11.お兄ちゃん中学校へ行く
早朝ランニングとトレーニングを済ませ、シャワーを浴びた後は筋肉痛を押して朝食の準備に取り掛かる。
どれほど運動を怠けていたのか、朝から筋肉痛に苛まれつつ、ぷるぷると揺れるお腹が痛いという現象にも驚きを隠せない。
「テテテッテッテッテッテー♪(×2)」
セルフエフェクトで用意する未知の三分クッキング。
越えるのは時間という理論。そして、作ったは魔王と自分の食事。
母は夜勤らしく、入れ違いで就寝した様子。今日もその顔を拝むことは叶わなかった。
家庭内ヒエラルキーを少しでも取り戻すべく日々献身に努めているのかというとそうでもなく、何となく習慣化していて『やってないと落ち着かない』というのが正直なところ。
魔王も、起きてくるなりそんなエプロン弟の姿目の当たりして何とも滑稽な相貌になっていたのだが。
「いかがでしょう?」
「…………ふ、ふん。まぁまぁよ」
捨てられたらどうしようかと思ったが、食べ物を粗末にするほど愚かではなかったらしい。
もしかすると俺を罵倒するために一口食べたのかもしれないが、結局のところそうはならなかった。
ほのかに満足げにも映る姉の表情に、胸を撫で下ろす。
「では、魔王様。夕食、何か希望はありますか?」
「まっ、魔王……?」
失言だった。
魔王様の顔色が見る見る変化していく。このままでは竜化してしまい兼ねない。
「女王様の聞き間違いでございます」
「女王……へぇ。Gのあんたにしては殊勝じゃない。ようやく天地ほど開いた上下関係を理解したの?」
G。おそらくは台所でもっと嫌われるあの生命体の略称。決してガソダムではない。
それを弟に命名するとはこれ如何に。
「そもそも料理なんてできたっけ? 帰ってきたらずっと部屋に引きこもってるのに」
「いも……いえ、キョウダイを喜ばせるために習得しました」
「ふん。あんたに姉弟なんて呼ばれたくはないけど、心掛けだけは悪くないわ。で、何が作れるようになったの?」
「和食、中華、洋食は得意です。それにフレンチ、イタリアン、オスマン辺りもそれなりに」
「何それ、ほとんどじゃない。何があったのよ……」
家族愛です。主にひとりに対する。
「では、冷蔵庫の食材と相談ということで」
やはり食という文化は偉大だ。
失態を演じてしまった翌日にしては、随分と持ち株が上がったような気がする。
愛妹の正常な発育かつ喜ばせるために身に付けた調理スキルだが、意外なところで役に立った。
食べ終えた魔王が自室に戻るのを見送った後、二人分の食器を下げて事後処理。
妹に全魂を捧げた身ではあるが、意外に執事ポジも悪くないかもしれない。
妹の執事か……うむ。至福な未来だ。
「しかし、ついうっかり魔王と口にしてしまうのは危険だ」
この少年は何と呼んでいたのだろうか。
姉さん? お姉ちゃん? 姉貴? それとも名前か?
「名前…………馬鹿な。家族の名前すら知らない、だと……?」
同居家族として許されるのか。聞いたことがないぞ。何という仮面家族。
そしておそらく尋ねたところで教えてはくれないだろう。はい、自業自得です。
だが、それは結果論ではなかろうか。
自分が記憶喪失のは姉も知っているはずなのに、学校どころか家庭における説明も一切無し。
これが両親の名代というのだから世も末である。
しかし、この魔王。どこぞで見たことがあるような気がするのだが……ミツヤに借りたロールプレイングゲームの中ボスにでも似ているのだろうか。
そうに違いない。きっとラスボスに使い捨てられる役どころだな。
◇
さてさて。
こうして直射日光に弱いはずの魔王が朝から起床しているということは、つまるところ今日から週明けの平日――そう、月曜日なのだ。
よって俺も今日から学校に通わなければならない。
それも、何が悲しいかな卒業した母校へ、だ。
いや、逆に母校というのは救いないかもしれない。
通学はもちろん、学校の仕組みや内部についての知識があるからだ。
記憶喪失とはいえ、日常生活に支障をきたさない程度の記憶は持っていた方がいい。
そうして、エプロン姿のままに姉魔王を送り出し(気持ち的には既に配下)、自分も詰襟学生服に着替えて登校する。
通学鞄はごく普通のもの。
中には筆記用具、そして時間割が分からないのでとりあえずの体操服を入れてある。
教科書の類は部屋に見当たらなかったので、おそらくは学校に置きっ放しなのだろう。まさかあの薄い本が教科書のはずはない。
何となく軽さが寂しいので、昨日買った参考書を詰めておいた。
いざという時の護身に使えるだろう。それくらいの重量にはなった。
そうして懐かしき母校へと向かう。
卒業したのは二年前だが、訪れるのは妹の三者面談以来…………割と最近だった。
家が異なるので通学路も異なるのが少し新鮮か。校門が見えてくるとそれでも感慨深い想いが込み上げてくる。
上り坂を左右に挟んで立ち並ぶ桜は既に青々と茂っており、何気ない風景が不思議と美しく感じてしまった。
いわゆる思い出補正というやつだろう。
皆中学生ということで、周囲を行く生徒たちが初々しく思える。
「……って、俺はおっさんか」
決してブ○セラ思考ではないぞ、念の為。
そもそも、中学生とはいえ受験生に当たる少年との学年は二つしか差がないのだ。
我ながら達観し過ぎていると思わなくもない。
だが、妹と同じセーラー服が見渡す半数を占めているのは眼福である。脳内で全て妹に置換しておこう。
「……ふむ? 妹と同じとな?」
首を捻る。
俺は、何が重大な事案を見落としているような気がする。
何だ? 何を忘れている?
「ぬう……」
所詮、俺は秀才。ミツヤのような天才と違い、思い出せない内容は思い出せないのだ。何せ脳リソースの大半は妹関係で消費している。
無駄に拘らずすっぱり諦めよう。どうせ後で分かることさ。ははは。笑って誤魔化せばいいのだ。
そうして、懐かしき創立記念樹――メタセコイアの前を通り正面玄関を抜ける。
とりあえず三年の下駄箱へと向かったのだが、よくよく考えると俺は少年のクラスを知らない。
幸い、鳥水木中は全下駄箱に名前が記されているので、片っ端から調べていけば自分の場所は見つけられるし、向かう教室までも分かってちょうどいい塩梅か。
探し探し、ようやっと見つけた少年の下駄箱。惜し気もなく御開帳。ぎいぃ、ばたん。
「……これは手品か。上履きがないぞ」
空っぽだった。
何度開け閉めしても上履きは現れない。ということはやはり入っていないのだろう。
……もしや、入院の際に持ち帰ったのか?
そうにしろ、意図した入院ではないので家族の仕業だろう。そのような几帳面な家族がいるとは、失礼ながらも思えない。
何せ魔王の父母ということは大魔王ではないか。変身前提である。
やむなく、事務員に断り、職員玄関から安スリッパを拝借する。
コンクリの廊下にペタペタと響く音は馴染まない――というかコンクリ床が地味に足裏に響いて痛い。またも父兄枠を思い出してしまう。
いかん、妹分が不足してきた。妹と同じセーラー服を眺めて気を紛らわそう。
頭が冴えてきた。
「そうだ。上履きのひとつ、新調すればいいではないか」
ここの中学は、学校の備品なら購買でも販売しているのだ。
自分の身体とはいえ、他人の靴というのは正直履きたいものではなし。ちょうどいいのかもしれない。
同じ理由で昨日も革靴を新調したわけにつき、いっそ体操服も有りか。
まぁ、その辺りは今後の自分の金策と相談――といったところでFA。
早めに口座も開設しておかなければと思いつつ、自分の教室らしい『三年二組』へと向かった。下駄箱談。
母校ゆえ下手に知識がある――思えばこれが失敗だったのだ。
記憶喪失なのだから、先に職員室へと向かうべきところ。
この時、俺は教室で待ち受けていた事実をまだ知らなかった。
◇
「………………」
ざわめいていた教室内が、俺の登場によって即座に静まり返った。
マンションの屋上からの落下。まさに九死に一生。英雄のご帰還ということか。
――だが、ここで問題が発生。
座るべき席が分からない。俺の席はどこだ!
確率は、6×5分の1。空いている席だけに絞ればもっと上昇するが、始業前の学生の着席などあってないようなもの。
つまり尋ねた方が早い。時間の浪費は避けるのが賢明。
「やあ、皆おはよう。僕の席はどこかな?」
向こうはともかくこちらは初対面だ。なるべく爽やかに告げよう。
短いやり取りの中での少年の口調を思い出し、普段の自分口調よりやや丁寧にしておく。
はて、こんなキャラだったろうか?
とりま、話し掛けたのは入り口付近にいた二人の女生徒。
中学生にしては容姿レベルが高い。当然か。何せ妹も中学生だ。理想像である。
だが、スカートが短い。けしからん。もっと義務教育を尊重して然るべきだ。お兄さんは悲しい。
「……えっ?」
女生徒は口を抑え、目を丸くしてこちらを見ていた。
そんなに驚くことだろうか。
それきり反応がないのでもう一度尋ねてみる。
「あの、僕の席ってどこ? 実は、記憶が不明瞭なんだ」
仮初ではあるが、事情が伝わってない可能性もあったので伝えておく。
どうにも困っているように見えるのは気のせいか。
「あー。それなら俺が教えてやるよ」
女生徒が困っていると、近くに居た男子がこちらにやって来くる。そして、机を指を差して教えてくれた。
なんと、一番後ろの席ではないか。勉強効率が悪いぞ、ここは。
「ありがとう」
個人的な不服は男子生徒とは関係ない。
含み笑いが少々気に掛かるが、わざわざ教えに来てくれた相手。
礼を言って着席する。
「……む?」
思ったより椅子が高い。いや、少年の足が短いのか。
そういえば、ランニング時の歩幅が異様に短かった気がする。考えると悲しいので背が低いと解釈しておこう。中三男子ならばまだ育ちざかりだ。
椅子を直そうと机に接触すると、机はあっさりと設置位置からズレてしまった。
なんと軽い机。これはどうしたことか。
置き勉スタイルであるはずの少年。机の中をまさぐってみるが、教科書の類が一切見当たらない。
これでは、今日一日教科書無しで過ごすハメになってしまう。
机を寄せ合うというお約束の隣人を頼るしかないだろうか。
まぁ、その前に先生に相談しよう。いきなり隣人を頼るのは気が引ける。余っている教科書を貸してくれる線もあり得るしな。
しかし、こうして一番後ろの席というのも新鮮でいい。
いつもは、率先して一番前の席を選ぶからな。その上、誰とも競合しないから役得だ。
人は何故後ろに座りたがるのか理解に欠ける。ミツヤなど最前列で堂々と薄い本を積み重ね厚い本にしているというのに。
見渡す座席数は、最初に数えた通り30。
つまり、ここ三年二組――記憶通りなら文系クラス――の生徒数は30人ということになる。区切りが良い。
概ね、登校を終えたのだろう。文系ゆえに女子の比率が気持ち高いが、ほぼ半々。
窓際の左隣席とその前席が空いている以外は全員揃っているようだ。空席は遅刻かおそらく欠席だろう。
俺が着席をしたことで、教室内に歓談――というよりもヒソヒソ話か。にやつきながら振り返る連中も反応に困る。
「しかし、何だこの匂いは……」
気のせいか、左前の空席からフローラスないい香りがする。心臓が高鳴るようだ。
これは少年の身体が反応しているのか、それとも俺の精神だろうか。ピラミッドばりのパワースポットに違いない。
そうして、俺の鼓動はどんどんと高鳴っていく。
「…………」
急に暗くなった。
教室の蛍光灯を遮られて影となったせいだ。
つまり、俺のすぐ右隣に誰かが立っている。無言で。
「む?」
その人物を見やった。
「…………」
無言でこちらを見下ろす男子生徒――のはず。
はずというのも、中三にしてはおそろしくデカい。その上にフケている。頬の彫りが深い。
目は三白眼というか吊り上がっていて、オールバックの中にひと房だけ前髪が下がっている。
問題は、顔の中心。
目と目の間を縫うように大きな刃物傷のような十字跡がくっきりと残っている。どこぞの任侠者かと思ったぞ。ペケ男とでも呼ぼう。
まあクラスメイトだ。挨拶くらいはしておかねばなるまい。
「おはよう」
「………………」
だんまりだ。
直感が告げる。きっと、コイツは照れ屋さんだ。
自分が座っているせいで窓際の席に行けないのだろう。スペースは十分にあるというのにシャイなヤツめ。
「どうかしたか?」
「………………」
あまりに見詰められるもので、つい口調が素に戻ってしまった。
きっとコイツが年下に見えないせいも多分にあるだろう。
学ランの前ボタンなど全開。風紀的によろしくはないが、何せもうすぐ六月。冬服が暑く感じてしまうのは仕方ない。
しかし、太いズボンを腰まで上げるとか、通気性を高め過ぎではないか。そこまで暑いか。精進が足りんぞ。心頭滅却すれば妹もまた可愛い。
「………………」
「………………」
お互いにだんまり。
気が付けば、教室内の誰もが無言だ。その視線はこちらに集中している。
何だこの空気は。
もしかして、コイツ、少年に惚れているのか? フォモなのか?
あぁ、確かにそんな顔をしているかもしれん。彫り深いし。もみあげ濃いし。
「悪いが、俺にその趣味はない。妹一筋だからな」
「………………」
無言で男の額に青筋が浮いた。器用なヤツめ。
血管で会話されてもさすがに理解ができない。妹の静脈認証くらいは生身でできるようになりたいが。
「立ってないで、いい加減に座ったらどうだ?」
目で隣を示した。
何というか、周囲のクラスメイトの口がパクパクと動いているが声が出ていない。
中には懸命に両手を左右に振っている者すら居た。
そこで、ようやくペケ男の唇が動いた。
「そこが……俺の席なんだよ」
「…………ふむ?」
おかしいな。
聞いた話では、ここが俺の席という話ではなかったか。
だが、この男がわざわざそんな嘘を吐く意味もないだろう。
何せ残りの空席といえば窓際、飛行機や新幹線であれば良物件だ。
「それは失礼した。さっき、クラスメイトにこの席を案内されたものでな」
「あ? 誰の仕業だそりゃあ……?」
ペケ男がクラスを振り返る、とメイトらは揃って一歩を後ずさり。
件の男子といえば、「ななな、何言ってんだよ!」とまさに顔文字のガクブル状態。
それで特定したようだ。
「……なるほど。アイツの仕業か」
目が遭うと、男子は今にもちびりそうな勢いで「ひぃぃ!」と腰を抜かしていた。
これは見ていて少し気の毒になる。もし、クラスでちびってしまったら、彼の家系に末代までの恥が築き上げられてしまうだろう。
「いや、待ってくれ。彼も座席を勘違いしたのかもしれない。二か月足らずで全クラスメイトの座席を覚えるのは意外に難しい。もしかしたら、俺が隣の席と勘違いをして受けてしまった可能性もある」
そう言うと、腰を抜かした男子はコクコクと凄まじい勢いで首を縦に往復させた。あまり振ると脳血管が千切れるぞ。
「ほう? そりゃつまり、テメェの仕業だって解釈でいいんだな?」
「だから何故、いちいち仕業だのそういう話になる。間違いは誰にでもあるだろう」
論議をするのに片や座ったままというのも相手に対し失礼だ。
立ち上がり真正面から見返す。だが、身長差があり過ぎてここでも上下関係発生。
「間違いだ? ねぇよ、んなもんは」
「なんだって?」
そんな台詞、ミツヤ以外の人物から初めて聞いたぞ。
俺の行動に間違いはない――だったか。
「あるのは、俺の敵か、そうじゃないか――の二択だ」
それは暴論――と言いかけて、俺の身体は宙に舞った。
ペケ男の上履き、つまり足が俺の左脇腹辺りにめり込んでいる。
――これはマズイぞ。
教室から女子の悲鳴が上がる。
俺の身体は派手に吹き飛ばされ、最前列まで縦に並んだ机をストライクでなぎ倒していった。
そういえば、こうして教室の天井をまじまじと眺めたことはなかったな。
「っ! いたたたた……」
脇腹をさすりながら倒れていた半身を起こした。
ダメージを確認する。ステータスウィンドウがあれば苦労はないが、そうもいかない。
たぶん、打ち身。脇腹に痣くらいできているだろう。触診した感じでは、臓器に損傷はない。
身体の割に体重があるせいで衝撃を逃がし損ねたが、自ら飛んだことで少しは軽減できたようだ。脂肪アーマーは微塵も役に立ってない。
ただし、そのせいで吹き飛ばされた分、別の場所が痛い。
……これはミツヤあるいは魔王級の蹴りだ。
何とか頭部だけは死守したが、机に当たった背中などはやはり痣になっているだろう。おのれペケ男め。
「いきなり何をするか」
学ランの汚れと埃をはたき、窓際の後部席へと歩いて行く。
ペケ男は既に自席に座っていたようだが、
「………………」
自分で蹴りを入れておいて何を驚いているのだ、この男は。
吊り目の三白眼が少し丸くなっていた。
「まぁ、いい。今回はこちらにも非がある。特別に目を瞑ってやる」
クラス中から向けられる奇異の目が痛い。
思わぬ出来事からいきなり目立ってしまったぞ。
兄道教訓――。
トラブルは、向こうからやって来る。
得てして回避は難しいものだ。