お邪魔します
アリナの異変はあの瞬間だけで、今はいつもと変わらぬ表情の乏しい彼女に戻っているが見間違いではなかったと断言できる。それほど印象に残った。
女子三人に電車の座席を譲り、俺はつり革を掴んで窓外を眺めている。彼女らと隣り合わせで座るのは流石に小恥ずかしいところがあるのでジェントルマンキャラを貫くことにした。
駅を出て徒歩五分の距離に位置する我が家。立地的には最高だがこの短距離が緊張を煽る。心の準備が十分に出来ていないのにもう目前だ。
たまに妹が友だちを連れてくるから他人を入れること自体に抵抗があるわけではないが、同級生の異性を家に連れてくるのは別問題だ。しかも二人も。一人の方がまずいかもしれないがもうこの際変わらん。
そんなわけで榊木家に到着した。お願いだから両親とも不在でありますように。
「ただいまー。帰ったよー」
宇銀が一番乗りで家に入った。
「おかえりなさい。ちゃんと初詣行ってきた? あら……?」
マイ・マザー降臨により死亡が確定した。
この時ほどタイムリープしたい瞬間は後にも先にも最後だろう。賽銭の時にもう少し金額を増やせばよかったと今になって後悔した。
「兄ちゃんの同級生! 鶴さんとアリナさん! どこもお店に入れなかったからうちに呼んだんだー」
「二人共可愛くてびっくりよ。彗ったらいつの間に……」
言葉の続きを読者の想像におまかせする手法はやめてくれ、マザー。激怒する女が一名いるんです。
「お邪魔します。初めまして、二渡鶴と申します。彗くんとは同じクラスメイトです。お正月に突然申し訳ありません」
ぺこりと腰を折って自己紹介する鶴。それを見たマミーは慌ててお辞儀を返した。息子と娘がしっかりとした礼儀をわきまえている人間ではないので若干驚いているのだろう。
「わ、私は日羽アリナと申します。あの、榊木くんとは、えと、何でしょう」
なぜ緊張している。いつものキャラはどうした。『日羽アリナ。こいつとは主人と奴隷の関係かしら?』みたいな辛辣極まりない台詞を社交辞令のように吐き捨てるんじゃないのかよ。どうしてモジモジしているのだ。それに「榊木くん」って何だよ。いつもみたいに「あんた、ゴミ、ミルワーム、地溝油、豚の餌、セミの抜け殻、ストーカー、吐瀉物」のどれかで呼べばいいじゃないか。人名を使うなんてどうした。ちょっとドキッとしたじゃねえかこの野郎。心拍数上がったわ。
「こいつとは委員会が同じなんだ」
口篭るアリナを見るに見かねて俺は助け舟を出した。委員会には入っていないが誤魔化しとしては妥当だろう。この場しのぎには有効的だ。
「そうなの。いつも彗がお世話になってます。こんなだから迷惑かけてばっかりだと思うけど仲良くしてやってください」
「は、はい。わかりました」
こんなだとはなんだ、こんなとは。宇銀、何か母上に言い返してやれ。
「立ち話も疲れるから早くあがろーよ。リビング使ってもいい?」
「どうぞ。お茶とお菓子用意するからあがってて」
駄目だこりゃ。
宇銀は二人をリビングへと誘導した。しかし俺はリビングには行かず、父の部屋に向かった。
「入るよー」
「はい」
寡黙な父はよく自室にいる。父の部屋に来たのは警告をするためだ。
「父さん。今リビングがヤバイ」
「なんで」
「異世界状態だから。とにかく今は部屋から出ない方がいい」
「……よくわかんないな」
「無理もない。わかってほしいのは今、リビングがヤバイ。なるべく来ない方がいい」
「……わかった。気をつける」
よし、注意喚起はオッケーだ。寡黙な父でも鶴とアリナを見たら腰を抜かすだろう。加えて宇銀の友達ではなく、俺の同級生と知ったら目玉を落っことしてしまうと思う。
自室へと戻り、コートを脱いでラフな格好に戻る。部屋を出る前に一旦ざっと見回した。もし奴らが侵入してきたとき指摘されてドギマギするモノが無いか確認した。よし、何も無い。健全だ。
リビングは本当に異世界だった。マァム、宇銀、アリナ、鶴の四人が炬燵を囲んで談笑している。銭湯の女湯に足を踏み入れたときの血の気が引く感覚と似ている。入ったことないけど。
この円環に加わりたくない。何事も無かったように俺は回れ右した。
「あ、兄ちゃんやっときた」
「ゆっくりしてってください、お嬢さん方。じゃ」
「逃げちゃダメ」
「逃げていい時もある。今がその時だ」
「ねえお母さん。今日からトマトジュース買うのやめようよ」
「はいはいはい。ここにいることにします」
時に残酷発言をさらっと投下するので油断ならない。もし適当に聞き流していたらと思うとゾッとする。今回の脅しは命に関わる。彼女は分かっているのだろうか。酸素及び水分摂取禁止と同義だぞ。
炬燵には入れないのでソファーに寝転がった。この空間における俺の居場所はソファーしかなかった。
「兄ちゃん。だらしないよ」
「家くらいだらしなくさせてくれぇ……」
「こら、お兄ちゃん。鶴ちゃんとアリナちゃんの前で恥ずかしいでしょ」
「大丈夫大丈夫。こういう人間だって知ってるから」
「お兄ちゃんじゃなくてお母さんが恥ずかしいの。ごめんね、こんな息子で」
「あはは。いえいえ〜知ってますから〜」と鶴がヘラヘラ笑う。
俺に味方はいなかった。孤独だった――。
「うちの息子、学校でどうしてるの? 変なことしてない?」
変なことってなんやねん。信用されていないようだ。
「彗くんはですねー。ウーン。どう思う?」
悪意ある目で鶴はアリナにふった。
「えっ、榊木くんは、その。目立ってる、と思います」
「へえ。どんな風に目立ってるの?」
「お、面白いことをよく話す人、みたいな感じです」
「そうなの。どうなの、お兄ちゃん」
「いや、そいつよりは目立ってはいない」
「黙って」
素のアリナに突然切り替わるな。ビビるだろ。
「アリナちゃんは将来女優さんになりそうね。男の子からモテるでしょ? モテモテじゃない?」
やめてくれ母上。四十代の恋バナとか聞きたくない。息子の前ではやめてください。肉親の恋愛トークとか本当に嫌だ。新手の精神攻撃だからね、それ。拷問でもあるからね。
「いっ、いえ! 私なんかモテないです」
「うっそ〜! ここだけの話だからオバサンに教えてよ〜」
嗚呼、恥ずかしい、恥ずかしい。
母上、あなたの青春は三十年前に終わっているんですよ。もうやめにしませんか、この無駄な戦争を。一体あなたはいつまで人民を煽るのです。いくら政権を崇めさせても小麦は地に根を生やしません。民が求めるのは国の勝利でなく、水や豆なのです。ただそれだけなのに。
裕福な腐敗政治家は形而上の概念に陶酔し、手元や地上を見下ろすのをやめてしまいます。その地位に責任を感じて、幻想を勝手に追い始める。余裕のある権力者はいつも現実的であることをやめる。本来の目的を忘れ、我々を忘れ。誰も頼んでないことに正義を感じ、己の自己満足のために全力を投じ始める。そんなことはもうやめてください。生きることができればそれでいいんです。
「アリナ〜なんで嘘つくの〜」
「何のことかしら」
「告白されない週はないでしょ? アリナはアイドルだからね!」
「違うわよ! そんなんじゃないわ!」
「えー? そうかなぁ?」
「そ、そうよ!」
今の世において戦争をしたがる国というのは貧しい国か十分潤った国だけだ。
グローバル化という単語が定着したように、世界は蜘蛛の糸のように絡み合い、互いの根幹に干渉し合っている。それによってもはや戦争で得られる国益は昔より価値を――
「兄ちゃん。顔が険しすぎるよ。不快です」
「あい、すんまそん」
女子トークについていけるかよ。イチゴ味の会話なんて俺に出来るわけがない。
「じゃあね、じゃあね。もしかしてうちの息子もアリナちゃんに告白……」
耳元でヒソヒソとアリナに問いかける母上。
よーし、すっごーく、めんどうなことになるよぉ。
「どうでしょうね?」と意味有り気な笑みを添えて母に答えた。
「えっ!? 本当に告っちゃったの!? お兄ちゃんどうなの!?」
「してません。お母様、落ち着いてください。カフェインの過剰摂取に身に覚えは?」
「あら、本当に断言出来るのかしら?」
ドヤ顔するな。何気に調子取り戻してきてるし。
「兄ちゃん馬鹿じゃないの!? 付き合えるとでも思ってんの!? アリナさんと可能性あると思ったなら百万回死んだほうがいいよ!? この身の程知らずの変質者! バカ! キモイ! トマト中毒! ダイダラボッチ!」
オーバーキルだから。やめて。俺もう死んでるから、宇銀ちゃん。
「私はお似合いだと思うなぁ。ねぇアリナ?」
「ちょっと何言ってんのよ! こ、こんなやつと!」
「息子のお嫁さんに来てくれたら老後の心配も吹き飛ぶわぁ」
「うぅ……そうでしょうか……?」
「やめて母さん。榊木家がバカの集まりだと思われるから」
「バカは兄ちゃんだけだよ」
「最近バカに磨きがかかってきているお前に言われたくない」
母親が餅を焼きにリビングを出ていった。
俺は絶望した。この空間において唯一まともな人格である母がいなくなった。つまり鎖が外されたようなものである。それは動物園が開園したという意味だ。
「彗とお母さん全然似てなくて驚いた。宇銀ちゃんがお母さん似なのかな?」
「そうですねぇ。お父さんかお母さんっていわれたらお母さん似ですね!」
「てっきりお母さんの方も彗みたいに狂ってるのかと……」
「お母さんとお父さんと私は常識人ですよ。お兄ちゃんが異常なだけです」
「うん。すっごく同意」
目を閉じて、世界をシャットアウトした。ツッコミを入れたら負け、ツッコミを入れたら負け、と念じながら意識を夢の中に溶かす。辛い現実とはおさらばだ。来世は深海魚になりたいな。悩みとかなさそう。
しばらくして微睡んできた。弛緩する身体が最後の峠を越えて眠りに入る寸前で、リビングの音が全く聞こえなくなったことに違和感を覚え、目を開けた。
視界は俺を見下ろす宇銀、アリナ、鶴。
「うおっ! なんだこのサイコホラー!」
「あはははは! 本気でビビってる!」
「あんたの寝顔、アメーバみたいね」
「アメーバにも顔があるのか……」
身の危険を感じた俺は逃亡を図った。
「おしっこ」
トイレに行く体で立ち上がった時、廊下に父上が現れた。
父はビクンッと震えて数秒硬直した。俺にはわかる。相当驚いている。
「……どうも」
ぼそっと呟き、そのまま廊下を進んでいった。
「えっ、今の彗のお父さん……?」
「そうだが」
鶴とアリナは顔を見合わせて首をかしげた。
「……あんたって突然変異?」
「あいにく蜘蛛の糸も爪も出せんぞ」
「お父様の方があんた似だと思ってたものだから……」
「俺もわからん」
「と、とととりあえずご挨拶しなきゃいけないわよね」
「お前、うちに来てから吃音症ヤバいぞ。バグった人工知能みたいだ」
「きっ、ききききん、緊張なんかしてないわよ殺すわよ」
「誰も指摘してないぞ」
そう強がってはいるが目をぱちくりさせ、オロオロしている姿を見せられたら納得など出来ない。
「アリナさん、兄ちゃんの部屋行ってみます?」
「は? 何言ってんだ?」
宇銀の不意打ちに反射的に返した。お兄ちゃんはここ一年で一番驚きました。大腸と小腸がお口から飛び出るかと思いました。
「えっ、でも……」
チラチラと俺と宇銀を見るな。
行きたいオーラ出すな。
隣で鶴くんは爆笑するな。
「だって兄ちゃん、部屋に戻りたそうだからぁー」
「戻りたくない。死んでも戻りたくないからリビングで昔話でもしましょうよ、お嬢さん方」
「何か見せたくないものでもあるの?」
「ない。無断で侵入するお前が一番分かってるだろ」
「ええ〜? そうかなあ?」
完全にハッタリだ。紳士の俺に隠すものは何も無い。興味をそそらせるためのドデカイ罠だ。引っかかるんじゃねえぞ……!
すると「やれやれ」と肩を竦めて鶴が俺の肩を掴んだ。
「行こうぜ?」
「誰だお前」
ウインクにサムズアップを添えてそういった。
アリナはというとモジモジと淑女の振る舞いを続けている。もしや彼女は男の子の家に入るのが初めてなのでは。だからさっきから腹立つくらいピュアな美少女キャラっぽく初々しさを醸し出しているのだろうか。ビジュアル的にはむしろ舐めたいくらい最高なのだが。やべ、本性出ちゃった。紳士、紳士。
「あ、お父さん」
宇銀の一声に俺は振り返る。台所から自室へと戻る途中だろう。両手にワインボトルとグラスを持っている。
「……ごゆっくり」
一礼してぼそっと呟き、去っていった。
「ねぇ……やっぱ彗って突然変異でしょ」
「悔しいが親戚にもよく言われる……」
静まるリビング。
「ごっ、ご挨拶……」と呟くアリナ。難解数学問題に挑むような顔つきで俺をじっと見つめる鶴。俺の袖を引っ張って彗ルームへと案内しようとする宇銀。
カオスだ。この世界の人格者は俺だけになってしまったようだ。
「お餅焼けたよー!」
母上の陽気な声で一同、童心に返って炬燵へと戻った。
危機的状況はこうして回避された。
あくまで一時的だが。