第四話
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私は翌日、あの日以来で初めて学校を休んだ。学校を休む理由として、間違ってインフルエンザと言ってしまったので私は一週間ほど学校に行けないのだろうか。どうしよう。
休んでする目的は決まっていた。もう一度、木の上公園に行くのだ。震える足が公園に行くのを拒んでいた。私は彼に会いたいのに、とても会いたくないようだ。
それでも、つながりは木の上公園にしかない。その事実が私の頭の中で激しく痛んだ。
私は木の上公園を訪れた。懐かしい空気。草の匂い。涼しい風が頬を撫ぜた。
私は目を閉じた。
こんにちは。遊びに来たよ。元気にしてた? キノジョー。
ゆっくりと歩みを進める。
何も見えないけれど、私の体はしっかりとキノジョーを覚えている。遊具の位置、距離、あのコンクリートの椅子。私はまっすぐに向かった。
あの時と同じ場所で私は止まった。何も見えない。このまぶたの向こうにあの人はいるだろうか。
目を開けるのが怖かった。
――ゴソッ。
刹那、衣擦れの音が耳に入る。私は驚いて目を開けた。
目の前には椅子。そして、そこには人がいた。
「お前、何してんだよ」
もう治った肩が再び痛んだような気がした。
私はどうにも動けなかった。あの時と同じだ。何も、言うことができない。心臓を直接鷲掴むように、何かが私を支配した。
「気分悪そうだな、帰れば?」
この人は、あの人じゃない。
「おい、お前! おい! ……またかよ、めんどくせえ」
男子は苛立ったように私を睨みつけた。
「ご」
「ご?」
謝ろうと思うのに、言葉が出てこない。どうして私はこうなんだ。だから私には、どこにも居場所ができないのだ。
「お前、俺のこと嫌いなの? 帰らないんなら、俺が帰るわ」
返事を待たずに、男子は椅子を立った。そして、視界に入る背中。徐々に小さくなってゆく身体。足音。
――――あぁ、ダメだ。行ってしまう。
心臓が警告するように拍動した。
彼の姿が見えた。あの日の彼の姿が見えた。
お願いだ。お願いだ。
彼が、男子が振り向いた。
「お前も早く帰れよ」
刹那、ザァーっと風が吹いた。優しい、優しい風が吹いた。あぁ、魔法だ。私はふとそう持った。
もしかしたら、あの人がすごかったんじゃないのかもしれない。キノジョーが助けてくれたのかもしれない。
「待って!」
私は叫んでいた。
「私はあなたのこと、嫌いじゃない!」
「あっそ!」
男子が背を向けたまま立ち止まって叫んだ。
沈黙。
再び、男子が歩き出す。
「待って!」
私は慌てて叫んだ。ほとんど悲鳴のような声だったため、男子が結構な速さでこちらを振り返った。かと思ったら、走ってくる。男子が目の前に戻ってきた。
「どうした?」
息を切らせながら、男子が私に聞いた。
私は自分の靴を見ながら、搾り出すように声を出した。
「誰かが去るのを見るのが怖いの。帰るのが、怖いんだ」
言いながら、まるで子供だなと思った。
居場所がないというのに、どこに帰ればいいのだ。幾度となく、キノジョーで誰かが去るのを見届けてきた。そうして、自分も『家』に帰った。やさしいキノジョーが時計の音楽を鳴らし、私を家へと追いやった。夕方の風はひどく冷たかった。
突然、目の前の男子が消えた。
と、思ったら、あの人の、あの位置――先ほど座っていた椅子に男子は腰掛けていた。男子が隣をポンポンと叩く。
――あぁ、同じだ。
きゅうっと痛む心臓を服の上から押さえて、私は『そこ』に腰掛けた。
あの時と同じように、私は自身が急速に落ち着いてゆくのを感じていた。
「だけど、どうするかな。俺とお前、ずっとここで暮らすわけにもいかねえし」
男子は真剣に悩みだしたようだった。
この人は、悪い人じゃない。
この椅子を選ぶ人はきっと、とてもいい人だ。
「ごめん。困らせてごめん。少しだけ、少しだけ時間をください」
「ま、いいけどな。俺は暇人だから」
学校をサボって何を言っているんだろうと思ったが、何も言わなかった。
隣に誰かがいて、一緒に同じ景色を見て、同じ時間を共有する――――私は、幸せだった。男子の名前も知らなかった。何も知らなかった。それでも私は、疼く肩が嬉しかった。
「君が座っている場所に」
私がいきなり話しだしたことで、空をぼうっと見上げていた男子は私の方に視線を向けた。私は自分の膝を見つめた。
「この前は先生が座っていたの」
「誰先生?」
男子は私たちの先生の中から探そうとしているようだった。
「わからないの。少し、話しただけだったから。知らない先生なの。少なくとも、私たちの学校の先生じゃないよ」
「ふうん」
「たまに、仕事の合間のこの時間に休憩に来るんだって」
独り占めしたかったはずの思い出を、私は男子に話していた。本当は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。私の空想で、妄想じゃないことを私は信じたかったのかもしれない。
「この時間に学校の先生が? 変だなあ。今日は創立記念日で代休だからまだしも」
ん? 創立記念日?
「今日は、創立記念日じゃないよ」
「え。嘘だろ」
男子は急速に顔色を変えた。
「もう創立記念日は終わったよ」
「しまった! 前の学校だ!」
うおおおおお、と唸りだした男子が少し可笑しくて笑ってしまう。必死だなあ。
どうやら男子は、高校ではめずらしい転校生らしかった。
「お、おま、おまおま、こんなところで何してんだよ!」
「い、インフルエンザで」
「インフルエンザ!?」
一々声を張り上げる。うるさいなあ。
「仮病の理由、間違った」
「ははは、馬鹿だな。お前一週間学校どうすんだよ」
私と君は同類だと思うけど。
「いつか行くよ」
「ふうん。まあ、今日は俺もいっか。ああ、俺の無遅刻無欠席記録が」
話がだいぶ逸れたなあと思っていると、男子が「で、」と言って流れを変えた。
「その先生がどうした?」
男子は話をするとき、必ず私の方を向いた。それに対して私は、自分の膝を見つめたり空を見上げたり忙しなかった。
この人はきっと、私とは違ってまっすぐな人だなあと思った。
「その先生が使う言葉が、すごく優しかったの」
優しくて、優しくて、驚いて、私はもう一度聞きたくなった。あの人の言葉を、声を、なんでもいい。
だけど。
私は、あの人に会いたくなかった。こんな時間に、こんな場所に来ている自分をあの人の瞳に映したくなかった。私が嫌いな私を、あの人に見てもらいたくなかった。
「会いに来たのか?」
「うん」
「で、俺がここにいたわけか」
「うん」
男子ははぁ、とため息をついた。
「その人は、来たかもしれない。俺が先に座っているのを見て帰ったのかも」
そう言ってから小さな声でごめんと呟いた。
「君は、キノジョーに何しに来たの?」
「……キノジョー? それとお前、キミキミって、ちょっとゆで卵の気分になるからやめろ」
「あぁ、ごめん。キノジョーは公園の名前」
名前を知らないんだけども、どうすれば。
「へえ。変な名前だなあ」
どうしよう。
「本当は木の上公園だけどね。この辺の人たちはもっぱらキノジョーって言うよ」
あなた、あんた、お前、YOU、少年。
「ローカルルールはそら、わからん。俺は引っ越してきたばっかだからな」
「で、お前さんは何をしに来たの?」
「お前さん? 俺は、遊具で遊びに来たんだ。ここちょいちょい通るからさ、気になってたんだよ。で、休憩がてらここ座ってたらお前が来た」
「遊具で遊びに来た? 一人で?」
「一人で」
「それは、座っている時点で帰ったんじゃなくて、お前さんが遊んでいる時点で帰った可能性のほうが高い気がするよ」
「お前さん? ――――失敬な!」
憤慨したように男子は顔をしかめてみせると、ややあってから私と同じタイミングで笑いだした。
あぁ、こういう優しさもあるんだなあと私はしみじみと感じていた。優しさのいろんな形が嬉しかった。
「まあ、高校生が一人で遊具で、それも全力で遊んでいたら怖いよなぁ」
全力か。それは怖い。近づきたくないレベルだ。たとえ、あんなに優しいあの人でさえも。
沈黙。
私は男子の言葉にフォローを入れなかったし、男子もそのことに別段不満そうでもなかった。私は空を見上げた。先程から幾度となく見上げていたはずなのに、私はこの時初めて、自分が見ていた空が雲一つない青空だと気づいた。
横を見ると、男子も同じようにして空を振り仰いでいた。
「なんだ、綺麗な青空だったのか」
そんな男子の言葉が私の耳に入って、私は驚きのあまり固まった。
「気づかなかったな」
男子を凝視する。
「ん?」
不思議そうに男子は私を見た。
「なんでもない」
私は少し笑いながらそう言った。
男子は私から目を離すと拳を握って私の頭を小突いた。
「悲しそうに笑うでない」
私は、ははっと声を漏らした。男子と私は同類だった。