第二話
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話したのはほんの数十分。永遠のように感じられた、否、感じたかった――この幸せな時間は、私の人生を百八十度ひっくり返した。
私の将来の夢は、優しい人になりたいという、いかにも小学生が言いそうなそれになった。ねがわくば、彼のようになりたいと、祈った。
――彼のことを何にも知らないから、こんなにも愛しいのだ。
聖人君子のような、仏のような彼の人間臭い部分を知らないから、こんなにも――――――。
私は学校に行くようになった。彼が教師だということを思い出すと、自然と足は学校へ向いた。小学校の先生か、中学校か、高校かはわからないけれど、教鞭を執っていることは間違いないのだ。彼との唯一の繋がりを絶やさぬように、それだけのために私は学校へ通った。
私が彼に関して持っている唯一の情報は『ナカザキ先生』だ。彼が電話の途中で出した固有名詞だ。それ以外に、私は彼のことを何も知らなかった。
あの夢のような日から数日が経って、私は現実の冷たい空気を吸っていた。冷静な頭で考える。
「世界って広いな」
現在は政治経済の授業中だ。私の掠れたつぶやきは特に注目されることもなく、教師の言葉にかき消された。
ありえないことだとは分かっていても、彼の姿をいつの間にか探している自分がいる。私の日常に彼の姿を探して、逃げるようにあの日を思い出した。
あれから怖くなって、私はあの公園を訪れていない。何がそんなに怖いのか自分でもよくは分からないが、とにかく何かが無性に怖かった。
授業終了のチャイムが鳴って、私は颯爽と教科書類をしまう。先生がチョークをチョーク入れに入れている間に、私は二度深呼吸をした。
私の席は窓際から三番目の一番後ろというなんとも微妙な席だ。教卓を目指して、私は足元の鞄や雑多に積まれた教科書という障害を乗り越えながら突進した。
「あの、すみません」
教師は私が話しかけてきたことに驚いたようだった。普段おとなしく、自ら話しかけるのも今が初めてだ。この教師が驚いて固まるのも無理はない。
「ん? なんや? 質問か? 今日の授業でわかりにくいとこでもあったんか?」
ちょっと嬉しそうな顔で聞いてきた。
あぁ、それは全部ですが――――とはとても言えない。
「いえ、そうではなく。先生は何という名前でしょうか。教えてください」
深々と、頭を下げる。
私はこの時、自分の薄汚れた上靴を見ていたので、おじいちゃん先生が微妙に悲しそうな顔をしたことを知らない。
「あ、えっとな。えっと、中……」
――刹那、顔を上げる。私は先生の戸惑った顔を食い入るように見た。
「中谷です。中谷陽太朗」
なんとも朗らかな名前である。
あからさまにガッカリしたような私の顔に再び落ち込んだのか、先生がただのおじいちゃんに見えてきた。
「ありがとうございます。中谷先生。もう忘れません」
中谷先生はパチパチと目をしばたたかせると、おおきに、と嬉しそうに笑った。
私はそれから授業毎ごとに、同じことを繰り返した。戸惑う先生がほとんどだったが、私が先生の名前を聞いて回っているという予備知識を得ていた先生は、なぜいきなり名前を知ろうとするのかと聞いてきた。
教師たちの間で噂になっていることを知って、私は若干慌てる。
私はその理由として、咄嗟に言葉を言うことができなかった。あの人のことを話さなければならないのかという思いだけが頭の中を駆け巡る。私はどうやら、あの思い出をほかの人に話したくないようだった。
根気強く待ってくれていた先生にようやく私は、ナカザキ先生という人物を探していることを打ち明けた。その先生はナカザキ先生を探している理由を聞いてきたりはしなかったが、その代わりに、この学校にそういう名前の人はいないということを教えてくれた。
私の肩は見るからに下がった。
私はどうやら、どうしようもなく――あの公園のあの人に会いたいらしい。
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