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1.お兄ちゃんとは

 



 自分とは何か――。



 名前はヒロユキ、海士坂裕之(あまさかひろゆき)

 それが、個に与えられた俺の名前だ。

 戸籍でも住民票でも何でもいい。

 自分が“海士坂裕之”だと証明できれば、それは間違いなく“自分”だと胸を張って言える。

 しかし、哲学的に“自分”を問われたことに対し、こういう返答を行う子どもも珍しいらしい。

 故に、続けてこう問われた。



 では、海士坂裕之とは何か――。



 ……小学校の担任も、中々に意地の悪い質問をしたものだと判ぜざるを得ない。

 例となった俺は、教壇の前に立つ担任の口によってこう述べられた。

 “海士坂裕之”という存在は、両親によって与えられたもので、その存在は君の脳と、そして君を知る人の知識と記憶の中にある――と。

 言い換えれば、概念的存在ということか。

 その当時、どれだけの生徒がその担任の説明を理解できたのか。

 おそらくは、自分と、今なお悪友と呼んで差し支えないとある一人の男子生徒だけだろう。



 それを聞いた俺は、すぐさま別の解答を用意した。

 概念的ではない俺の個は、その時既に俺の中で確立していたからだ。


 そして、小学生だった俺は、胸を張ってこう答えた。



『なら僕は、世界で一人、結衣のお兄ちゃんだ』――と。



 こちらの態度もあっただろう。

 俺の回答を聞いた担任は、わずかに目を丸くした後、微笑みを浮かべながら満足げに頷いていた。




 ◇




 ……懐かしい夢を見たような気がする。

 他愛のないものだったのか、思い出そうにも思い出せなかったが。



 目を開けると、全くもって見慣れない部屋が視界に広がった。

 接続具が黒ずみ、やがて寿命だと訴えるチカチカと薄暗い蛍光灯、身近にあるのはアンテナ接続されていない機能を果たさなくなったブラウン管テレビ。

 反して、ほぼ最新型ではなかろうかと知識に明るくない自分でも分かるほどに真新しいパーソナルコンピューターに繋げられたモニタは三台。

 モニタに関してはそう珍しくは思わないのだが、テレビと見比べると妙なまでの違和感をひしひしと受ける。

 そして、机、本棚、衣装ケース、部屋にあるありとあらゆる家具の上そして隙間を埋めるように並べられた累々の偶像たち。

 その大半は、女性を模して作られており、現実にあるような衣装から実現不可能なものまでまさに千差万別といったところか。

 性別以外の共通点があるとしたら、露出が高めなことだろう。

 その他、壁を見ればポスターやらタペストリーやらカレンダーやら。

 元の壁紙が分からないくらいにまでところ狭しと貼り付けられたそれらは、というかカレンダーとかこれ何年前のものだ?

 まるで必要性も実用性を感じない。

 そもそも、ろくに掃除もされていないのだから、これら全て不要なのではなかろうか?


 ――はっきり言おう。


 これらは全て、俺のものではない。

 いっそ全部を捨ててしまいたいくらいだ。

 しかし、迂闊な行動を取ればすぐにでも隣から魔王、否、破壊神が降臨してしまう。あれは、恐怖の権化だ。

 説明に困るが、借り物というわけでもなく、そもそもこの部屋自体が自分のものではない――とまで言ってしまうと、やや語弊もある。

 いまだ、自分も理解に苦しんでいるのだが……そうだな。

 “この身体の持ち主”の所有物、というと分かりやすいかもしれない。


 こうなった経緯を説明するとしたら、少し時間を遡った方がいいだろう。

 その行為は、(おの)が置かれた状況を冷静に把握する為に、自分にとっても大切なことだと判断する。


 では、回想スタートである――の巻。




 ◇




 目を開けると、すぐに見慣れた部屋が視界に映った。

 四つの円形の蛍光灯を灯す照明に、47型のテレビ。

 お茶の間芸人たちが、軽快なトークを繰り広げている。

 右手にはダイニングキッチンと、食事を取る為の四人掛けテーブル。

 自分が居るのはそこではなく、ちょうどテレビの真向かいにある二人掛けのソファーだった。

 時計を見ると、時刻は午後の六時――そして、日曜だ。


 ――どうやらうたた寝をしてしまったらしい。


 中間考査を終え、少し気が緩んだのかもしれない。

 急ぎ夕飯の支度をする為、すぐに腰を上げようと背もたれに肘を乗せ、身体に力を入れるが上手く持ち上がらない。

 不思議に思い、膝を見ると、そこには部屋よりももっと見慣れたものが全幅の信頼を預けていた。


 ふわふわと柔らかく、やや色素の薄い長い黒髪。

 すべすべと抵抗を感じない、ほんのり赤みの差した温かな頬。

 着崩れた薄手の部屋着から覗くのは、ふくよかな丸みを持つ女性の象徴にスラっと長く伸びた肢体。

 血の繋がった自分から贔屓目(ひいきめ)に見ても、一線を越えた容姿を持つ少女は、一切の世辞抜きの賛辞といって過言ではない。


 妹だ。


「……結衣(ゆい)


 すーすーと気持ち良さそうに寝息を立てる妹に、優しく声を掛ける。

 そして、右手を動かそう――とすると失敗した。

 見ると妹にしっかりと握られていたからだ。

 諦めて、反対の手を自分の膝上にある小さな頭に乗せ、軽く前後しながら再度呼び掛けると、やがて妹はゆっくりと目蓋を持ち上げた。


「ふぇ……?」


 寝ぼけ気味な妹が、片手で目元を擦る。

 そうして、焦点の合った瞳がこちらを捉えると、


「お兄ちゃん? …………あ」


 こちらの顔と膝を交互に見やり、状況を把握――というよりは思い出したのだろう。

 少しジーンズの痕が残る頬をさらに赤らめた。


「ぁ……ぅ……え、えへへ」

「……目が覚めたら身体が動かないもんだから、てっきり金縛りにでも遭ったのかと」

「そ、そんなに重くないもん!」


 赤い頬を丸く膨らませて抗議する。

 それを左右から両の指で軽く(つつ)きながら、やんわりと諭した。


「悪い悪い。でも……年頃の女の子がする行動じゃないぞ」


 妹は、中学三年。

 無邪気に昼寝をして……いい年齢ではない。

 無論、人のことを言えた義理はないが。


「だ、だって……お兄ちゃんが居眠りするなんて珍しいし、その……どうしようかしばらく眺め……じゃなくて考えてたんだけど、あんまり気持ち良さそうだったから、つい……」


 少し前までは、気付けば布団に潜り込んでくるような妹だ。

 こんあ具合に、しどろもどろになって答える仕草も久しぶりに見るような気がする。

 しかし、ここで恥ずかしいのはお互い様だ。


「いや……らしくない失態を見せた俺が悪いな」


 何らしくないかと言えば、もちろん“兄”だ。

 俺は、結衣にとって常に完璧な兄でなければならない。

 それを妹の為だ――なんて言うつもりは、犬の眉毛ほどもない。

 俺の勝手な、年長者としての自尊心が決めたこと。


「そ、そんなことないよ! お兄ちゃん疲れてるんだし……そうだ! 今日はわたしがするから、お兄ちゃんは休んでていいよ」


 微笑みながらも力説する妹の頭をもう一度優しく撫でながら、俺は首を振りつつソファーを立った。

 これから二人分の夕食を用意する為だ。

 両親は共働きで、父は外資系、母はモデルと家に居ることなどまず無いと言っていい。

 それは、今に始まったことではないし、むしろここ近年のものですらない。

 その際、家の長になるのは言うまでもなく兄である自分だ。

 自分には、両親に代わって妹の面倒を見る義務がある。


「そうだな……汚名は、夕飯で返上しようか」


 クルリと、包丁を手元で回した。

 ここでわずかに口角を上げてしまうのを、我ながらキザだと思わなくもない。

 そして、一尾辺りのエビをわずか三秒で殻剥きし、さらに追加2秒で背腸(せわた)を取るのであった。

 ついで、麺を茹でた熱湯にてトマトの皮剥きをし、別鍋の海老頭で出しを取ったスープで形が崩れるまで煮込む。


「今晩は、海老のトマトクリームパスタだ」


 わぁ、という妹の歓声を耳に、包丁捌きが軽くなる。

 ささいな余談だが、少々多めに用意したホワイトベースのエビトマト。

 それを硬めにあつらえ、(ころも)を付けてフライにしたものは明日の弁当用だ。



 兄道心得――。


 妹における兄とは、料理もできなくてはならない。



「――うむ。我ながら今日もいい味だ」


 こうして、俺は日々変わらぬ平穏な生活を送っていた。




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