6.飛べ、お兄ちゃん!
時刻は、深夜二時を回る――俺は、無我無心で駆けていた。
場所は、静まり返ったマンションの中。
響くのは自身の靴音と息遣いのみ。
時間を考えれば、既に就寝している住民にとってはこの上なく迷惑に違いない。
しかし、それを気に掛ける余裕など毛頭なく、無遠慮に駆け上る様などいつ通報されてもおかしくないほどだった。
少年からメッセージを受け取ったのは、マンションの裏手となるベランダ側。
屋上に至るためには、まず初めに、エントランスに向かわなくてはならない。
建物を迂回して走る中、進路を阻むように駐輪されていた自転車を思わず蹴り飛ばしたくなる。
そんなことをして怪我をしては元も子もなく、余計な体力を消耗することに舌打ちをしながらフットワークでかわしていく。
そうしてたどり着いた先、玄関前のガラス扉を見にして懸念を抱く――電子鍵というセキュリティだ。
最悪、自転車を引っつかんでガラスを突き破るしかないと覚悟を決めていたところだが、どういう原理か少年の方で予め解除してあったようだ。
マンション同様、システム自体が古いせいもあるのだろうが、これで大丈夫なのだろうか――などと経営に疑問を持たなくもない。
さておき、そんな理由で俺がまごついて失敗しても、少年自身とて納得はできないのだろう。
これは、俺が“走る距離”には関係のない障害だからだ。
そうして、エントランスを走り抜け、すぐにエレベーターを見つける。
点灯しているランプは一番右――どうやら最上階で止めてあるようだが……下手に階段を使うよりは、このままボタンを押して待った方が早い可能性も多分にある。
しかし、いくら人命には代えられないとはいえ、それで少年が納得するだろうか?
むしろ、セキュリティ同様にエレベーターが動かないように細工されている可能性だってある。
仮にそうだとしたら、見届けることすらなく刻限が来てしまうだろう。
――否、見届けるなどという選択肢はない。
それを防ぐ為に、こうして、俺は階段を駆け上がっているんだ。
思考は、わずかコンマ秒――。
結論にたどり着く前には階段まっしぐらな俺は、さすが体育会系の方に適正が高いと言えよう。
ここまで息切れひとつ起こさず疾走できたことを、日々の鍛錬と妹に感謝したい。
そうしてたどり着いた二階。
ここから、マンションの構造が変わるようだ。
一階は、主に管理人室と駐車場で、住居区は二階からのようだ。
外を見渡せる入り組んだ外周を駆け抜け、上へと伸びる階段を探す。
まず、ひとつめの階段を見つけるが、
「違う……この階段は繋がってない……」
エントランスにて横目で見たガイドでは階段はいくつかあるようだったが、屋上へと繋がっていそうなものはひとつだけだった。
おそらくは、中央階段――。
上に昇れば行き当たりで、別の通路から他の階段へと移動できる可能性はあるが、もし特設フロアなどで引き返しがあったら最悪だ。
次の階段を目指し、狭い廊下を走る。
やがて、先よりも広く作られた階段へと迷わず飛び込んだ。
さらに、階段を駆け上がる。
これでも足には自信があるし、効率的な自己鍛錬の為に陸上部の練習に参加した経験もある。
神社の階段を利用した駆け上がりや、うさぎ跳びだってやった。
俺の持つ、100m11秒フラットという文科系学生会員にそぐわない黄金の足が、今まさに十全の力を発揮する時がやってきたのか――
「俺に――力を――!!」
バクバクと破裂しそうなまでの痛みを訴える心臓が、全身に酸素を送り込む。
有酸素運動だ、無酸素運動で何とかなる距離ではない!
思考はダメだ――脳が余計な酸素を消費してしまう!
ただ、無心に走れ、駆け上がるんだ、俺――!
どれだけ駆け昇ったのか、一向に見える様子のない屋上に自慢のハムストリングスも悲鳴をあげてきたようだ。
フラッシュバックするのは、初めて400m走のタイムアタックを行った時だろうか。
腿はガクガクと震え、脹脛はピクピクと痙攣を始めている。
あの時の地獄が、再び牙を向いて俺に襲い掛かっているのだ。
そもそも、携帯の明かりでわずかに視認できる高さだったのだ。
五階や六階で済むとは思えない。
朦朧としてくる意識を前に、それでも俺は、懸命に駆け上がっていた。
――クソっ……酸素が……足りない……!
肺も心臓も既にフル稼働をしている。
水泳もやっていた俺は、肺活量にも自信はるが、もはやそういう次元の問題ではなかった。
そもそも、あの恐怖の400m走ですら1分以内には走り終えるのだ。
5分間の全力疾走、吸汗性に乏しい部屋着のスウェットに、ましてや階段を含むなど……トレーニングメニューを凌駕していた。
もつれる足、倒れこむ身体、全身を濡らして余りある汗。
舌打ちしながらも全身を起こす。
筋肉以外の痛みは、おそらくはどこかをぶつけたのだろう。
しかし、気にしている暇は無い。
あと何階昇ればいい――残り時間はどれだけだ――屋上にたどり着いても……そこがゴールじゃない。
汗は滴るが、唾液は出ない。
喉はからっからに乾いている。
無理に喉を鳴らせば、そのまま張り付いて吐いてしまいそうなくらいだ。
目に入る汗に、ふと無意識にポケットから取り出した“ハンカチ”を握り締めていた。
それを額に当てて気が付く――
――こ……これは……っ!
ハンカチのように見えてハンカチではない。
薄手の三角の白地のそれは――
「ゆひの、ひたぎっ――!?」
渇き、声にならない声で荒ぶった。
何故こんなところに忍び込んでいたのか。
洗濯した際に混ざったのか。
とにかく、乱れた俺の思考は一瞬にして白一色になった。
半裸の天使がラッパを吹きながら舞い降りてきたかのように。
人それをリフレッシュと言う。
――そうか――奇跡だ。今まさに奇跡が起きたのだ!
俺には聞こえる――『お兄ちゃん、頑張って!』という妹の声が。
そう……妹を前にした俺は、まさに無敵。
無限に溢れる愛情が、全ての負の感情を押し流し、そして正で埋め尽くす!!
「うぉぉぉぉっ! 結衣ぃ! 俺に――力を――っ!!」
再び叫んだ。
完全に通報されてもおかしくない状況だが、もはや二の次だ。
脳内から放出された信号により副腎髄質が血中へと放たれ、血糖値を一気に上昇させる。
リミッターを解放し、限界を超える筋力を扱えるようになった人間は、まさに超人!
四段飛ばしで駆け上がり、一気に屋上へと続く鋼鉄の扉へと肉薄した俺は、一息をそれを開け放った。
バアァァァァンッ!!
静かな屋外に鉄が叩きつけられる轟音が響き渡る。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
間に合ったのか――!?
名前を叫ぼうとするが、生憎と少年の名前を俺は知らない。
「はぁっ、はぁっ……少年っ――どこだっ!」
足を止めずに突き進む。
少年がいるのは、屋上の縁だ。
昇降口のある中央付近に留まっていても見つかるはずがない。
グルグルと内部を駆け回ったせいと――血中酸素も足りないのだろう。
ベランダ側を探せばすぐに見つかるはずなのに、そこまで頭が回らない。
そうして走り回ると、やがて小さな影を見つけた――
「少……年っ!」
「あは……あはははは……す、凄いよ、本当に来ちゃった……」
少年がここに居るということは、間に合ったのだろう。
「はぁっ、よかった……間に合ったか……」
かつてない安堵が零れると、縁に立つ少年の元へとゆっくり歩み寄った。
「でも……」
そこで、何故か少年がチラリと自分の手首に視線を向ける。
「残念だな……」
呟いた少年の言葉の意味を図りかねる。
残念だと?
少年は何が残念だと言うのか。
「……ここまで来て……タイムアップだなんて」
「は……?」
ガシャン、と少年へと伸ばした手が阻まれる――フェンスだ。
「最後に……」
「お、おい……」
尋常ではない様子に、指をかけたフェンスをガシャガシャと揺らす。
「……嬉しかった……こんな僕のために……動いてくれる人がいるなんて」
「――っ! 少年……待てっ!」
少年がゆっくり、ゆっくりと後ずさって行く。
その足が地を踏み外すまでの猶予なんて微塵もない。
視線は少年から外さないまま、すぐにフェンスの出入り口を探した――が、遠い――!
「…………ありが…………」
続く言葉は聞こえなかった。
少年の姿が虚空へと消える。
不思議と、少年が浮かべていた顔――笑顔が酷く印象に残った。
「……ふざ……っ……けるなぁ――っ!!!!」
そのせいなのか。それとも関係ないのか。
俺は無意識にフェンスを乗り越え、無我無心の勢いのまま少年を追って宙を舞った。
◇
冷たい空気が身体を横撫でにすり抜けていく。
いつも感じる重力が消失している。代わりに浮遊感――正確には落下か。
とてつもない恐怖が全身を駆け巡っていた。
「ぬぅおぉぉぉぉぉーーーっ!」
両手両足を広げ、精一杯の空気抵抗を得たい!
だが、それをすれば先に落ちた少年との距離は増すばかり。
少しでも早く追い着くため、俺は頭を下にした直立姿勢での降下を試みた。まさに人間魚雷。
それがどうしてここまで恐ろしいのか。もしかしたら、涙が上に飛んで行ってるかもしれない。
これは、見開いた目が乾燥しないための自衛本能だ! 決して恐怖ではないっ!
諦めに閉じかかっていた少年の目。
ぐぎぎ、と空圧でどうなっているのか分からない俺の顔を見た――せいではないのだろう。驚きに見開かれていた。
「…………え? ……なっ……なにやってんのさ!」
「うっ、うるさいっ! こうなったのも全部お前のせいだろうが! いいからさっさと何か掴め! 爪が剥がれても腕を折ってもいい! とっとと減速しろ!!」
転落したのは少年の方が先だ!
こちらに加速手段がない以上、少年が何らかの手段を用いなければ、この身が対象に追い着くことはない!
「……くっ……!」
危機迫るといった俺の形相に気圧されたのか、はたまたそれ以外の感情が少年にあったのか――
理由は分からないが、少年はすぐにベランダ側へと腕を目一杯伸ばした。
その手が何かを掴み、一瞬だが少年の身体が減速する。
そして、掴まれた何かが少年と一緒に落下した。
――これは、布団か!
どうして、こんな時間に干してあったのかは分からないし、干した忘れたまま外出したのかもしれない。
とにかく、少年の身体は減速し、結果としてこちらが追い付くことができた。
俺の右腕が、がっちりと少年をホールドする。
しかし――!
このまま叩きつけられたマズい……!
せっかく減速した少年だが、追い付くための俺の落下運動量がそのまま少年と一緒に乗っている……!
迎えるのは、確実な死――。
這い寄る気配に、全身がゾッと総毛立った。
どうする……?
どうするどうするどうするどうするどうするどうする……っ!!
猶予はない!
すぐに最適解を思い浮かべろ!!
一緒に落ちる布団を利用すれば、いくらか生存率は上がるか?
植え込みに落ちれば、いくらか生存率は上がるか?
生い茂る木に落ちれば、いくらか生存率は上がるか――っ!?
――くそっ! くそくそくそがっ!
ダメだ、そんな気休めで何とかなる高さじゃない!
植え込みのツツジも、生い茂るモミの木も、その近くにある自転車も……この落下速度じゃ当たり方によってはそれだけで致命傷だ!
「―――」
…………自転車だと?
スローモーションで景色が縦へと流れる中、そこでふと、何かの違和感に気がついた。
植え込み……?
モミの木……?
――そうか!
ここは、少年が携帯を落としたポイントではない!
視線を上げれば、すぐ近くに見えるのは、駐輪場の屋根。
鉄製のパイプを基礎に組まれたその屋根の素材は…………ポリカではなく合成ゴム材――っ!!
迷わず、俺は少年を抱えたまま、マンションの外壁に向けて姿勢を取った。
少しでもタイミングがズレれば、ベランダフェンスに阻まれた足はただ無惨にへし折れるだけ。
「いっ…………けぇぇぇぇぇぇーーーーーーっ!!」
絶叫の末に放たれた脚。
身体が前へと飛んだ――。
蹴ったのはおそらくは三階……これ以上遅れれば絶対に間に合わない、最後のチャンス。
それを何とか掴んだのは最後の奇跡か――
後は、俺の脚力が、少年と俺の体重を乗せて目的地へと届くことを祈るばかり――!
「――――……!」
訪れる衝撃、音もない世界で視界は白一色に染まった。
自分の身体も、少年の身体も、もはや確認する術もない。
全身に力が入らないし、感覚も失われた。
それでも。
ただ、ひとつ分かるのは。
大きな衝撃を受けた自分の身体が――
再度、宙を舞っていること――
ただ、それだけだ。