7.お兄ちゃん目覚める
目が覚めた時、最初に視界に入ったのは白い天井だった。
ところどころにくすみはあるが、人工の低い空。
ここは……何処だ?
自分は……寝ていたのか?
今日は……何日だ?
学校は……そうだ、学校に行かないと……!
「――――っ!」
そうして、意識が覚醒した。
勢いよく身を起こすと全身に鈍い痛みが走り、喉から呻き声が漏れる。
「ふっ……が…………うぁ……っ!!」
予期していない痛みから、呻き声はやがて咳へと変わり、そして盛大に咽こんだ。
その音が部屋の外まで漏れたのだろう。
パタパタと徐々に大きくなる音が、誰かの足音だと理解するのにそう時間は掛からなかった。
大きめなノックとともに、ガチャリと開かれる扉。
「失礼」
入室してきたのは、眼鏡の似合う白衣の女性だ。
看護師の衣装ではない。
「……目が覚めたのね、よかったわ」
目元を緩める女医。
何を言えばいいのか分からないのでしばらく無言で居ると、先生はさして気にした様子もなく、心拍数など簡単なチェックを行っていった。
「全て正常値ね……脳波なんかは後でしっかり検査して貰うけど」
先生が、ベッドに乗った俺の手に、自身の手を優しく重ねてくる。
そうして、目線をしっかり合わせた後、
「わたしが見える?」
「……はい」
「じゃあこれは?」
先生が、反対の手で三本指を立てる。
「三、です」
「オーケー。大丈夫そうね」
先生が笑顔で頷いた。
じゃあ――と前置きをした上で、もう一度尋ねられる。
「貴方の名前は?」
「名前……」
目を閉じ、溶け込んだ記憶の中から、ゆっくりと自分の名前を拾い上げる。
――“自分とは何か”?
小学生だった自分ですら、胸を張ってはっきりと答えた質問だ。
それを思い出すと、思わず口元が緩んでしまいそうだ。
「海士坂裕之です」
それが、世界で俺だけの、結衣の兄である自分の名前だ。
◇
その後のやり取りは、首を傾げてしまうほどに不思議なものとなった。
何度も尋ねられる自分の名前。
挙句の果ては、年齢に生年月日、住所や電話番号までも質問された。
まるで職務質問だ。
意識不明になった患者とは、ここまで徹底して確認するものなのだろうか?
個人情報に関しては、入院した時点で登録されているはずなので話すのに抵抗はないが……。
「じゃあ、貴方の大切なものは?」
「妹です」
きっぱりと答える。この質問は何度目だろうか。
こうして内容が掘り下げられる度、先生の表情は何とも言えないものへと変わっていくのだ。
今の俺は、どうして自分が入院しているのか――つまり、意識不明に陥ったのかを詳細に思い出せる。
マンションの屋上から飛び降りた少年を助けるために自分も飛び降りた――。
こう説明をすると、先生はくわえていた紙煙草をポロッと床に落としてしまうくらい驚きを露にしていたわけだが……。
まぁ、我ながらにとんでもないことをやらかしたものだと思わなくもない。
普通に考えれば、まずやらない行動だろうし、最悪の事態を招いていれば、自分も無理心中や交友関係のもつれと判断されておかしくない状況だろう。
お互いの身辺を洗えば、期待値の高い結論をもたらされる可能性もないわけではないかもしれないが。
続けて――と先を促されたので言う通りにした。
まず、救急車の手配は、走りながら携帯でミツヤ、友人に依頼したということ。
5分経っても再度連絡がなかったら呼んで欲しい――と。
場所は、メールにて少年に呼び出された場所をそのまま伝えた。
こうして、救急手配されたということは、ミツヤは言われた通りにしのだろう。
こういう点は、さすがはミツヤ――である。
そして、マンションから転落して助かった理由については、駐輪場の上を目掛けて落ちたと説明した。
返された説明では、駐輪小屋のフレームに当たらなかったのは運が良かったとのことだ。
確かに、鉄製のフレームに当たっていたら今よりも酷いことになっていたのは容易に想像ができる。
その後、救急隊員が発見した時は、植え込みに転がっていたとの話で、これも運に恵まれた。
何重もの幸運に恵まれた結果、大事なく、五体満足で生還できたというわけだ。
「めでたしめでたし、ですね」
「……と、残念ながらそういうわけにはいかなそうねぇ」
はぁ、と患者の前で、盛大なため息を吐く医者ってどうなのだろう。
鎖骨が浮かび上がって少々艶かしく思うのは俺も年頃なせいか。
「貴方は、海士坂くんなのよね?」
「そうです。何度も答えているはずですが……?」
「えぇ、分かっているわよ。じゃあ、海士坂くん? 貴方、自分の身体に違和感はない?」
言われて身体を確認する。
ぐりぐりと動かすと走るのは鈍い痛み。
違和感がないわけがない。
「かなり痛いです?」
「そうじゃないわよ……」
こめかみを押さえる先生は、まるでロダンの考える人のようだ。
「記憶の混同……かと思ったけど、貴方たちに交友なんてほとんどないみたいだし……医学的にも科学的にも説明できないなんて、もうオカルトの領域ね……」
「??」
傾げる首が痛いのは、寝違えた感覚に近かった。
「でも、目の前で起こっている現象を摩訶不思議で済ませるほど……わたしも愚鈍ではないつもりよ」
「はぁ……?」
「わたしも現実を直視するから、貴方も現実をしっかり受け止めなさい。いいわね?」
「…………分かりました」
医者がここまで念を押すくらいだ。
そうとうの後遺症が残っているのかもしれない。
胸に手を当て、目を閉じながら深くすっくりと息を吸う。
「すぅぅーー……はぁぁーー………………えぇ、大丈夫です。どうぞ」
そうして、先生は懐を漁ると、何かを取り出した。
どうやら折りたたみ式のコンパクトミラーのようだ。
それを開いてこちらに向ける。
「見える?」
「はい」
そこに映っているのは、記憶にあるものだ。
少年の顔。
「あぁ、なるほど。先生の弟さんだったんですね。写真をこんなところに貼り付けているなんて……」
「…………受け止めたくないのは分かるけど……これが写真かどうかしっかりと貴方の目を開いて確認なさい」
「え? もしかして、お子さんです――ふぐへっ!」
有無を言わさず殴られた。入院患者にこんな仕打ちをして良いのだろうか。
まぁ、中三にもなる息子が居る歳には見えず、非はこちらにあるとも言えよう。
「いいから見なさい!」
「はい」
言われ、写真をジッと見る。――否、写真ではない。
舌を出すと、同じように舌を出す少年。
ポリポリと鼻を掻くと、やはり同じように鼻を掻く少年。
パチパチと瞬きをすると……残念ながら自分も目を閉じているので見えなかった。
「馬鹿な……この少年、妹を笑わせる為に習得したこのオリジナル変顔までマスターしているだと……?」
「もういいからさっさと受け止めなさい!」
ぐりん、と。
両手で頬を挟まれて無理矢理先生の方へ向かされた。
吐息が掛かるほどの距離だ。
「受け止めるって…………え? まさか……?」
この体勢で行うものとなると…………接吻?
もしかして、息子、もとい弟を助けたから感謝のキスとか?
自然と眼前にある紫のルージュへとフォーカスが向く。
「……ちょ、ちょっと待ってください! 院内でそんなことをしたら、妹に何て言い訳をすればいいのやら……!」
「何を変な勘違いしてるのよ! いいから、落ち着きなさい! ほら、もう一度深呼吸して……」
言われた通り、すーはーすーはーと深呼吸をして心を落ち着ける。
どこからか鹿威しまで聞こえてきそうなくらいリラックスした俺は、まるで新しい何かを開眼できそうなくらいだった。
「ふっ……どうぞ(きらきら)」
指で輪を作った両手を重ね兼ねないくらいに悟りを開いた俺が、柔らかな薄目で先生に告げた。
「こうなったら、はっきり告げるわよ?」
首を縦に小さく振ることで了承を伝える。
「どうも、ね。貴方の精神と身体が、もうひとりの患者――君風に言えば少年かしら? と入れ替わってるみたいなのよ」
柔らかな薄目が、次第に見開かれていく中、盛大な間を持って俺はこう発した。
「はあ?」