春への扉
春休みは精神的に余裕のない休みだ。
一つの学年を修了した余韻、新学年目前という胸の高鳴り、刻々と迫るクラス発表、新たなクラスメイトとの不安と希望。立て続けに自分たちに問題を突きつける。
加えて俺たちは三年生というシメの年である。この一年間で終わらせることが多々ある学年なのだ。部活にしろ、学業にしろ、人間関係にしろ、卒業までに何らかのケジメをつける。なおさら春休みが憂鬱で不安に駆られる。
しかし例外というものは常にいる。種の突然変異というべきか、必ず亜種が生まれる。
そう、俺だ。榊木彗だ。
俺ほど春休みに対して前向きな人間は世界中を探しても類を見ない。新学年の不安? 新しい人間関係? 勉強についていけるか? 卒業できるか? そんなこと気にしていたら死んでしまうぞ。いつもトマトのことばかり考えているから有象無象の心配事など意識の領域に浮上してこない。トマトが強すぎて何も感じられないのだ。
「それっていわゆるドラッグってやつじゃないの」
宇銀がそういったがもちろん気にしない。最高にハイだから雑音すらクリアだ。
「ドラッグじゃない。トマトだ」
「そうだけど」
「豆知識を教えてやろう。トマトには毒性物質が含まれている」
「えっ、大丈夫なの」
「トマチンという毒だ。胃袋がはちきれるくらい食わないと死なんから問題ない。多分それが俺にとって快楽物質なのだろうな」
「兄ちゃんの火葬のときはミニトマトと一緒に焼いてあげるね」
「最高だな。肥料として農家の方々に提供してもらえばさらにグッド……って、なんだその制服は!?」
宇銀は見知らぬ制服を纏っていた。トマトで心も体も夢の世界にいっていたので気づかなかった。彼女は入学する高校の制服を着ていたのだ。
「母さぁぁぁあああん! 家にJKがいるぞォォオオオ! 猟銃! 早く猟銃!」
「ぶっ殺すよ兄貴」
そうか、妹も女子高生になるのか。身分にブランド力を備えることは彼女にとって、いや、全世界の女子にとって至福の期間であろう。可愛い制服と可愛いオシャレ。そしてかっこいい彼氏。ん? 彼氏?
忘れていた。
宇銀が女子高生になれば寄って集るハエどもが現れるのだった。ゆるせん。そんな不埒者は削除しなければならない。宇銀にはスタンガンとVXガスを常備させよう。世の中には人の自由と身体を金で買い、命尽きるまで搾取するダークサイドの人間がいる。
そのような窮地に立たぬよう我々人類はさらなる監視社会と管理社会を際限なく目指している。犯罪の予兆を監視する人工知能カメラ、人に固有のIDを付与して行動を掌握する追従型管理システム。ちょっとプライバシーを提供して安全を手に入れる世界はもうすぐ訪れる。その時、人類は何を思い、何を決断するのか――。この夏、未来が訪れる。7月14日全世界上映。
「そろそろトマトやめなよ。目が夢の国にいってるよ」
「高校生になったら男どもに気をつけろよ。何かあったときは110番より先に俺をコールしなさい。物理学の常識を超えた速さで駆け付け、全員シベリ――、いや、ブラックホール送りだ。特異点で世界の真理を覗かせてやる」
「110番するから安心してね」
良識ある宇銀なら自ら危険に身をゆだねるようなことはしないと信じている。兄の願いを裏切るようなことはしないでくれよ。
「中学の友達は一緒だったりするのか?」
「うん。まぁ数人だけどね」
ならいい。『全員他人』よりはマシだ。元々コミュ力の高い妹なので例え木星でも深海でも生きていけるはずだ。心配しても無駄か。
制服が届いたおかげで最近おっさん化していた宇銀が女の子に戻ったのは幸いだった。「熱燗っておいしいの?」と訊かれたときは耳に世界が崩壊する音が轟いた。俺が知るわけもねぇし、第一未成年者が知る味じゃない。おおよそネットで珍味との組み合わせを調べた際に見つけたのだろう。
俺は「ゴブリンの小便の味だ」と脅して、妹が警察のお世話にならないよう忠告したが「気になる」と呟いたことで失敗に終わった。宇銀が大学に入った際に近寄るであろうウェイ民を事前に駆逐・大虐殺することを決めた瞬間であった。
春休みだからといって榊木彗は己を忘れてはしゃぐ人間ではないことは日本国憲法の条文に記述されているとおり言うまでもない。だから春休みの予定はニートの履歴書のように美しく白い。
そんなわけで家では宇銀の動きにとても敏感になる。主電源を抜かれたPCに等しい俺はリビングでひたすら体に埃を蓄積させることに専念しながら宇銀の動向を見守った。その沈黙のガーディアンとして宇銀を見守っていると何やら熱心にスマホをいじっている姿を頻繁に目撃した。気になった俺は質問した。
「SNSで入学する人たちを見つけてる」
俺の問いにぽつりとそう答えた。
どうやら今のJK界は入学前から闘いは始まっているらしい。SNSで事前に友達になって入学時の「ひとりぼっちの不安」を払拭するためにやっているようだ。ここ数年で何があったのかと思ったのだが俺が知らないだけだった。JKのみに見られる超常現象ではないそうで、男子でも普通にやるそうだ。
俺のような高度な有機生物にはあまり接点のない話なので知ったときは吃驚した。あなどるなかれ、子供たちのネットワーク。複雑怪奇な世界観を見て、俺はスタンドアローンでいいやと思うのであった。
『一緒に見に行きましょうよ、クラス発表』
妙な倒置法を活用した文章を送ってきたのは日羽アリナからだった。
離任式のついでに発表される全学年のクラス構成。なぜ離任式の日なのかというとおそらく自由参加だからだと思う。少しでも離任式の生徒出席率を上げるための策としてその日にしたのだろう。とはいうものの、離任式の出席率はいつも高いので考えすぎかもしれない。見方を変えれば離任式が一番生徒が集まる日ということで発表する日として選ばれたという考えもある。
なんであれ行くことに変わりはない。赤草先生の最後の姿になるのだ。見に行かないはずがない。
それに卒業した亜紀先輩が見に来るかもしれないので最後に挨拶でもしておこうと思う。大学受験という敏感な時期を過ごしていた先輩に声をかけることは迷惑だと思っていたら卒業してしまった。名残惜しくならぬよう、色々と話さねば。
数日が過ぎ、そしてやってきた離任式。
制服の着かたを思い出しながら休みだというのに朝から忙しく動く。
「兄ちゃんどこ行くの」
「イングランドだ。飛行機に乗り遅れる」
「パスポート持ってないじゃん」
「香港で偽造パスポートを買ってるから問題ない」
「大ありじゃん」
早急に朝飯をたいらげて新幹線の速度で家を出た。
間に合わないかもしれない時間なので最近会得した瞬間移動を使おうと欲が出たが使ってしまったら寿命が三分になってしまうので止めた。
なのでバカバカしい青春アニメのオープニングみたいに走った。しかし残念ながら花が散り、可愛いヒロインが微笑み、レインボーの色彩で溢れる綺麗なオープニングじゃない。血眼で額に血管を浮かせた男子高校生が名称不明の体液を撒き散らせて駆けている見るに堪えない映像だ。到底お子様には見せられない。
自由参加なので遅れても問題ないのだが時間厳守を人生哲学に掲げている身として必死なのだ。
その必死さがあって俺は時間に間に合った。まさに神業。人が不可能を可能に変えた瞬間、偉大なる歴史の一ページを作った瞬間であった。
「ドロドロじゃない」
アリナとばったり会ってそういわれた。
「自覚している。まだ、始まってないよな」
「ギリギリね。体育館に行きましょう」
通り過ぎる生徒たちは『インフルエンザに感染したのに学校に来た馬鹿』という目で俺を見た。全力ダッシュしたんだから当たり前だろ。こちとら途中で心臓が破裂して三回も移植したっつーの。
体育館で空席を探していると真琴や鶴を発見した。
「どうしたんだよ、彗。なんで死にかけてるんだよ」
「全身の毛細血管が破裂した。ドッグファイトの重力に勝てなかった」
「意味が分からねぇ……」
まもなくして離任式が始まった。呼吸を整えることに必死だった俺も落ち着きを取り戻し、今年度で当校を去る教師たちが並ぶ席に目を向けた。その中に赤草先生の姿もあり、すでに涙目になっていた。早すぎですよ。
粛々と離任式は進行し、ステージに上がった教師たちに花束が贈られる。女性教師のほとんどは泣いていた。それにつられて女子生徒たちもちらほらと泣き始める。女性が感受性豊かだと思い知らされる。隣の真琴を見てみろ。あれ、泣いてる。お前もかよ。
式が終わると生徒たちは足早に体育館から出て廊下に並んだ。
最後に離任する教師たちがここを歩くのだ。彼らにとって生徒たちと最後の会話となる。
「おいおい真琴。涙拭けよ。」
「うぐっ……うぐっ」
「音だけ聞けば窒息しかけてるやつみたいだぞ」
「うるぜー!」
誰のための涙かわからないが悲しいらしい。
とうとう赤草先生がやってきた。たくさんの生徒たちからの贈り物を手に抱えて、こっくりこっくり頷きながら歩いてきた。
そして真琴の涙が滝になった。
「先生ー! ファンでじだー!」
「真琴君、ありがとうね」
苦笑いで先生は真琴の手を握った。「写真集だじでくだざいー!」と言ったところで襟足を掴んで引っ込めた。
「先生。異動先でも頑張ってください」
「ありがとう。彗君も受験頑張ってね」
別れの言葉は実に簡潔的だった。それで十分だ。言葉で表したところで陳腐になるだけだ。大事なことは目で伝わっている。
去り際に先生はウインクした。
「置き土産。残しておきました」
「おっ、何ですかね。どこにですか?」
「すぐにわかります」
もしやマジで写真集? 同じくそう思ったのか真琴は涙を止めて「彗。絶対に渡さねぇ」と宣戦布告してきた。はぁ~まったくバカバカしい。そんなことあるかよ。
お前には負けねぇ――。
一段落つき、生徒たちは校舎前でたむろし始めた。
お待ちかねのクラス発表である。
「どんなクラスになるだろうなぁ」
「平和であれ。動物園から抜け出してきたようなチンパンジーは勘弁してくれ。可愛い女子がたくさんいますように」
「彗は独身貴族だから関係ないだろ」
「目の保養だ。受験勉強が捗る」
「女子の前で言うかそれ……」
アリナと鶴のドン引きは無視して俺たちは公開時刻まで待った。
暇だったのでその場にいた斗真や慎司と話したりしているとふと亜紀先輩のことを思い出した。そういえば離任式に居なかった気がする。いたら絶対アリナのもとに寄ってくるからだ。残念ではあるがしょうがない。もう先輩も一人暮らしを始めて県外にいるかもしれないのだ。全員と綺麗なお別れをできるだなんてはなから思っていない。年を取って再会するときまで楽しみにしておこう。
教師たちが人の身長くらいある筒状に巻かれた紙を複数個持って現れた。生徒たちはどよめき、教師たちもそれに応えるようにニヤニヤしながら準備する。
「やっとか」
「彗の名前が無かったら俺爆笑するわ」
「なんだその陰湿なイジメ。教育委員会もろとも壊すぞ」
教師たちは二人一組になり、片方が巻かれた紙を少し開いて、その端をガムテープで壁に貼り付けた。なるほど。そしてもう一人が一気に走り、ぺろーんとお披露目というわけか。その焦らしプレイに生徒たちは「はやくー!」と叫ぶ。その騒動の中で「はやくぅ、はやくしてぇあぁん! あっあんっ、はやくぅ!!」ととても淫乱な声色が聞こえた。絶対に麦山華彩だ。誰か彼女を止めて差し上げろ。
準備が整い、教師たちが「準備はいいかー」とお互いに確認しあう。
そしていざ開くという時だった。
「今年もよろしく、彗」
アリナが俺を見て言った。いやいや新年が明けてもう三か月ですよお嬢さんとツッコミを入れるつもりだったが穏やかな彼女の表情を見てやめた。含みのある言い方であったがふざけているわけじゃなかった。
公開されたクラス構成。
途端に生徒たちはピョンピョン跳ねたり叫んだりと興奮した。俺も目を凝らして自分の名前を探した。
「おっ、三年一組か。ナンバーワンの称号を手に入れたとは光栄――」
その一組に日羽アリナの文字があった。
俺は言葉を失い、アリナを見る。
口角を上げてニヤける彼女。そしてまた「よろしく」と彼女は言った。
「お前、知ってて、いや、これが置き土産……?」
「しーらない。ひーみつ」
ぷいっと顔をそらすと彼女は鶴と抱き合った。どうやら鶴とも一緒らしい。
マジかよ。カオスじゃん。
気づけば真琴は俺の隣で敬礼していた。何事かと思ってもう一度目を通すと高根真琴の名前も一組にあった。
マジかよ。カオスじゃん。
華彩とも一緒だった。
マジかよ。世界の終わりじゃん。
「彗。三年連続よろしく」
「もはや呪いだなこれ」
俺は答礼した。戦場で敵同士だった二人が、終戦後にばったり再会したときのような光景だった。もう憎しみはない。ただそこにいるのは世界の平和を強く願う二人の男。
どうやら先生、最後の一年は良い年になりそうです。




