ee o in
「はぁ〜暑い」
椅子の背にもたれてぐっと背伸びした。くぅーっと唸りながら目を開けるといつのまにか窓外には大きな入道雲が遠くから私を見下ろしていた。あまりの巨大さに心を奪われ、輪郭をなぞるように見つめる。
(なにしてるんだろう)
机上のスマホをチラッと見る。タイミング良く鳴るわけがないとわかっていてもついつい期待してしまう。
そしてまたシャーペンを手にとって勉強を再開する。妥協なんて受験にはない。自分の緩みにライバルたちはつけこんでくるんだと思って頑張らないとすぐ追い抜かれちゃう。
夏休みの予定は特になかったので、とりあえず私は規則正しい生活を意識することを決めた。同時刻に起床し、同時刻に就寝する。勉強と休憩をどちらも長くなりすぎないよう気をつけながら繰り返し、気分転換に散歩したり音楽を聴く。
一日中頭がクラクラするほど勉強したら三日で限界が来てしまうからそんな緩すぎずキツすぎずの生活を続けている。
「調子は大丈夫?」
「うん。今のところ学力は維持し続ければ大丈夫だと思う」
「いいえ、体調の方よ」
リビングでアイスを舐めている時に母が心配そうに声をかけて来た。
「いたって快調だから心配しないで。へいき」
「そう、よかった。受験に関しては信用してるから何も言わないわ。アリナなら大丈夫よ」
「ありがとう。がんばらなきゃ!」
第一志望に受かれば恩返しになるだろうか。ずっと迷惑をかけて心配させてきた母に喜んでもらえたら私はそれで満足だ。
彗とは同じ大学には行かないだろう。それは絶対だと思う。コースが全然違うし、学力も同等じゃない。一年もしないうちに離れ離れになるのは確定している。
そんな状況と初めて味わった強い感情に翻弄されて、あのとき私らしくないことを口走ってしまったのだ。思い出すだけで顔が焼けるくらい熱くなる。
彼の困惑した顔が目に焼き付いて離れない。好き、と伝えて彼があそこまで混乱するとら思っていなかったから。それ以前に私が想いを伝えてしまったことも思ってもみなかったことだが、全て後の祭りだった。
もし。
もし、肯定的な言葉をもらったら。
そしたらどうする? どうなる?
自分でも分かりきっていることを自問自答してて馬鹿らしいと思う。
彼から離れたくない。
教室という箱から卒業して、自由に羽ばたけるようになって私の知らないところへ飛んでゆくのが寂しくて苦しい。どれだけ手を伸ばしてもきっと私は追いつけない。だからつながりがほしかった。
私の本心を知った人はきっと「傲慢だ」と吐き捨てるだろう。私だって性に合ってはいないと思う。でも人生で一度きりしか巡ってこないことが目の前にあったら誰もが自分を捨てると思うのだ。それが私に訪れていると確信を持って言える。
『いつにするー?』
「私はいつでもいいわ。特に予定は入っていないから」
『あれれ、彗とデートしないの?』
「しっ、しないわよ! デートだなんてっ……!」
『でも放課後二人っきりでお茶したって言ってたじゃぁん?』
「あれは、そのっ、成り行きというか……」
『ふぅん? ヤラシ〜』
「わ、話題を戻しましょう!」
鶴からの電話で、前から話していた勉強会についてだった。
『じゃあアリナはいつでもいいってことでいいのね?』
「ええ」
『場所はどうする?』
「場所? 家とかかしら」
『じゃあ彗の家けってーい!』
「無理無理! 無理だから!」
『なんで? なんで?』
「……する」
『はーい先生は聞こえませーん』
「……緊張、するからっ!」
『ぎゃわいぃ〜! アリナ可愛くなったねぇ〜!!』
あぁ、もうヤダ……。
緊張して勉強に集中できないから絶対却下だ。正月に私は彼の家に行ったそうなのだが覚えていないので尚更無理がある。それに宇銀ちゃんともまだ接し方がよくからないのにお邪魔したら違和感を覚えられてしまうかもしれない。
『じゃあ私が考えとくからお楽しみってことでいい?』
「それでいいけれど、彼の家はダメよ。絶対ダメよ」
『あいあいわかったわかった。じゃまたね〜』
もし彼の家になったら鎮静剤を買うことにしよう。多分冷静ではいられなくなる。もし恥ある行動をしてしまったら鶴に殺してもらおう。せめて綺麗なままで死にたい。
後ろ髪をまとめてうなじの風通しを良くし、気合いを入れる。
「がんばらなきゃ!」
うーんと背伸びをして再び机に向かった。
それから二日後。
今日も少し動いただけですぐ汗が出るほどの猛暑だ。よく蝉たちも元気に鳴けるものだと感心した。こんな猛暑日に歌ったら私は倒れてしまう。
だからより冷房の効いているリビングに逃げ込んで、再放送の心霊番組を私は観ていた。幽霊なんて信じていないけれど。
しばらくゾクゾクしながら観ているとスマホが鳴った。鶴からの電話だった。
「はい、日羽です」
『アリナ? あのね、落ち着いて聞いてね。さっき宇銀ちゃんに電話したら――』
彼女が何ていったかははっきり覚えている。まるで鐘が鳴っているかのようで私の頭の中で何度も響いた。そして電話が切れて私が何をしようとしたかも覚えている。けれど私は何もしなかった。
失われる。
ぜんぶ、音を立てて。
膝をついて床に手をつく。恐ろしい絶望が胸に風穴を開け、私は立てなくなった。
いかなきゃ――。
そう、彼の元に。彼のそばに。
けれどドアは遠い。鼓動で視界がぶれる。違う、激しい呼吸だ。
どうして世界はこうもいじわるなのだろう。私が、彼が、何か罰を受けるようなことをしただろうか。私はただ彼のそばにいたいだけなのに。どうしてそれを誰も許してくれないのよ。どうして私は彼を思い出せないのよ。どうして私たちは歩み寄れないのよ。
あなたが近づけば、私が離れ、私が手を伸ばせば、あなたは去ってしまう。
『彗が脳虚血で昏睡状態だって――』
鶴の声は嘘じゃなかった。本当のことを言っているんだとわかったけれど嘘だと言い返したかった。
ぶわっと胸をえぐられるような鋭い痛みを持った感情がこみ上げ、私は嗚咽を抑えきれず泣いた。とても惨めに。口を押さえても嗚咽のたびに空気と声が漏れ出てしまう。
もし、死んでしまったら――。
絶対に考えてはならないことを考えてしまい私は泣いた。そして二度と彼の声を聞けないかもしれないとも考えてしまった。
彼の答えもまだ聞いていないのに。




