選ばれざる者と選ばれた者
「そ」
そっけない返事。
彼女がこの返事をするときは本当に面倒に感じているときか興味がないかだ。おそらく後者だろう。俺だって斗真が同性愛かどうかの真意など興味がない。
そんなことは全てどうでもいいのだ。問題は今こうしてアリナが隣にいること。嫌でもあのことを思い出す。
『朗報よ。あんたにチョコ作ってあげるわ』
本当にお作りになられたのだろうか。俺に渡すためにこのタイミングで現れたのだろうか。どうなんですか、アリナさん。
じっと横目で彼女を見る。
しかし彼女は何も言わず、反応せず、左を向くと歩いて行った。そしてそのまま彼女の教室へと消えた。
(あれ?)
今じゃないということか? そういや彼女は手ぶらだった。教室に戻って、チョコを持ってくる可能性があると推理した俺はしばしその場で待機した。
他人の目からはとても奇妙に見えるだろう。何故なら体躯の良い一人の男が麻倉斗真の『僕のチョコを君にあげる』と英語で書かれたポスターを直立不動でじっと見ているからだ。何かに啓発されたのか、はたまたチョコを貰えず焦燥しているかは見た者が判断するので俺は何もいえない。
しかしひとつだけ勘違いしないでほしい。俺は斗真を愛しているわけじゃない。俺はノーマルだ。女の子が好きだ。
結局アリナは来なかった。
校内に響き渡る鐘の音が次の授業の始まりを伝える。一体俺は何をしていたんだ。本当に斗真のポスターを舐めるように観賞していただけじゃないか。こんなことならゴミ箱に捨てられたお菓子のベルマークを採集していた方が幾分かマシだった。
次のトイレ休憩。
俺は敢えて教室から出るのをやめた。廊下にチョコを求めるゾンビたちが徘徊している。非常に見苦しいのだ。
とはいうものの、本当はアリナと遭遇したくないからだ。単に気まずい。だから俺は尿意を抑え、昼休みまで膀胱に頑張ってもらうことにした。
四限目が終わる頃、俺の膀胱は悲鳴をあげていた。水風船のように張っている気がする。下腹部を少しでも刺激されたら超新星爆発を起こして本校はチリ一つ残らないだろう。それほど緊急事態なのだ。
昼休みを告げる鐘が鳴る。担当教師に礼をした後、俺はゆっくりとすり足でドアへと向かう。
「おーい、彗。飯にしよー」
「しばし待ってくれ」
振り向かず俺はすり足を続ける。少しでも足をあげたら臓器が持ち上がる。その刺激でもジ・エンド。俺は社会的に終わる。
たった数十メートルの距離が永遠に感じる。尻の穴を締めて集中し、氾濫しようとする我がレモンジュースを抑え込む。
「あ!」
突然の声で俺は立ち止まる。あっぶねぇ、漏らすところだった。
声の主はポニーテール少女の麦山華彩だった。
「榊木くんだ。あれ、真剣な顔してどうしたの」
「事情は後でいくらでも話そう。じゃ」
俺はすり足で再び歩き始めた。スケーターを意識するんだ。スライドしろ、地から足を離すな。離したら地雷が起爆すると思え。
「あ〜、おしっこ我慢してるでしょ〜」
ついて来るんじゃありません。
「遂に榊木くんもこの楽しみをわかっちゃったかぁ〜。ねえ、すごくイイでしょ?」
「これのどこが楽しいんだ。俺はかつてないほど懺悔しているぞ」
「キューって。キューってなってるでしょ? それだよ!」
「地獄に落ちろ」
「ひどー」
あと数メートル。あと数メートルでオアシスだ。
息はあがって視界の半分は煉獄の世界を映し出している。幻覚だ。小便を極限まで我慢し、さらに煽りを受けるとこんな症状が起きるのか。初めて知った。
「うっぐ……ぐぐおぅ……」
もう少し、もう少しだ。もってくれよ、俺の身体。
「もうちょっと我慢してみない?」
俺は目覚めないぞ。そんな訳の分からない性癖などに目覚めてたまるか。
俺は絶対に屈しない。
ドアに手をかける。俺はこの時点で股間を鷲掴みにしていた。なぜかは分からない。だがそうすることでだいぶ楽になるのだ。
右手で冷えた壁に手をつき、左手で鷲掴み。まるで銃創を負った英雄が力尽きようとしているかのようだ。脈打つ心臓が緊張を高める。冷や汗が凄い。これが映画のワンシーンなら壮絶で激しいBGMが流れていることだろう。
俺は慎重にジッパーに手をかけた。
そしてかつてない解放感に満たされ、身体が無限に広がっている感覚に襲われた。
トイレから出ると華彩が待っていた。
ニヤニヤして俺の感想を待ちわびているようだ。
「こんにちは。変態性癖チアガール」
「変態じゃないよ」
「広辞苑で自分の名前を調べてみろ。意味は『変態』になってるはずだ」
「ちょっと趣味がズレてるだけだよ」
「どんな趣味だ」
「我慢大会とか、ノーパンとか、ギリギリの自撮りとか、ヨダレとか……」
後半は耳に入ってこなかった。何故なら頭蓋の中で「コイツはヤバイ人種だ」と警告音が反響しっぱなしだったからだ。
何があっても妹に近づけてはいけない。
彼女は公安の監視対象人物だと思う。国家転覆もありうる。警察は何故彼女を野放しにしているんだ。麦山華彩は歩く18禁だぞ。全身をモザイク処理する必要のある危険人物だ。
「オーケー。わかった。君は珍しいタイプだ。そう覚えておくよ」
「男の人ってなんでアソコ蹴られたらジャンプするの?」
「はっ、え? いや、わからん。アイザック・ニュートンにでも訊け。というか女の子がそういう話をしちゃいけません」
「蹴ってみてもいい? 気持ちいいって聞いたよ」
「それ『殺してもいい?』と同義だから。いいか、興味本位でやっちゃダメだからな。それを快感として処理する人間は、特別な訓練を受けた者だけだ。そうでない者にやったら悶絶か死だ」
「嘘だぁ〜!」
「僕は君を消し去りたい気分だよ」
偏見になるがチア部はこの様なタイプの部員ばかりなのだろうか。彼女が社会に出たら心配だ。悪いおじさんがぞろぞろ近寄って来るぞ。
もう手遅れなので俺は構うことをやめ、足早に教室へ戻った。華彩が名残惜しそうに「蹴ってみたい……」と呟いたため、背筋に嫌な冷たい感覚を覚えつつその場から去った。後ろから蹴られたらたまったもんじゃない。下からトマトジュースを出すのはゴメンだ。
真琴と黙々と飯を食いながらふと思う。
今日、俺はアリナに会う予定がない。
アリナ更生プログラムの一環として、何らかの活動をやっているわけだが本日に限って何もなかった。つまりチョコを頂けるタイミングが巡ってこないのでは?
いやいや自意識過剰だ。あれはからかっていただけなのかもしれない。もしや違う解釈の仕方があるのか? だが他の解釈をしようがないほど言葉はストレートだった。待てよ、作るとは言ったが渡すとは言ってないぞ。そういうことか?
「彗。弁当がイマイチでも感謝しないとダメだぞ」
「何? 不味いわけがないだろう。母上のスペシャルエディション弁当だ。世界一の料理だ」
「ごめん、でもずっと顔が険しいから」
「こういう顔で生まれたんだ。スペシャルエディション出産」
「もしや、チョコ関連?」
「違うぞ。人間の真理について考えていたんだ」
「なるほど。日羽から貰えてないんだ」
「高校生クイズの早押しよりお前凄いな。おじさん感動しちゃったよ」
彼はうんうんと腕を組み、首を上下に振った。わかるよその気持ち、と彼は表現する。
「渡すぞって予告されてるんだ。だからいつ貰えるかわからないから無駄にドキドキしてるんだよ」
「え、マジで!?」
「は?」
「マジで日羽から貰えんの!? 嘘だろ!?」
「自分で言っただろ」
「適当に言っただけだ! マジかよ……去年なんてすごかったんだぞ」
「何がだ?」
「日羽から貰えるかもしれないってみんな期待して、日羽と同クラスだったやつは気合入れて髪型とかセットしてたんだ。花まで買ってた奴もいた。『俺はアリナさんと話したことがあるから貰える!』とか『俺は触ったことある!』とか言い合って、自分が選ばれることをみんな信じてやまなかった」
「狂ってんなぁ」
「結局日羽は誰にも渡さずに終わった。花を買ったやつは、タイミングをはかって渡したらしいがレンガでも食えって日羽に言われたらしい」
「よく渡せたな」
「そんなわけで今年も凄いぞ……隣のクラスをちらっと見たけどやっぱり男子は髪を整えてきてる。あと女子以上に香水がすごい。日羽がいるからね」
そんなに激レアなのかよ。
そこまで言われると隣のクラスが少し気になった。一体どんなホストクラブになっているのだろう。
「行ってみる?」
「飯食ったら覗いてみるか。昼休みは彼らにとってもチャンスだろうからな」
俺たちは箸の動きを早めてすぐ弁当をたいらげた。三十分ほどまだ時間があるのでホストたちもさぞかし自分をアピールしていることだろう。それを肴にトマトジュースを飲むのも悪くない。
早速ホストクラブを覗きに教室を出た。
すると何てことでしょう。廊下にもホストたちがいるではありませんか。
「何だこいつらは」
「日羽と同じクラスになれなかった選ばれざる者たちだよ」
「RPGでいう同じ台詞しか喋らない村人か……」
きっと彼らはアリナが教室を出た瞬間を見計らって甘い言葉を囁くつもりなのだ。
あくまで他クラスの生徒であるため彼らも堂々とアリナのクラスに居座れないから廊下で待機しているようだ。
彼らの傍を通り過ぎ、俺と真琴はアリナのクラスを覗いた。
すると何てことでしょう。ホストたちと香水で一杯ではありませんか。
この混乱と混沌の中心にいるアリナはというと白奈たちと飯を食べていた。幸いにも不機嫌そうではなかった。白奈たちと同席しているからだろうか。
「彗、これが世界だ」
真琴が呟く。そうか、これが世界か。
教室に残っている割合も随分と多い。通常なら食堂に行ったり、部室に行ったりと人が減るのだが、男に関しては出席率百パーセントだろう。
「これが人間の真理か……」
アリナに狂わされた男たち。
アリナに魅了された男たち。
アリナに好かれたい男たち。
アリナに意識されたい男たち。
アリナに話しかけられたい男たち。
いろんな男たちが集まっている。
恐ろしくてたまらない。人間とはこうも欲望に従順なのか。そしてその欲望の対象となっているアリナも気の毒だった。これはストレスが溜まる。
白奈が俺たちに気づいた。反射的に俺は「おう」と手をあげる。彼女はバッグから袋を二つ取り出すと俺たちの方に近づいてきた。
「はいこれ、彗と真琴くん」
「お、ありがとう」
「白奈ちゃんありがとう!」
白奈はどういたしましてとぺこりとお辞儀して顔をあげるとビシッと指をさした。
「どっちも義理だからね!」
毎年言われて来た台詞だった。
その言葉の裏にある隠れた感情を俺は知らずに毎年貰っていた。だからいつもより若干乏しいリアクションとなってしまった。
「それでも嬉しいよ」
「真琴くんは流歌ちゃんから貰えるからいいもんね〜。彗は今回初でしょ?」
「ははは。俺は既に宇銀とビューティフル・クレインから頂いている」
「ビュー……なに?」
「鶴だ。鶴様から頂いた」
「えー! 意外!」
白奈は目をパチクリさせて驚いた。まぁ俺も驚いた。
ちらっとアリナを一瞥する。アリナはこちらに見向きもせず結梨と蘭と談笑している。
「じゃ、お返し楽しみにしてるねー!」
「おう。期待しててくれ」
「俺も手作りするよ!」
自分の教室に戻り、席に着くとついため息が出た。肺に残る香水を吐き出すつもりで。
「想像以上に香水ヤバかったな」
「鼻がおかしくなるよ……」
俺はその後、トイレに行ったり、売店でパン争奪戦争を繰り広げたがアリナとは一度も遭遇しなかった。麻倉斗真のポスターになら目が腐るほど遭遇した。たまに怒りのこもった破られ方をしたポスターも見つけた。
あれ、アリナ姉さんと会わないぞ。
昼休みも終わってしまう。よし、落ち着け。まずアリナから本当に貰えるとは限らないんだ。自意識過剰だ、榊木彗。お前にそんな魅力があるか? ただのトマト中毒者じゃないか。誰が好こうというんだね。
五時限目が始まり、終わる。
トイレ休憩。また華彩と遭遇。逃げる。
六時限目が始まり、終わる。
トイレ休憩。破り捨てられた斗真ポスターと遭遇。無視する。
放課後がやってきた。
ホームルームが始まった。
終わった。
掃除だ。
終わった。
あれれ。帰る時間になったぞ。
待て待て。君は世界を股にかける帰宅部のプロだろ。余裕ある思考力で一度考えるんだ。
何か見落としていないか?
アリナから何かサインは無かったか?
一緒に斗真ポスターを眺めただけだったがそれ以外には?
ダメだ。何も無い。アリナとも放課後会う予定も無い。
バッグを肩に掛け、教室を出た。通り過ぎざまにさりげなくアリナのクラスを覗く。アリナのバッグは無かった。
テニスウェア姿の白奈が教室から出てきて、目が合った。
「ん? アリナさんなら帰ったよ」
あれれーおかしいぞー。
いやおかしいことなんてない。絶対的なことは物理の世界にしかない。人間の行動に絶対はないのだ。
俺は帰宅部らしく運動部員たちの掛け声を聞きながら帰ることにした。寒いのによくやる。来月あたりから暖かくなるだろうな。
鶴さんと白奈さんのチョコを大切に食べよう。カカオを栽培するアフリカの子供達にも感謝しよう。
俺は大きな一歩を踏みしめ、校門を出た。沈みゆく夕日に向かって決意する少年のように。
俺たちの戦いはまだまだ続く。
「あら」
胸に拳をあてて冒険心に心を燃やしている時、ふと聞き覚えのある声が右耳に入った。
油不足でぎこちなく駆動するロボットのように俺は右に首を回した。
「待っていたわ」
日羽アリナがいた。




