序幕
音のない世界。
時間のない世界。
無。
あるのは白―――白い壁。
悠々とした広さ、はるか上方から見下す天井。
巨大な部屋。ここは部屋だ。
そう認識できるまでにやや時間がかかったのは、意識が少し朦朧としているからだろうか。
それすら判断が曖昧なのはやはりそうなのだろう、と結論付けるまでにはさらに時間を要した。
〈俺〉は、白い部屋にいた。
部屋の中央、白い床の上に仰向けに横たわっていた。
見知らぬ部屋だ。
〈俺〉の知らない場所―――〈俺〉の記憶にない場所。
壁や床、天井は全て白で塗られ、その境目すらはっきりしない。
周囲を見渡すが、扉らしきものはどこにもない。窓や換気口すらない。
―――……ここはどこだ……?
最後の記憶は、随分とぼんやりしている。
ぼわぁとイメージは浮かぶが、現在との時間関係がはっきりしない。
昨日の様に感じられれば、10年前の様な気もする。
自分の記憶、という実感すら淡い。
白い。
薄い。
薄っぺらい。
今の〈俺〉は、〈俺〉を認識づける色素があまりに頼りなかった。
この部屋に感じる不気味さは、〈俺〉自身に対するそれの投影―――そんな気すらしてくる。
思考を巡らせる。
この部屋に、自分で訪れた覚えはない。
〈俺〉でない誰かが、〈俺〉をここへ運んだのだろうか。
それにしても、ここは一体どこなのだろう。
それまで自分がいた場所も何処だったのか、まるで思考に靄がかかったかの様ににぼやけている―――
しかし、反して意識は嫌にはっきりとしていた。五感も鋭く感じられる。
違和感はある現状だが、その不自然さに〈俺〉は左程、不快さやもどかしさといったものを感じなかった。「その事実」に関しても、自然と受け入れてさえいる。
この状況を、〈俺〉は無感情に近い感じで「観て」いた。
部屋は気味が悪い程に静かで、止まってしまった時の流れは、自分をも石化させてしまったのかもしれない―――そんな場違いな事まで考えている自分が、そこにいた。
空気が僅かに揺いだ。
気配―――音。
機械的で無機質な、存在すら不確かに近い微量な音。
しかし、この白い世界ではそれは初めて自分以外の「意思」を感じさせる何かだった。
音源地を探るが、わからない。
しかし、はっきりと感じ取れた。
部屋が―――部屋全体が、わずかに振動している。
振動の幅は注意しないとわからない程小さいものだが、物凄い早さで振動を起こしていた。
俺は周囲を警戒しながら、部屋の中央から端の壁までゆっくりと移動する。
30秒、45秒、60秒―――
変化はない。
慎重に、部屋の隅まで移動する。
息を潜め、耳を澄ませるが、周囲で何か起こっている様子はない。
―――気にし過ぎ、か……。
無意識に乱れていた呼吸を軽く整える。
―――しかし、
それから、およそ2分半が経過した時だった。
―――ガコンッ
それまで静寂を保っていた部屋が、突如、縦に大きく揺れた。
「―――ッ」
突然のアクシデントにバランスを崩し、膝をつく。
直後。
キィーーーーーーン
不気味な金切声が、耳をつんざく。
それは、何故だかとても気持ち悪い感じがする音だった。咄嗟に、胸からこみあげるものを必死に呑み込み、体勢を立て直す。
足が自分のものではない様な感覚に襲われ、中々立ち上がれない。
心臓は、今にも破裂しそうな勢いで鳴り響いている。
音は―――、暫くして鳴り始めた時と同様に突然止んだ。
動悸は、それでも止まらない。
すぐにでもここを離れたい衝動に駆られるが、密閉空間のこの場所から出る手立てはない。
嫌な汗が流れる。
ポゥン
再び音。加工音。
『―――《トロイの迷宮》、起動準備完了』
続けて、無機質な機械音声が部屋に鳴り響いた。
動悸が再び、急激に激しくなる。
心の奥深い所が、けたたましく警笛を鳴らしていた。
何度も、何度も、止まってくれない。
何故だか―――非常にまずい予感がする。何か、非常にまずい……―――
そして―――それは全てが終わり、始まった瞬間だった。
『《トロイの迷宮》―――起動します』
淡々と、声が告げる。
そこに猶予などあるはずもなく―――
俺は選択の余地すらないまま、奈落の底に突き落とされた。