しかして進み、踏破する
練習が始まって何日か経過した頃。
新しいクラスにも馴染み始めて、コース別の授業も始まった。俺は理系人間なので物理や化学を集中的に学ぶ。難解な概念ゆえに頭が痛くなるのだが、インテリジェンス・タカゾウも理系だったため、よく理解できなかったところは彼に訊いて有難く教えてもらった。
彼の時間を割くことに申し訳ない気持ちもあったが「自分の理解を深めるためにも教える行為は非常に役立つ。脳科学的側面から紐解いていくと――」と語り出したので、多分頼ってもいいのかもしれない。
理系人間は別の教室で授業を受けるので、自分の教室に戻ると黒板には苦手な世界史やら小難しい政経の単語で埋め尽くされている。暗記があまり得意じゃない俺にとっては、つい「うへー」と気の抜けた声が漏れてしまうほど見たくない黒板だった。
「あの~彗。お願いが~」
「断る」
鶴が手を合わせて懇願してきたが先手必勝で断った。見当はついている。
「まだ何も言ってないんだけど」
「体育祭で生徒会の犬になる気はない。俺は俺で忙しくてな」
「えぇ~。いいじゃん。どうせ暇なんでしょ?」
「暇じゃないんだなこれが。アリナに訊いてみろ」
鶴はこっくりこっくりと寝そうなアリナに問いかける。
「アリナ~、彗って忙しくないよね~」
「暇してるわ。大丈夫よ」
「おいおいおい眠気と戦っている君が言うかね」
彼女は連日の練習の疲労で眠そうに目をこすった。「ねむいねむい」と呟きながら机に顔を伏せる。
「あれ、寝ちゃった。本気でやってるんだね」
「まあな。プロフェッショナルたちもやる気満々だ。対抗リレーはマジで勝つぞ」
「うちのクラスのまさお君も出るんでしょ?」
まさおは窓際族で、よくスイーツ本を読んでいる。よく一人でいることが多く、クラスメイト達と共に行動している光景はあまり目撃されない。はぶかれているとかそういうイジメの類ではない。単に彼は一人が好きなタイプなのだと思う。
「そうだ。いい戦力だ」
「他には誰が?」
「沼倉鷹蔵、島野栄治、早坂凛音」
「あ、凛音なら知ってる」
「鷹蔵は知らないのか? お前に唯一届きそうな学力の持ち主だと聞いてるぞ」
「名前なら知ってるけど……間違ってるよ?」
「何がだ」
「私に届くわけがない。出来が違うの、出来がね。ふふん」
彼女が調子に乗り始め、ウザキャラになる前に俺は「あいうえおかきくけこさしす――」とひたすら平仮名を唱えることで追い払うことに成功した。勉強自慢など何一つ有益な話じゃない。ミドリガメと徒競走する方がまだマシだ。
模試が終わるとまた練習を再開した。結果はまだわからないがアリナと鶴とともに答え合わせをしてまぁまぁという予測点数が出た。
体育祭までまだ時間はあるので俺たちはひたすら走った。始めた頃より総合タイムも連携力も格段に向上していることに皆気づき始めた。願望が現実にすり替わる。その瞬間はもう目前なのかもしれない。
何でもない日だった。体育祭一週間前という日。
昨夜、トマトジュースの飲みすぎか知らないが何気なく父親の血圧計を借りて計測したら若者にしては高いという結果が現れたことに恐怖し、普段より本数を抑えて水ばかり飲んでいる。そのせいで持続的な尿意が続き、今日はいつもより小便器に俺の体液をたくさん飲んでもらっている。申し訳ない。もっと飲んでくれ。
おしっこ大好き変態ポニーテール少女・華彩にこの現状を悟られぬようまたトイレに向かった。すると廊下でインテリジェンス・タカゾウが数人の男子に囲まれているじゃないか。おやおや、これは俗にいう嫌がらせやイジメというやつじゃないか?
「なに、お前勝てると思ってんの?」
「勿論だ。負ける戦はしない主義だ。ここ数日間で可能性はさらに上昇し、本番当日では最大限のパフォーマンスを発揮できる計算で我々は日々鍛錬を積み重ねている」
「なに言ってんだこいつ」
「イキってんなぁ」
「勉強だけが取り柄のがり勉君がいても迷惑だよなぁ」
「確かに僕の性能は他者よりかは劣るかもしれない。しかし総合的に見て問題にならない程度だとチームで結果が出ている。もはや代替不可能な段階に突入しているのだ。君らがどれだけほざこうが我々が出場することにかわりはない」
「ぺらぺら喋るだけ喋って。口だけだろ、どうせ」
「本能で動きがちな君らが何を言おうが僕は動揺しない」
「あ?」
おやおや、雰囲気が悪くなってきたぞ?
助けたい気持ちもあるが俺の最優先事項は小便器に俺の体液を飲ませることであって、彼を助けることではない。自分でまき起こした事件は自分で解決してほしい、と俺は考えているため俺は普通に通り過ぎた。
「この負け犬帰宅部が――」
おやおや、聞き捨てならないな。
俺は足を止めた。
男が四人。それぞれの身長167、172、169、175。体格から見るとバスケ部、野球部、サッカー部二名と思われる。
結論、榊木彗の敵にもならない雑魚。
「やぁ。君たち。ご機嫌いかがかな」
突然の不審者来訪に四人は眉をひそめた。そりゃそうだろう。後ろに手を組んでニコニコ笑う身長180の変質者として有名な紳士が詰め寄ってきたのだから。立場が逆だったら俺もビビるわ。警察呼ぶ案件だわ。
「お前は確か、榊木だな?」
「そうですよ、君たちが今愚弄した帰宅部員の者ですよ?」
スマイルを顔に貼り付けたままさらっと自己紹介した。このスマイルはアリナの殺人スマイルから得た表情だ。
あぁこいつがあの、あれか、とか口ずさんで俺を知らぬ者は、俺が誰か気づき始めたようだ。なおこの間、俺はスマイルを絶やすことなく彼らの動向を見守った。某ハンバーガーショップの店員もビックリのスマイルだ。ちなみに俺のスマイルは0円じゃない。血で払ってもらう。
「お前に言いたいことがあったんだわ。お前、日羽と付き合ってんだろ? 別れろよ」
いやいやいや。今はリレーと帰宅部愚弄発言の話をしているのだが。
「付き合っていませんよ? 故に別れるということもできないんだが」
「じゃあ日羽に近づくな。それとも日羽の弱みでも握ってんのか? だったら日羽が断り続けるのも納得できる」
「握ってませんよ? それよりわたくしめは帰宅部を愚弄したことについて話したいんですが」
「帰宅部のインキャは消えろよ。お前も日羽の目の前から消えろ」
おうおう言ってくれるじゃないのあんた。おじさんあんたのこと可愛く見えてきちゃったわぁ。久しぶりに感情が高まってますよぉ。
「おじさんキレそうだよぉ」
「キレろよ。キレてみろよ」
そう言ってどんっと俺の胸を押した。このクソホビットが。おじさんのおっぱい触ったな。
そのアクションでつい「は?」と実に紳士らしからぬ高圧的な威嚇をしてしまった。相当やべぇ顔をしていたのか、それとも予想外だったのかわからないが俺のその威嚇に彼らは一瞬怯んだ。それもそのはず、彼らは動物なのだ。自分より大柄な者の怒りが怖いのだ。
あたりには人が集まり始めていた。変人で有名な彗とパーティーピーポーがひと悶着していると。
そんな時、バーサーカー・マサオが前に出てきた。
圧倒的存在感。
圧倒的絶望感。
圧倒的人外感。
何をするわけでもなく、もうすでに強い。傍にいるだけですでに強い。つよすぎる。もうつよすぎムリ。つよすぎてふるえる。
俺の太ももくらいある大砲のような腕を震わせ、防弾チョッキを着こみまくっているとしか思えない分厚い胸板を大きく動かして呼吸する姿を見た四人は言葉を失った。
「け、けんかはダメですよ……」
俺にはわかる。彼も恐怖している。内向的な彼は今頑張っているのだ。
彼は自分を変えたいからリレーに参加した。彼の練習への意気込みは一番高かった。誰よりも努力していると思う。だから彼が一歩前に出て勇気ある行動に出たのは得たものがあったということだ。着実に彼は前進している。
そう思うと怒るのも馬鹿らしくなってきた。
「まぁまぁ。とりあえず憎しみは何も生まないということでここらでやめよう」
「に、逃げんのか?」
「お前が逃げることになるんだよ。まさおとぶつかり合いたいのか、お前は」
「それは――」
俺だってこのバーサーカーとぶつかり合いたくねぇよ。一瞬でぺちゃんこになっちまうわ。強がる気持ちもわかるがそこは引け。さすがの俺でも暴走したまさおは止められる気がしない。マンゴーでも与えれば鎮まるかもな。
結局言葉を続けることなく、彼らは渋々その場を去った。ほっとして安堵のため息をついた。
「すまん、彗、まさお。僕の力不足で君らに余計な敵を作らせてしまった。将来的に彼らに社会的制裁を加えられるよう司法に関して更なる理解を深めようと思う」
「やめとけやめとけ。自ら敵を作ろうとするな。それに俺は何もしてない。まさおに感謝しろ」
「そうだな。彗、お前は終始何をしたいのかわからなかった。まさお、君の勇気ある行動に深く感謝する」
まさおは「そ、そんなことないです」と突風が巻き起こる勢いで両手を振って否定した。
「いや、君は称賛されるべきだ。僕が将来日本において地位の高い身分になったら今回のことを大衆の面前で語ろうと思う。君の行動はこの狭いコミュニティで留まることはない。僕が約束する」
鷹蔵はまさおと握手した。それは開拓者と原住民が仲直りしたような歴史的な握手であった。鷹蔵が「いででででで骨折する骨折する」と言って手を放そうとさえしなければさらに美しい光景だった。
そしてハートブレイク・リオンまでもがやってきた。
「まさお見直したわー! あっはっは! あんたやればできるじゃん! それに比べてがり勉君は……はぁ情けないったらありゃしない。だからモテない」
「恋愛を人の価値基準とし、人格否定の材料にするならば君こそ無価値な人間だ。君は一体何度告白して何度振られているんだ。成果ゼロじゃないか。君は言ったな。ハートブレイカー――モテモテになって切り捨てるように振る人間になりたいと。結局恋愛がしたいんじゃなくて君はアイドルなりたいんじゃないのか? 日羽アリナのように」
「そ、そんなわけないでしょー! むかつくなぁ!」
「男性の理想像たる日羽アリナを目指しても無駄だ。人間は他者になれない。個性とはオンリーワンだ。だから自分を磨くしかない。だから僕は将来に投資する意味合いで勉強をする」
「がり勉君……ほめてくれてるの……?」
「君の思考回路は幼児が作ったおもちゃレールのようだな」
再び喧嘩し始めたので俺はまさおとその場を去った。喧嘩するほど仲がいい、を信じることにしよう。
ガンガンと椅子を蹴られた。教室に戻り、一息ついた時だった。
振り返ってみると犯人はアリナの長い脚であることがわかった。
「私ってアイドルなのかしら」
口角を上げ、俺を試しているかのような口ぶりでアリナは言った。
「さっきの見てたのかよ」
「ええ。面白かったわ」
「なら参戦してくれよ。お前が何か言っていたら確実に早く終わっていたんだが」
「私は好感度底上げキャンペーン中なのよ。毒舌で低評価だった私を変えようとしてるの。割り込んでいたら下がっちゃうわ」
「俺はお前が毒舌を取り戻してくれることを祈っている」
「そうね。あなたにとってその私がいいのよね」
しょぼんと落ち込んだ。傷つけたと思い、俺はすぐ取り繕って言葉を返した。
「そんなことない」
「あら、嬉しいわ。いつの日かすべて戻ったらいっぱい罵倒してあげるわね」
そう言って立ち上がり、鶴の席に向かっていった。
彼女の記憶が戻るとき、彼女が傍にいるかはわからない。おそらく自立しているころだろう。
だからお酒が飲めるようになって同窓会のときに俺にだけ聞こえるくらい小さくひっそりと罵倒してくれればいい。彼女を否定する声は耳に入れたくないからな。
 




