薔薇を知る人
今日は美術部の手伝いをすることになった。
美術部の活動で人物画のデッサンをすることがあるそうなのだが、本日モデル役の子が風邪で休んだらしく、それを小耳に挟んだ俺は「美女を連れてこれるぞ」とクラスの美術部に売り込んだ。
美術部長の彼、宮崎慎司は快く承諾し、放課後美術室に来るよう俺に言った。
拠点である薔薇園にて。
「はーーーい、こんにちはーー」
薔薇園には既にアリナがいた。元気よく挨拶をしたがこちらには一瞥もせず読書を続ける。ピクリとも反応しなかったので自分の実体を疑った。まさか俺は既に死んでいる……?
「お、また花が増えてる。」
長机には知らない花が新しい小さな花瓶に追加されていた。
「これもあれか、ブリザードフラワー……」
「プリザーブドフラワー」
「あ、それそれ。何の花だ?」
「ヘリクリサム」
「へ〜……」
生まれて初めて聞いた単語だった。花に疎い俺には全く解らない。
しかし知識がなくとも美しく感じられるのは花の美点だ。誰もが楽しめる芸術である。
「アリナ、今日は美術室に行くぞ」
「次は私に何するのよ」
「読書するだけでいいぞ。これほど楽な仕事はない」
「解った。あなたが給料を払ってくれるのね。行くわ」
「いや、これは無償のサービ――」
「行くわよ」
文庫本片手にアリナは薔薇園のドアに向って行った。やる気があるのかないのかもう最近解らない。初対面の時よりかは成長したと思うが。
美術室に着くなり、美術部員は総じてギョッとした。
道場破りにでも来たような図々しさを纏い、アリナは美術室に入っていった。その後をコソコソと追う俺。俺を見た美術部員は次に怪訝な顔へと変わった。そうです、僕が悪者です。
状況を説明するためにすぐ俺は宮崎慎司の元へ近寄った。
「ありがとう、彗。来てくれたんだね。あの、モデルってもしかして……」
「イエス。日羽アリナことツンデレ女子高生だ。彼女ならモデルとして適役だと思うぞ。グワァーー!」
脇腹に鋭い痛みが走り俺は声をあげた。首を回して横目で背後を見るとアリナがいた。右手にはシャープペンシルを握りしめていた。そのペン先が俺の脇腹に食い込んでいる。まるで二股かけていたクソ野郎を包丁で刺したヤンデレ女みたいだった。いや、刺したから殺人者に昇格だ。そう、俺はこれから死ぬだろう。
「慎司、このお方が日羽アリナ様だ」
ドン引きする慎司が気の毒だったのでもう一度振り返り、アリナと小声で話す。
「アリナ、お前は本を読んでいればいい。美術部に今デッサンのモデルが必要になったから緊急でお前を選んだ。別にヌードになるとかッ――」
腹を殴られた。胆のうの位置が十センチほどズレた。
「……読書しててください。それだけですみますので……」
「そ。構わないわ」
脇腹と腹を押さえながらまた慎司に向き直る。
「だそうだ。始めていいぞ」
「あ、ありがとう。アリナさん、今日はよろしくね」
アリナは目を伏せこくんと頷いた。
そんなわけでアリナをデッサンする時間が始まった。
彼女は椅子に座って正しい姿勢で文庫本を読むスタイルになると器用にページを弾いて読み始めた。あくまで捲るのではなく親指でズラして捲っている。彼女なりに頑張っているようだ。
俺はというと特にやることもないのでウロウロしながらデッサンの様子を観察した。俺には絵のセンスはないので白い用紙にスラスラと描いていく美術部員の技術に圧倒された。迷いなく次第に形になる線たちを目で追っていると部員それぞれに個性があるのが解った。描き始め、線の濃さ、陰の強弱、曲線の滑らかさ。素人の俺に表現は難しいが各々の感性が絵に吹き込まれていて色んなアリナがそこにいた。
アリナはモデルを演じ続けている。真剣(?)なアリナを見て、ジュースぐらい買ってやろうと思い、俺は一度美術室を出た。
いざ自販機に着くもアリナは何が好みなのだろうかと立ち尽くした。コーヒー? 緑茶? モンスター? ウコン? しじみ汁? ごま油? セメント? 水銀? うむ、イメージが難しい。何でも飲みそうだ。
むー、と唸っていると俺を呼ぶ声がした。
「彗くんでしょ。おひさ〜」
「亜紀先輩じゃないですか。お久しぶりで。同じ学校にいるのに意外と逢わないもんですね」
亜紀先輩とは一年生の時、保健委員会で知り合った。波長があったのか、周波数があったのか、亜紀先輩は頻繁に俺に絡んできた。退屈しない面白い人で、饒舌な人でもあった。
「どうしたの? 自販機の前で睨めっこして。どうやったらタダで手に入るとか考えてたでしょ?」
「惜しいですね。どうやったら自販機が飲み込んだ小銭とお札を吐き出すか考えていたんですよ」
「ひっどーい。もし思いついたら言ってね。街中のATMで試してみるから」
「ともにダークサイドに堕ちましょうか――」
相変わらず面白い人だなぁと思った。亜紀先輩は何を考えているか解らない人でよく冗談ばかりを飛ばす。だから波長が合うわけだ。
「で、本当は何してたの? 彗君を見つけてからじっと見てたけど結構悩んでたよね。声かけようか迷ったよ」
「そんな大したことじゃないですよ。ある人に飲み物を買ってやろうと思ってたんですがそいつの好みがよく考えてみれば謎めいていましてね……何か喋れば尖ったことを口走るやつなんで慎重になってたんですよ」
「へぇ。その子ってもしかしてアリナちゃん?」
「え!? 亜紀先輩、超能力者だったんですか」
「凄いでしょ〜。触れずにあらゆる物質を爆砕することも出来ちゃうよ〜」
つんつん俺を突いてきた。つい先程シャーペンで刺された痛みを思い返せばなんと優しいタッチだろうか。プリンにでもなった気分だ。俺はとろけそうな至福の絶頂を噛み締めた。
「なんで先輩がアリナをご存知なんです?」
「私、中学校がアリナちゃんと同じでたまに話す仲だったのね。高校の新入生の中でアリナちゃんが目立ってたからすぐ見つけた。アリナちゃん可愛いから」
「そうだったんですか。アリナも人と喋るんですね」
「どういう意味なのそれ。そういう君もアリナちゃんと親しいんじゃないの?」
親しい、のか?
「アリナちゃん、部活入らなかったんだね」
「中学時代にアリナは部活に入ってたんですか?」
「バスケ部に入ってたよ。インドアとアウトドアだから部活としての接点はなかったけど図書委員でアリナちゃんと知り合ったの」
「あれ、もしかして亜紀先輩は中学でもソフトテニスやってたんですか?」
「そうそう、あったまいい〜。中学で辞めるには勿体なかったから高校でも続けたの。夏の最後の大会は微妙な成績で終わったけど楽しかったなぁ」
なるほど。アリナがソフトテニスに詳しい理由が解ってきた気がする。
これ以上の詮索はアリナに申し訳ないと思ったので彼女の話題はここまでにすることにした。
「亜紀先輩受験頑張ってくださいね。大学でもソフトテニスで輝く亜紀先輩を楽しみにしてますよ」
「いい子だねー! 彗くんは! 泣けちゃう!」
俺はとりあえず自分用にトマトジュースを一つ買い、悩んだ末、アリナにはコーヒーを渡すことにした。
「ちょっと待って。これがいいよ」
俺の右手を制止して、亜紀先輩は濃厚ミルクココアを押した。
「これが正解だよ」
満足したようで、亜紀先輩はふらっと去っていった。変わらずのユニークさだった。アリナにもああいう要素を取り入れれば男子をもっとメロメロにできるのに勿体ない。本人は望んでいないようだが。