


「充さんにもいっておきますね」


「そうね。みっちゃんにもいっておかないといけないわね。明日、私からお願いするわ」


 息子夫婦の頼れる執事さんにもお願いしておこう。それと海斗と一路にも。あの兄弟には本当に世話になっている。


「それと真尋」


 雪ちゃんの隣に腰を下ろした息子に顔を向ける。ハーブティーを飲もうとしていた彼の手が止まった。


「私が来るのが嫌だったら、ハッキリ言っていいのよ?」


 私の言葉に真尋はゆっくりと瞬きを一つして、隣の雪ちゃんを見た。


「あなたの言葉が足りないせいよ」


 雪ちゃんがジトリと真尋を見るが、本人には心当たりがないようだった。


「真尋、私が家に行っていいか聞くと『雪乃がいいなら』って言うでしょ? 貴方が嫌ならお母さんはいいのよ。母親らしいことなんにもしてあげられてないし……」


「俺は別に母さんならいつ来ても良いと思っているが?」


 息子は心底、不思議そうに首を傾げた。

 私が何で遠慮しているのかがまるで分らないようだった。


「あのね、真尋さん。あなたが私に気を使ってくれるのは嬉しいけど、そういうことはちゃんと言葉にして伝えなければだめよ? あなたはいつも私を優先してくれる分、あなたの本心が見えなくてお義母様は不安になるのよ」


「……そういうものなのか、母さん」


「え、ええ……」


 私の返事に息子は「そうか」と呟いて、何かを考えるような素振りを見せた。

 そして、私に顔を向けて口を開く。


「すまない。そこまで考えてなかった。俺は母さんの帰宅を拒んだことがないから、伝わっていると思ってた。ただ雪乃は俺の妻で母さんが来るときはいつも丁寧に準備してくれるから、許可を取るべきだと……」


 私は、そういわれて初めて確かに拒まれたことがないのに気付いた。

 そもそも気難しい私の息子は、嫌だったらどんな相手でも家に入れてくれない。


「私を優先してくれるのは嬉しいけど、お義母様からの問いの答えを私基準で返しちゃ駄目よ?」


「……だが、時塚さんが」


 ここで思わぬ名前が出てきて、私と雪ちゃんは顔を見合わせ、首を傾げる。

 どうしてここで水無月家に長年仕えてくれて、真尋も幼少期はとてもお世話になった家政婦さんが出てくるのか。


「時塚さんがどうしたの?」


 雪ちゃんが先を促すと息子は、口を開く。


「結婚報告をした時に言われたんだ。『嫁姑問題は真尋様の振る舞いで決まります。真琴様が全面的に真奈美様の味方であるように、真尋様は雪乃様の味方でいなさい。そうすれば嫁姑は仲良くいられるはずです』と……」


「あなた、それで全面的に私の意見優先だったの?」


「流石の俺だって、自分の母親と妻には仲良くあってほしい。時塚さんは自分が姑であることを踏まえてと前置きしていたので、説得力もある」


 息子は、至極まじめな顔で言い放った。

 確かに時塚には、娘が一人と息子が一人いて、どちらも既婚だった。


「ぷっ、ふ、あは、あははははは!」


 突然笑い出した私に真尋が眉を寄せた。雪ちゃんも片手で口元を覆って肩を震わせている。

 真面目な顔で何を言い出すかと思えば、と私は笑いが止まらなくなる。小難しい数学の本だとか、私にはさっぱり分からない言語で書かれた本を何でもない顔して読んでいるような息子の口から「嫁姑問題」という言葉が出て来るなんて考えたこともなかった。


「うふふふ、あなたにもそんな気遣いがあったのね」


 雪ちゃんまでくすくすと笑いだすものだから、真尋は珍しくむっとしている。


「母親と妻の仲は良いほうがいいだろう」


 ぶすっと告げる息子に雪ちゃんが「そうね」とやっぱり笑いながら答えるものだから、なかなか眉間のしわが消えない。

 なかなかどうして複雑で気難しい息子だが、割と単純なところがあるのかもしれない、と私は十八年目にして知った。


「でもね、真尋さん。私とお義母様はもともと仲良しで、言いたいことはちゃんと言える関係だから大丈夫。今度から、あなたの意見もちゃんとお義母様に教えてあげてね」


 子どもを諭すように告げる雪ちゃんに真尋がこちらを振り返る。


「そうしてくれると、嬉しいわ。お母さんは雪ちゃんほどあなたのことが分かるわけじゃないから、ちゃんと気持ちを教えてほしいの」


「……分かった。次からはそうする」


 案外、素直に頷いてくれた息子に私は、ほっと胸を撫でおろす。


「さて、そろそろ寝ましょうか。明日は明日ですることが色々とあるんでしょう?」


「明日は、双子がこの屋敷を探検すると騒いでいたな。歴史のある家だから隠し部屋があるんで、それを教えてもらうそうだ」


「何それ楽しそう! 私も参加したいわ!」


 私は思わず顔を輝かせる。


「なかなか興味深かったぞ。前に来た時に教えてもらったんだが、映画みたいだった」


「あら、楽しそうね。私も参加したいわ」


「屋敷の中だから、厚着をして参加するといい」


 真尋が優しく頷くと雪ちゃんは嬉しそうに顔を綻ばせた。

 雪ちゃんが産まれる前から真尋は雪乃を求めていて、生まれてからは産院に行きたいとかたくなに言うので困ったものだった。あまりの執着ぶりに恐ろしささえ感じたことも正直あったが、それでも幸せそうに微笑み合う二人は、きっと神様が決めた運命の相手なのだろうと、成長する過程で私は自然とそう思えたのだ。

 雪ちゃんはきっと真尋がいなければ、今、生きてはいなかった。

 雪ちゃんにとって真尋は生きるための道しるべで、真尋にとっても雪ちゃんは行く道を照らす光だった。


「雪ちゃん、真尋、ありがとうね」


「……? なにがだ?」


「ふふっ、どういたしまして」


 首を傾げた息子に反して、穏やかに答える雪ちゃんに笑みを返して、私はすっかり冷めてしまったハーブティーを一気に飲んだ。真尋たちも残りのハーブティーを飲むと、空になったカップをトレーに置く。


「部屋に置いておけば、朝、片づけてくれるそうだ」


「ならそのお言葉に甘えるわ。さ、寝ましょ。雪ちゃんには元気でいてもらわないと困るもの」


「それもそうだな」


 自分の疑問よりも大事なことらしく、真尋が立ち上がった雪ちゃんをひょいと抱え上げた。


「ま、真尋さん……!」


「だめだ。スリッパを履いていない」


「だからって、いきなりやめてっていつも言っているでしょう?」


「母さん、そういうわけだ。おやすみ」


「ふふっ、おやすみ」


「もう! ……お義母様、おやすみなさい」


 頬を心なしか赤くした雪ちゃんに手を振り返し、私は息子夫婦が出て行くのを見送った。仲が良くて何よりだ。

 私はベッドへ向かい、双子の間に寝ころぶ。どちらも気持ちよさそうに眠っている。健やかなこの寝顔は、息子夫婦が守り続けてくれたものの証だ。


「おやすみ、真智、真咲」


 そう声をかけて順番に額にキスをして、私もゆっくりと眠りの世界へと浸るのだった。











 行き先や到着を報せるアナウンスが、絶え間なく響き渡るロビーで、俺――真尋は、母を見送るために弟たちと一緒に来ていた。

 まだしばらくこちらにいる予定なのと、年明けで空港は人が多いので雪乃には、園田と共にホテルで留守番をしてもらっている。


「お母さん、ロサンゼルスで、なにするの?」


「新しいブランドを企画しててね、そのあれこれがたくさんあるのよ」


 母と手をつないで前を歩く真智の問いかけに母が答える。

 俺と手をつないでいる真咲は、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していた。真尋のもう片方の手には、母のキャリーケースがある。

 空港は大勢の人間であふれている。母のように国外に出かける人、帰る人、帰ってきた人、それを迎える人、見送る人。その目的は様々で、人種も性別も普段の生活では感じられないほどたくさんの人々がいる。


「というか真尋、運転免許、持ってたのね」


 母が振り返って言った。

 ここまでは俺が運転してやってきたのだ。国際免許証もこちらに来ることが決まってすぐに申請をして、取得している。車自体は一路の家のものを借りていた。


「ああ。言ってなかったか? 夏休みに取ったんだ」


「言ってないわよ、もー」


 母が頬を膨らませれば、真智がけたけたと笑った。


「お母さん、次はいつ会えるー?」


「春になったら、引っ越しのお手伝いにくるから予定を教えてね」


 真咲の問いかけに母が笑う。うん、と双子が揃って頷いた。

 本格的にこちらに住むのは双子が夏休みに入ってからになるが、春くらいからあれこれ準備をする予定ではあるのだ。

 搭乗ゲートがだんだんと近づいてくる。ぎりぎりまで双子と過ごしたかったらしいので、実は俺たちは少し早歩きでゲートに向かっていた。

 父の件はともかくとして、双子たちは母と物理的な距離が近くなることは、歓迎しているようだった。いつもは母が出かける時に次の予定なんて聞かないのに、あれこれ聞いているのはその証だろう。確かにドーバー海峡を越えるのと大陸を越えてくるのでは、かかる時間の話が違ってくる。


「真尋、荷物ありがとう」


 ゲートに到着してキャリーケースを母の方へ渡す。


「別に。忘れ物はないか?」


「ふふっ、ないわよ」


「あのねー、お兄ちゃんはよく忘れ物するんだよ」


 真咲がニマニマしながら母に告げ口する。

 母は呆れたように俺を振り返った。


「部屋が散らかっているからよ。真尋のデスクの上とかごちゃごちゃじゃない」


「雪ちゃんにいつも怒られてるよ」


「咲、ちぃ、余計なことを言うな」


 じろりと睨むが弟たちは「本当のことだもーん」と反抗的だ。

 俺としては散らかしているつもりはないのだが、どういうわけか雪乃にも弟たちにも一路と海斗にも、果ては園田にも俺のデスクの上は散らかっていると言われている。俺にはどこに何があるか分かっているのだし、分かるように置いてあるのだから、あれは散らかっていないと思う。


「だから、あれは俺にとっては」


「あら、もう本当に時間だわ」


 説明しようとしたのに母は腕時計を見て、残念そうに眉を下げた。

 弟たちと視線を合わせるように母が膝に手をつき身を屈める。


「真智、真咲。お兄ちゃんと雪ちゃんの言うことをちゃんと聞いて、みっちゃんのお手伝いもちゃんとしてね。学校のお友だちとも仲良くね。それで風邪を引かないように元気でね」


「うん! お母さんも元気でね」


「僕たちも元気で頑張るよ」


 真智と真咲の返事に母は満足そうに笑うと二人の頭を順に撫でて、抱きしめて、頬にキスをして、体を起こす。


「真尋、貴方みたいな家事も出来ない気難しい男のお嫁さんになってくれるのなんて、雪ちゃんくらいしかいないんだから、大事にしなさいよ」


「言われなくても分かってる」


「ふふっ、ならいいけど。行ってくるわね。真智と真咲をよろしくね。それと体に気を付けて」


 腕を広げた母を抱きしめて、頬にキスを交わし合って離れる。

 母の背を追い越したのはいつだったかな、といつの間にか見下ろすようになった母にそんなことを思った。


「ああ。母さんも体に気を付けて」


「ええ。じゃあまたね、真智、真咲、真尋」


 そう言って母は手を振りながらゲートの向こうへと颯爽と歩いていく。


「お母さーん、いってらっしゃーい」


「お仕事頑張ってねー」


 ぶんぶんと手を振る真智と真咲の見送りに振り返った母の溌剌とした笑みに俺も小さく手を振り返した。母は嬉しそうに手を振り返すと、何度も振り返りながら空の旅へと出かけて行った。


「お兄ちゃん、お腹空いた」


 真智と真咲の手を取ると真智が言った。

 彼らももう十一歳で迷子になるとは思えないが、ここは海外で人の多い空港だ。何かあったらと思うとやはり手を離すことはできない。攫おうと思えば、力のある男性なら双子くらい余裕で抱えられる。


「丁度、昼だからな……何か食べて帰るか?」


「やだ……。雪ちゃんのごはんがいい」


 真咲がぼそぼそと答える。

 俺自身もそうだが、弟たちも雪乃の作るごはんがとにもかくにも大好きだった。

 確かにこちらの食事も(厳選しているので)美味しいが、そろそろ雪乃のご飯が恋しくなってくる気持ちは分かる。

 ならば、部屋にキッチンはついているし最低限の調理器具もあった。日系のスーパーにでも行くか、と俺は頭の中で地図を広げる。


「……真智、俺の尻ポケットのスマホを出してくれ、鳴ってる」


「うん! ……あ、雪ちゃんだ! 出ていい?」


「いいぞ」


 真智が電話に出る。


「雪ちゃん、今お母さん出かけたよ! ……うん、うん。僕お腹空いたけど、真咲は雪ちゃんのごはんが良いんだって、というか僕もなんだけど……本当? うん、分かった! うん、気を付けて帰るよ!」


 そう言って真智は電話を切ると真尋のジーンズの尻ポケットにスマホを戻した。


「お兄ちゃん、咲、雪ちゃん、ホテルのお部屋でご飯作ってくれてるって!」


「やった! お兄ちゃん、早く帰ろう?」


「分かった。分かった。危ないから走るんじゃない」


 ぐいぐいと手を引かれて人ごみのなかを進んで行く。

 雪乃のご飯が大好きで喜ぶ姿は、俺の弟だな、としみじみと思う。


「お兄ちゃん、雪ちゃんが安全運転でね、だって!」


「ああ、そうだな」


 はしゃぐ弟たちに笑みをこぼしながら、俺たちを待つ雪乃とおまけで園田の下へと急ぐのだった。





おわり


いつも閲覧、ブクマ登録、感想、ありがとうございます!


また週末の更新でお会いできますように。

次回以降は本編更新に戻ります!


次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪

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