小林家
優子が病院を無事退院し、ちょうど今日で一ヶ月。入院中に退職の手続きが執り行われていたのは驚きではあったが怒りは全くなかった。どういった話が行われたのか不安であったが見舞いに来てくれた上司との会話で知ることもできた。入院の原因は自殺未遂ではなく脳貧血に変えられていた。このことは優子も知っていたことだが優子の知らない続きがあった。
検査をしたところ優子は貧血で倒れやすい体質だと判明し、これを機に体質改善を行うことが根本の治療になるとか、ストレスが原因で起こるとか、そのために時間を割くことがなにより重要うんぬん・・・・・・・・・要するに仕事を辞めて治療に専念しろ。ということになり、ドクターストップでの退職となった。
優子にとっては煩わしい作業をしてくれて感謝感激であったが、自分がそんな爆弾を抱えていたことも知ってしまい複雑でもあった。そんな思いで迎えた退院日、医師からの言葉は退院おめでとうではなくお叱り、しかも愚痴付きだった。
真相はこうだったからだ。
病院側に自殺未遂はバレバレ、本来なら治療としてカウンセリングやらを受けるよう指示をするところだが本人も深く反省していること、家族や周りに知られることが彼女自身を苦しめ再び自殺へと導く可能性があることを強く主張され、しかたなく嘘をつくことになった。とのことであり、最後に一言。
「あんな良い彼氏がいるんだから何でも相談しなさい、話しなさい。もったいない」と言い残し結構いい年した女医は去って行った。どうやら全て彼、『黒衣纏』が仕組んだことのようだった。確かに傍から見たら良い彼氏なのだろう。
毎日見舞いに来てくれたし、病院側にも色々と気遣い、退職の手続きも彼の仕業である。母親からもこんな良い人がいるなら早く紹介してくれればいいのにと小言を言われた。
そんな彼は今日も黒のスーツをだらしなく着こなし、時々くだらない会話をしながら優子の隣を歩いている。ここは優子の自宅から五駅離れた住宅地。退院後もメールや電話は毎日あったが会うのは初めてであった。言いようによっては初デートなわけだがその場所が住宅地なのにも理由がある。
月給手取り三十万円の仕事ってやっぱりしんどい仕事なんだろうな、それにしても面接に履歴書なし、普段着OKってどういう職場だろう。そう思いながら優子はとりあえずやっつけ仕事で完成させた履歴書を鞄に忍ばせ、リクルートスーツに身を包み黒衣に付いて住宅地を歩いていた。
そろそろ体調も落ち着いてきたなら会わないかと言われたのが昨日、これってデートのお誘い!と喜びながらも戸惑い、どこに行きたいと訊かれ、戸惑いの方が勝ってしまい話を逸らして後悔したのがその一分後。言ってしまった言葉は、
『ところで、仕事の斡旋をしてくれるってどういう仕事なんですか?』
この一言から話はこっちになってしまい、初デートが面接日になり、今日がその日である。後悔と不安をない交ぜにしながらキョロキョロと辺りを窺う。
ニュータウンという名前が付いているが町が出来てから二十年以上は経ち、今となってはそんなに『ニュー』な感じはせず、巨大かつ、多すぎるマンションの群れと駅から離れた途端商店がなくなる立地条件からか、どのマンションにも好評分譲中と入居者募集中の看板が掲げられていた。問題点だけはニュータウンと呼んで支障はない。
そんな住宅のみの場所に会社があるのだろうか?優子の不安は仕事内容から仕事そのものにチェンジしていた。でも、最近じゃマンションの一室が会社です。なんてのはよくあることか、優子は一人で納得した。
「おつかれ、着いたよ」
黒衣が止まったのはランクを付けるなら中の下といった感じのおそらくこの町と同じ年だろうと推測される二階建てのマンション。
おしゃれな高層マンションのイメージがあっただけにちょっと拍子抜けしながら優子は黒衣に続き中に入っていった。
閑古鳥が鳴き始めているようで、飛び石に表札が掲げられていた。一階の一番端の表札の付いている部屋で黒衣の足が再び止まる。
「ここがこれからの君の職場」
手で示しながら何の躊躇もなく言う黒衣を見ながら優子は暫し固まった。
「・・・・・・・『小林』と書いているように見えるんですけど、これが会社名ですか?」
「『こばやし』は名字でしょ。どう考えても」
「じゃあ、これは」
「表札だよ、小林さんの」
「誰ですか?」
「さあ、誰でしょうね?」
「・・・・・・」
優子はもう一度表札とドアと黒衣をワンセットで見る。どう考えても黒衣が指しているのは一階の一番端のこの部屋のドア。そして、小林さんの表札が掲げられているのもこのドア。普通に考えるなら小林さんのお宅。なのに、これからの私の職場?ああ、社長が小林さん!自宅兼オフィスってやつか!
ガチャガチャ。
フリーズ中の優子に背を向け黒衣が鍵を開け、入室を促す。
「はい、どうぞ」
「・・・・・・・・本当の名字は小林さん?」
「そんなわけないでしょ。それにここは優子ちゃんの職場だよ。俺の職場じゃない」
そう、話は聞いていた。黒衣さんの会社が別の会社と合同で新規プロジェクトを立ち上げることになったのだが、適任者がおらず困っている、そして優子は適任だと判断し推薦状を出した。だったら何故、黒衣さんがここの鍵を持っているの?それに、こんなところで新規プロジェクト?町工場で人工衛星を作るご時世だしアリなのか?戸惑いつつも優子は促されるままに黒衣に続いて中に入る。
そこは何もない普通の玄関だった。下駄箱の上には花も絵も飾られておらず玄関マットすらない。普通、何か飾るもんじゃないの?シンプルというより殺風景な空間に違和感があったが新規プロジェクトなら極秘の可能性もある。玄関を飾り立てているのは他社や来客への印象を良くするためだけだろうし。そうなると私の仕事はなんなんだろう?特殊な資格や経歴を持った覚えはないんだけどな・・・・・・・・・・・考えるのは止そう。
優子なりに納得しようとすると新たな疑問が生まれる。だが、その必要はもうない、あと数分後には面接が始まる。・・・・・・・・・・・・・・はず。
一抹の疑心を内包しつつも、久しぶりの面接による不安と緊張に支配されていた体は黒衣に続き靴を脱ごうとして固まった。優子は奇妙なものを見つけて止まってしまったが、黒衣はさっさと靴を脱ぎ、廊下を進む。
「どうしたの?」
自分の足音しかしないことに気付き黒衣が振り返ると優子は未だ靴を脱ぐ体勢のまま固まっていた。固まるのが余程好きらしいなと呆れながら黒衣が戻ると優子の目はそこにあった靴に向いていた。
「ああ、ごめんね。脱ぎっぱなしにせずに下駄箱に片付けるように言ってあったんだけど」
「これって・・・・子供用の靴ですよね?少なくとも小さい方は」
優子の視線の先にあったのは二足のスニーカー。色、形は同一で、大小並んで玄関の脇に置かれていた。大きいほうですら優子とサイズは変わらなさそうだった。
少し汚れている様子からして明らかに誰かが使用していることが分かる。そこに手が伸びる、黒衣は無造作に掴むと下駄箱を開けしまっていく。
「今日、会社はお休みなんですか?」
黒衣の背に優子は目の前にあることから導き出せる唯一の答えを投げかけた。
「なんでそんなこと訊くの?」
もう一足もしまいながら肩越しに優子に視線を向ける黒衣。
「だって・・・・・」
「俺が何?」
優子の指はまっすぐに黒衣に向けられていた。
「違います、下駄箱」
正確には黒衣の後ろの下駄箱。
「下駄箱が何?」
「空っぽ」
この言葉に怪訝な表情を見せながら黒衣は優子の眼前で片手を振る。
「何ですか?」
「いや、大丈夫?目、見えてる?」
「はあ?」
今度は優子が怪訝な顔をする番になった。
「いや、靴が二足入ってるのに空っぽ、なんて言うから目がおかしくなったかと思って」
「そうじゃなくて、最初開けた時、空だったことに驚いているんです!」
ときどき話が噛み合わない。優子は苛立ち混じりに言い直した。
「なんで?」
「『なんで?』じゃ、ない。会社が休みじゃないのに靴がない。って、おかしいでしょ!」
優子としては常識として訊ねているだけに意味を理解してもらえないことに苛立ちが募る。優子が指摘したとおり玄関にある靴は下駄箱の中を合わせても四足。黒衣と優子と二足のスニーカー。それ以外の靴も靴が入っていそうな箱も入れ物もない。もしくは全員外回り中?いや、少なくとも社長か人事部の人はいるはず。だって、これから・・・・・・・・
「早かったね」
突然の第三者の声に優子は必要以上に慌てた。おかしなところばかりあったため、ツッコミを(しかも大声で)してしまったが、ここは黒衣の家でもなければ、自分の家でもない。そう、ここに来た理由は面接だ。お宅訪問じゃないし、ここは会社だ。に、しても・・・・・・・なんか声が若い?社員さん。だよね?ここにいるってことは?声のした方角、奥を見ると小学校の高学年ぐらいの少年が廊下に現れていた。
彼が先程の声と大きい靴の持ち主だろう。白い無地のTシャツにジーパン姿のどこにでもいそうな普通の少年。
「ああ、居たのか、それならお迎えに出てくれてもいいだろうが」
そりゃ、居るでしょ。靴があるんだから。優子は心の中で軽くツッコミながら次の行動を決めかねていた。初対面なのだから自己紹介は必要。だが、少年が自分にとってなんなのかさっぱり理解できていない。
「へーへー。お帰りなさいませ、ご主人さま。これでいいっすか?」
黒衣の言葉に心の籠っていない歓迎の言葉を少年は返した。
「ああ。上出来だ。執事喫茶ならな。優子ちゃん、このスリッパ使って」
黒衣に促されるままスリッパに足を入れた。あれ?黒衣さんスリッパ履いてたっけ?
灰色のスリッパに収まっている黒衣の足を優子は思わず凝視した。さっき、こっちを向いた時、靴下だった気がするんだけど。そーいえば、このスリッパどこにあったんだろう?
玄関にはなにもないと思ったのは勘違いだったんだろうか?本当はどーでもよくなかったどーでもいいことを考えている優子を黒衣の声が現実へと引き戻す。
「えっとー、紹介すんね」
あ、そうだった。こんなこと考えている場合じゃなかった。この少年の正体の方が重要だ。上司になる人の息子。これが最有力候補か。それじゃあ、この子が小林さん?
「コイツは佐藤透」
小林ではない、と。紹介され少年は「ども、佐藤透、十二歳です」と短く挨拶をする。
「こっちは渡辺優子ちゃん」
ここでも『ちゃん』付け。知り合ったその日から黒衣は優子をちゃん付けで呼んでいた。恥ずかしくはあったが自分の方が年下なのだから仕方がないと観念してはいたが、ここでは『さん』もしくは呼び捨てにして欲しかった。微妙な空気を感じながらも優子も「初めまして」と定型単語のみで返す。
「それからもう一人っと・・・・どこにいる?」
「こっち」
佐藤透少年は廊下の奥を指し、先導する。その後ろに黒衣と優子は続いた。廊下を真っ直ぐに進みながらお宅拝見をしたところ割と広い造りにはなっている。どのドアも閉まっていたので間取りはわからないがファミリータイプのマンションのようだ。廊下の終着地のドアは今までのドアとは違い話し声が漏れていた。
聞いたことがあるような声と内容にテレビの音だと気付く。どうやらここが目的地であり、紹介したいもう一人がいるようだ。そのドアが大きく開かれた。優子の目に飛び込んできたのはテレビが一つあるだけの明るく広いリビング。その真ん中、フローリングの床に正座する少女が一人。その少女を示し
「あの子が名無良子」
と、黒衣は紹介した。
「・・・・・・どういう字を書く『リョウコ』ちゃんですか?」
「ん?良い子と書く良子ちゃんだけど、それがどうかした?」
「いえ、なんにも」
妹と同じ良子ちゃんか。歳は小学校低学年ぐらい、佐藤透と同じ無地の白Tシャツにジーパン、いやキュロットかな?小さな膝小僧が見え、布の余りが床に着いている。
細く白い体躯から、おとなしそうな印象を受けるがそれ以上にピンと伸びた背筋と真っ直ぐな視線、非の打ちどころのない完璧な正座が育ちの良さを醸し出していた。
ただ一つ問題点を挙げるならば座っている角度が明らかに変。点けっ放しのテレビとベランダのちょうど中間を向くような、両方を見ていると言えばそうも見えるが虚空を見ているようなそんな感じがした。良く言えば不思議ちゃん、悪く言えば心が病んでいる。そう評されてもおかしくはない光景にしか優子には見えなかった。
「次は家の中、案内しよっか」
恐る恐る少女に近づこうとした優子の足が止まる。黒衣はもうこちらに背を向け歩き出していた。さっきの少年とはだいぶ違った印象だが偏見を持たずに接しなければいけないと、挨拶タイムがあるものとばかり思っていただけに優子は戸惑った。
どんどんと小さくなる黒衣の背中に一度だけ視線を向け、少女の隣へ。
「初めまして、良子ちゃん。私の名前は渡辺優子。よろしくね」
ノーリアクション。
「・・・・何、見てるの?」
めげずに続ける優子の声に目玉だけが反応する。大きな黒い瞳が向けられるがそれだけ、あとに続く動作は無し。微妙どころか気まずい空気が辺り一帯を支配した。
「真面目だね」
揶揄するような声に振り返る。声の主は開けられたままのリビングのドアに背を預け、くだらないものを見ているかのよう視線で、
「そんな格好までしてきてさ」
優子を上から下までしっかりとファッションチェック。
「あいつに言われたろ普段着でいいって・・・・それともそれがあんたの普段着?」
平然と言い放つ少年、佐藤透。この場合、子どもの戯言と無視することや、大人に対してそんな口をきいてはいけませんと叱ることが普通の対応だろう、正解と言い難いが。
考えあぐねているうちに次の一言が優子の心にトドメを刺してしまった。
「信用してねーんだ、あいつのこと」
カチンと来る物言いをする子供は多いが彼のはそれと一線を画している。面接にはスーツ。ジャージやジーパンで行けば即その場で不採用確定だろう。そんな一般常識に則り優子はリクルートスーツを着てきたが、言い換えれば黒衣の言葉を信じなかったということにもなる。改めて突きつけられた事実に優子はただ黙ることしかできなかった。
「普段着ってどんな服?」
助け船は廊下の奥からやってきた。
「家でのダラダラしているときの服装?花も恥じらう乙女がそんなふしだらな姿で外歩けないって・・・・・そもそも、普段ってなにしてるときが普段なんだろうな」
いつものヘラヘラ口調は優子の心により一層の荒波を起こさせていた。黒衣が『普段着』と言っている以上会話は最初から聞かれていたことになる。
「なに助けてんの?あんたの言うこと守んなかったんだぜ」
佐藤透の反撃開始。
「それは違うだろ」
「何が?」
「普段の定義が曖昧なんだからしゃーないだろって話。考えようによっちゃあ、普段着ている服っていうのはよく来ている服ってことだろ?なら、休日出勤しまくりの働き盛りのサラリーマンの普段着はスーツになんじゃねえの?優子ちゃんもちょっと前までは働くOLさんだったんだし」
今度は透が黙る番となった。
「それにお前にとっても良いことだったろ?彼女がどんな人間かわかってさ。こんな男の口車に乗らずスーツを着て来るなんて『私は真面目な常識人です』と言ってるようなもんで、人間観察ができてラッキー、と思ってりゃいいんだよ」
「はいはいわかりました。中古のリクルートスーツに色落ちし始めたカラーシャツ、それと、くたびれたパンプス。真新しいのは三足五百円のパンストのみ。良く言えば物を大事にしている人、悪く言えば最新のファッションに目もくれないただの貧乏性。人間観察ができてとっても良かったです」
静まり返る場。透の攻撃に黒衣は額を押さえ、良子は目玉だけを動かした。
「ごめんなさい」
優子の一言に透は勝利を確信したが、
「パンストは五足、五百円のもっと安物」
もっと静まり返る場。
やばい、ウケを狙ったつもりなのに思いっきりはずした。内心冷や汗を掻いている優子の耳に入ってきたのは低く、くぐもった声。額にあった手を口に移動させ小刻みに体を震わせながら黒衣は漏れる笑い声で
「つかみはオッケーって感じだね」
と優子の勝利を告げた。優子も顔を綻ばす。
「家の中案内しながら頃合い見て話すつもりだったけど・・・・・」
黒衣は優子、透、良子の順に視線を送る。
「ここでしよっか、仕事の話」
あっ、面接。綻んだ顔が一瞬にして引き締まる。
「メンツも揃ってるしね」
揃ってる?引き締まった顔は再度緩む。良い意味ではなく悪い意味で。優子は部屋をぐるりと見渡すが、ここにいるのは黒衣と透と良子だけ。面接官らしき人はいない。
「えーと、優子ちゃん。単刀直入に言うね、君の仕事はこれからこの子たち二人の話し相手になってほしいってことなんだけど・・・・・いいかな?」
ノーリアクション。
「もちろん、毎日ってわけじゃなくていいよ。週一ぐらいでいいし、もちろん俺も一緒に行くし、それも嫌ならメル友で」
フリーズ中。
「そんじゃ、仕事内容もお伝えしたことだしおまけのお宅訪問でもしますか。良子もおいで、体を動かさないと健康に悪い」
すっと、黒衣の横に小さな人影が移動する。
「優子ちゃんも早く」
軽く手招きをする動きにつられるように優子も立ち上がり続いて行った。
案内されながらも仕事内容についてさらなる説明を待っていたがそれはなく、言われた言葉だけで仕事内容を推測したのは最後の部屋の案内に入ったときだった。
玄関に一番近い部屋で黒衣から案内終了が告げられたとたん、透は自室に、良子はリビングに帰って行った。それぞれが部屋の中に入るのを確認してから優子は黒衣の袖を引き、小声で迫った。
「どういう意味ですか、これは?」
「何が?」
優子の問いかけに黒衣は平然と問い返す。
「何がって・・・・・」
言い返そうとした優子だが、透の部屋のドアが少し開いているのを視界に捉え、黒衣の袖を引っ張って玄関を出る。ここで話すことではない。
「どういう意味ですか」
「疑問形にしては強すぎるよ、語尾が。クエスチョンマークが感じられないよ」
「からかわないでください。付ける気もありません」
ヘラヘラと、いつもどおりの物言いに優子はますます腹を立てた。
「私、保育士も小学校教員の資格も持ってません」
「そんな大層なもんではないよ。たまに来て話し相手になってくれればいいだけだから」
その言葉に不信感よりも嫌悪を感じ、声はますます強くなる。
「ここは何なんですか?託児所の類ではないんですか?」
「託児所ではないな。あいつらはここに住んでるから」
「住んでって・・・・・透君の家と良子ちゃんの家、二家族がここに住んでいるのですか?」
ファミリータイプの部屋と言っても二家族が住むには狭い。しかも『佐藤』に『名無』どちらも『小林』ではない。
「いや、住んでるのはあいつらだけだよ」
「じゃあ、誰があの子たちにご飯を作ってあげているんですか」
「あいつらだけでもちゃんと食事していたでしょ」
「あれのどこがですか」
流しに積み重ねられたカップラーメンの器と割りばし。駅前で見かけたファーストフードのロゴ入りとコンビニ弁当の容器だけで溢れ返るゴミ箱。台所を思い返すが、どう考えてもまともな食事は摂っていないことは明白だった。
「いいんじゃないの、近頃は健康志向なコンビニ弁当もあるし。それにハンバーガーってさあ、健康食品に思えない?パンと肉と野菜が一緒に食べられるなんて」
「割合が問題です。圧倒的に野菜が少ないじゃないですか」
「わかった」
軽さの消えた声が了解と告げる。優子も気持ちを引き締め続きを待つ。
「ポテトも付けよう」
「塩分摂り過ぎ」
そうかな~と平然と返す黒衣に優子の怒りのボルテージは天井知らずに上がっていく。
「ここはあの子たちしか住んでいないんですね」
「そうだよ」
「それって放置虐待になるって知っています?」
「それはあいつらの親に言って」
「無責任過ぎです。ただでさえ、児童虐待がブームになって」
ガチャ。優子は慌てて口を閉ざし、背後を確認する。
しっかりと閉まっているドアに安堵し続いて聞こえてきたドアの開く音に視線を合わせた。開いたのはお隣のお隣さん。買い物にでも行くのだろうか小さなバッグを手にした三十代中頃の女性がこちらを観察するように見ている。
思いっきり怪しんでいる視線に一般常識的に会釈。会話の内容を鑑みるに怪しまれて当然、通報されても文句は言えない。聞こえていないことを祈るばかりだが内緒話の音量ではなかったことは発していた本人がよくわかっていた。やばい、かなり。でも、このまま国のお世話になるほうがあの子たちのためかも・・・・・・・・・・・・・会釈をしてから数秒後、あちらも会釈を返し、係わる気がないのか、通報しに行ったのか、はたまた彼女自身の目的を果たしに行ったのか、優子たちに背を向け外へと続く廊下に消えて行った。
「とにかく、こんなことお引き受けできません。児童相談所とかにでも行ってください」
完全に見えなくなったと同時に優子は結論を告げた。声にはこの選択に非情とも間違いとも思っていない確信が、自信が込められているのを黒衣は十二分に察していた。真っ当な人間なら普通のリアクションだ。
「見捨てるの?あの子らを」
だから対処法も用意済み。
「そうじゃないです。あの子たちのためです。私みたいなズブのド素人がやるよりプロがする方がいいに決まってるじゃないですか」
「今のあの子たちに必要なのは国の保護ではなく、居場所。確かに君の言うとおり国に、玄人たちに任せるのが模範解答だろう。だが、それをあの子たちはどう思う?」
久しぶりに目にした表情と声。それは自殺未遂直後と同じように優子の心と脳に深く沁み込んでいく。
「あの子等にしたら、ただのたらい回しだ」
確かに。納得している自分を優子が感じるよりも黒衣の方が優子の状態を把握していた。
「それに君はズブのド素人ではないでしょ」
不可思議な顔の優子にトドメを刺す。
「普通の家庭で普通に育てられた立派な経歴がある。君のお母さんが、君にしてくれたことをすればいい。難しく考える必要はないよ、三日もすれば慣れるって」