1 On the Nature of Daylight
わたし。
初めてひとり暮らしをした日から75年は経った。
わたしは朝目覚めるとあなたの仏壇へと足を運ぶ。
そこにはあなたの顔写真が置かれていて、わたしはそれに向かって「おはよう」と挨拶をするの。
それがわたしの一日の始まり。
あなたのいない世界の始まり。
あなたがいなくなってからもう10年は経った。
娘は健在で孫たちもひとり立ちし始めています。
わたしも元気に過ごしてあなたのことを忘れていません。
あなたが亡くなったとき少し世界が恐ろしかった。
だってこんなにも大切なあなたが亡くなっても、世界は何事もなく時を刻み続ける。
あなたが娘に渡した時計もまだ時を刻んでいる。
でもまもなくして恐怖は消え去りました。
なんだかあなたがどこかで見守ってくれているような気がして――。
わたしはひとりではありません。
毎日送迎バスに乗って、わたしのような老いたる者が集まる施設で友人を作りました。
話すことはだいたい昔話です。
いま話すことなんてあまりないですから。
昔はどこにいて、どんな仕事をして、孫がどうとかそんなこと。
物忘れの激しい友人もいるから同じ話を何度もします。
大丈夫、楽しくやっています。
けれど、時々不安に思うときがあります。
友人の子どもや孫が会いに来たとき、その友人が実の子どもが誰なのかわからないときがあるのです。
それが見ていて辛い。
母に忘れられた子どもの、あの無理に作ったあの笑顔が……とても悲痛なのです。
――わたしも、ああなってしまうのでしょうか。
わたしもアリスをいつか忘れてしまうのでしょうか。
アリスにあんな顔をさせてしまうのでしょうか。
あなたのことさえも忘れてしまうのでしょうか。
そう思うと胸の奥がひどく痛みます。
「おはよう、あなた」
仏壇の前であなたに声をかける。
大丈夫、覚えている。
ちょっとだけ物忘れすることが増えたけれど、わたしの好きなあなたの顔は覚えている。
いっそ幽霊になって会いに来てくれればいいのに。
けれどあなたは会いに来てくれない。
「今日も友だちのもとに行ってきます。あなたの写真も持ってね」
杖をつき、介護されながらバスに乗る。
もうわたしは燃え尽きる寸前の太陽。
たとえあなたが戻ってきても、こんな弱々しい光ではどこにいるかわからないでしょう。
施設で昔の写真を持ってみんなが集まった。
椅子に座り、手には自分の若い頃の写真を持って語り合う。
わたしはあなたとのツーショットを持参しました。
あなたは格好いいし、わたしも綺麗に写っているからきっと自慢できる。
もちろん好評でした。
孫くらいの介護士の方々も驚いていました。
面影がずいぶん無くなったのだと少し悲しくもなりましたが、わたしはあなたを自慢できて嬉しかった。
毎日楽しく過ごしていたつもりでした。
でもね、やっぱりあなたの声を聞けないのは寂しいですよ。
おはようと言ってもあなたのおはようは返ってこないのです。
だからここ最近はずっと録画した動画を観ています。
娘が幼い頃の動画だったり、結婚式の動画だったり、世界を旅したときの動画だったりと様々です。
デジタルは偉大だとつくづく思います。
あなたはいないけれど、あなたのいた証はちゃんと残っています。
「榊木さん」
そうそう、あなたの名字も残っていますよ。
「娘さんが来られています」
「あぁ、ありがとう。行きます」
アリスが頻繁にわたしに会いに来てくれるようになった。
わたしはもうすごく年寄りだから心配なんだと思います。
「お母さん、体調は大丈夫?」
「わたしは大丈夫。アリスは……アリスは元気に過ごしてる?」
「わたしの心配はしなくて大丈夫。お母さんは自分のことをもっと大切にして。あんまりひとりで出歩いちゃダメだからね」
「ボケてるんじゃないわ。ボケないために歩いているの」
娘は呆れた様子だったけれどクスッと笑ってくれた。
あなたがわたしを笑わせてくれたように、わたしも誰かを笑わせたいのです。
夜、わたしはよく泣くようになりました。
目を閉じて眠りに入ると夢の中であなたの背中が見えるんです。
わたしはあなたの顔を見ずに無理やりにでも目を覚まします。
だってそれはあなたじゃないですから。
「あぁ……会いたいなぁ……」
わたしは枕を濡らして呟きます。
「会いたいなぁ……あの人に会いたいなぁ……」
あなたの写真が破れないよう強く胸に抱くのです。
これは恋であり愛なのでしょう。
この愛がある限り、まだあなたの太陽として光を放てそうです。
死んだらあなたに会えるのでしょうか。
その答えが知りたいようで知りたくありませんでした。
会えないとわかったらわたしはもっと生きなければなりません。
あなたを一番よく知っている人はもうわたししかいませんから、わたしが死んでしまったらダメな気がするのです。
あなたの妹さんも少し前に亡くなりました。
わたしだけがしぶとく長生きしています。
宇銀ちゃん、彼に会えましたか。
わたしは、彼に会えますか――?
もうわたしは歩いていません。
車椅子で誰かに押してもらわないと移動できなくなりました。
長い長い人生でした。
あとはこの人生を終えるだけです。
アリスに言い残すことはもうありません。わたしたちの娘は強い子です。きっとわたしみたいに長生きするでしょう。
夕方、沈みゆく太陽を見て呟きました。
「あなたも見ていますか」
勘違いした病院の方が「見ていますよ」と返した。
本当はあなた――彗に言ったのだけれど、優しいわたしは「綺麗ですね」と答えました。
あなた、あのときわたしの隣にいたでしょう?
ずっと傍にいたってわかっていたんだから。
だからその日の夜、誰もいない病室でひとり旅立ってもちっとも怖くはありませんでした。
あなたの死に際が羨ましい。傍にはわたしもいたし、娘たちもいた。
けれどわたしはひとりで死んだ。
いえ、違ったわね。
あなたがいたわ。
わたしは目覚めた。
身を起こし、目をこすってあたりを見る。自分が学校の図書室で居眠りしていたことを思い出した。
時計を見ると針が17時を指していて驚いた。
一時間くらいここで寝てたらしい。
図書室にはもう誰もいないし、図書員も司書すらもいない。
「うわ……鍵とかどうすればいいのよ……」
わたしはため息を吐き、乱れた制服をただして背を持たれた。
枕代わりにしていた本を閉じ、足下の鞄に手を伸ばしてチャックを開ける。
教科書が見えて、テストが近いことを思い出した。寝てる場合じゃなかったのに。
ドアの開く音。
わたしは頭を上げてドアの方に目を向けた。
「まだここにいたのか」
あなたがいる。
あの憎たらしいニヤけ面を貼り付けたあなたが立っている。
「アリナ、友だちでも作れって言っただろ。なのにまーた図書室で本ばっか読んで、そんなんじゃ虫すら友だちになってくれねぇぞ。――えっ、ちょっとなんすか!?」
わたしは泣いた。
目から涙が止まらず、吐きそうになるくらいわんわん大泣きした。
ずっとあなたに会いたかった。
あなたにずっと会いたくてたまらなかった。
あなたがとても恋しくて恋しくて……いますぐにでも抱きしめたい。
でもわたしはひたすら泣くことで精一杯だった。
「ア、アリナさん。なんでそんな泣いてるんすか……」
「知らないわよバカ。見んな気持ち悪い!」
そんなことを言いたいわけじゃない。
わたしはずっとあなたを探していたの。
あなたのいない世界であなたの姿を探していた。
「泣くなアリナ。ず、ずっと傍にいてやるからさ……」
「もう離れちゃダメよ」
「離れたことなんてなかったさ。おれは彗星だからな!」
「そうね、わたしは太陽だものね。離れられないのも当然だわ」
わたしは泣き止み、彼の差し伸べた手を取って席を立った。
「帰ろう」
「えぇ、帰りましょう」
わたしは彼と手を繋いで下校した。
もう涙を流すことはないでしょう。
あなたがいるから。
 




