『魔』が差しただけ
「あっ!・・・・・・」
思い出した途端、優子は耳まで真っ赤になり、両手で口を覆った。指の隙間からブツブツと言葉が漏れる。どうやらかなり混乱しているらしい。頭の中だけでは整理しきれないようだ。その様子を黙って黒衣は見つめていた。
どうやら思い出してもらえたようだな、ひとりごちて様子を窺う。さて、第一声は何だ?
「・・・・・・・・・・・・」
優子は未だ独り言中。こちらに見向きもしない。本当に思い出したのか?黒衣に不安がよぎる。さて、どう声を掛けよう。脳裏をよぎるのは地下鉄でのこと、母親がいつ帰って来てもおかしくない状況であの時のようにヘマするわけにはいかない。結局、宥めるのに一時間かかったもんな~。
母親とのやりとりを見る限りでは一連のことを覚えている様子ではなかった。
黒衣は自分を万能だと思っている。ただ万能は全能ではない。望み通りのシナリオにエスコートすることはできても、演じさせることはできない。まあ、それをしたら意味がなくなるが、とりあえず当たり障りのない言葉で様子を見るか。
「思い出してもらえた?」
こくん、と優子が頷くのを見て、一安心。さて、ここからだ。切り出し方次第では同じ轍を踏む結果になりかねない。
「ありがとうございました。助けていただいて、えー・・・・と・・・・」
口を開いたのは優子の方だった。最後に続くものがわかり黒衣は先手を打った。
「ああ、自己紹介しようか、もう一度。改めまして黒衣纏、三十二歳、独身です」
「あっ、渡辺優子です」
消え入りそうな声で自己紹介し、ぺこりと頭を下げる優子に黒衣は笑って応える。
「知ってるよ」
あれ?名乗ったっけ?優子には思い当たる節はないが地下鉄でのことは記憶が錯綜していることは優子も自覚していた。だから深く考えず話を進めた。
「黒衣さん本当にありがとうございました。その上、私の記憶が確かなら仕事の斡旋をしてくれるとか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恋人になってくれるとか・・・・・」
最後が消えかかってはいたが、意外としっかり覚えており、感心しつつ黒衣はもう一安心する。
「ああ、そうだよ。良かった、覚えていてくれて」
「あの・・・お母さんには・・・・・」
まだ続きがありそうだが、続かない。
「大丈夫。言ってない。お母さんも言ってただろう、『貧血で倒れるにしても、もっと場所を選びなさい』って」
・・・・あっ、優子はまた小さく驚いて両手を口に、そしてまたまたフリーズ。
「安心していいよ、君がしたことを知っているのは俺だけ」
出来るだけの優しい笑顔を作り、黒衣はアクセントにちょっとSな発言をチョイスした。
「それとも、言った方が良かった?」
その言葉に優子はもげそうな勢いで何度も首を横に振った。
「でも、このままだと君は単に貧血で倒れただけになる。誰も君が自殺を考えるほど悩んでいたと知ることが出来ない、それでいいの?」
「私は・・・・」
掴んでいる布団の皺が優子の両手を中心に深く多くなる。
「君は死にたかったわけじゃないだろう。今の生活を変えたかっただけ、ただやり方がわからなかっただけだ」
真剣な黒衣の声に優子は目を逸らしてしまう。慰められる価値なんてない。こんな理由で自殺しよとした私なんて。
「大丈夫。みんなそうだよ、みんな君と同じような不安を抱えている。おかしなことじゃない」
自己嫌悪にどっぷり浸かった優子を黒衣は優しい声で救おうとする。
「わたっし・・・私は・・・」
優子の体が震え出す。震えを止めるように、包み込むように黒衣はそっと抱きしめた。
「言っただろう、みんな同じだって。ただ、みんなそれを誰かに言い解決策を貰ったり、解決しなくても言って悩みを軽減させているだけだ。誰にも話せなかった君を孤独だって言うわけじゃないよ。将来に対しての不安、って言い方すれば小学生すら持つ悩みだけど君の歳じゃ、リアル過ぎて重みが違うし、漠然としていて解決方法も出ない。それに自分の底を曝け出せる人間はそういない」
泣き出す気配は去ったが一緒に感情も消え去り優子の顔は沈み込んでいく。
「俺がその誰かになるよ」
静かに囁く黒衣。ピクンと反応する優子。
「なりたいんだ」
信じられないと語る優子の表情に、
「俺じゃあ力不足?」
小刻みに首を動かすが方向が定まっておらずイエスかノーか判断できない。
「やめたいんだろう?石橋を叩いて渡るどこか叩きまくって渡らない性格」
今度は判断できる首の振りを見て黒衣は優子に体を密着させ、地下鉄でしたように頭を撫で、髪を梳る。優子の手が背中に添えられたのを確認し体を離しながら、
「今は休みな。俺が適当に話、作っとくから」
優しさよりも明るめの笑顔で寝かせつける。
「大丈夫、君は魔がさしただけ」
優しく、強く、ゆっくりと脳に刷り込ませるように告げた。
「君は何も悪くない」