第一話
私は公園で遊ぶ能力を失った。私は身も心も成長する代わりに、道端で、汚い溝で、手や足を引っ掛けることのできないツルツルの木で――楽しく遊ぶ能力を失ってしまったのだ。
私は人通りの少ない時間帯に、そこを訪れた。同級生は、きっと今頃退屈な授業を受けているはずだ。
私はよく小さい頃に、そこ――『木の上公園』で遊んでいた。毎日毎日走り回って、大きく設置された時計にいつまでも背を向けて、日が暮れるまで遊んでいた。
キノジョーを目に映した瞬間、懐かしい空気がザァーっと耳を霞める。私はなんとなく太陽を振り仰いだ。目を細めて、額の前で傘を作る。キノジョーは昔のままで、変わらなかった。
ただ、人っ子一人いないキノジョーはぽつねんと寂しく呼吸をしているようだった。
一歩、足を踏み出して公園内に入った。ドクドクと変に緊張した心臓が拍動を刻む。懐かしい土の匂いが、青臭い下草の匂いが、私を包む。
――――大丈夫、大丈夫。
そう心の中で唱えながら私はゆっくりとキノジョーに侵入した。心の中は、泥棒に入るコソ泥の気分だ。
左手に砂場、目の前に巨大なアスレチック、右手に六つものブランコ、そのどれもがどこか遠い存在で、私の眼には冷たく映った。結構な広さのある公園だが、昔感じていたほどの宏大さは感じられなかった。
私は歩いて歩いて、砂場へと向かった。ちょうど砂場の真ん中についたところで立ち止まる。それから何をするでもなく私はただ棒のように立っていた。砂山や、トンネルや、落とし穴を作るかつての自分が目の淵に映るが、まるで遊び方を忘れてしまったかのように私は微動だにできなかった。
あぁ、やっぱり、キノジョーは昔のキノジョーとは違うのだ、とそんなことを思う。かつて親しげに呼んでいたキノジョーはもう、『木の上公園』なのだと、そう思った。
私の居場所は、ここにも無いのだ。コソ泥のように侵入することはできても、友人として訪ねることはもうできなかった。
私は遊具で遊ぶことを諦めて、コンクリートの椅子へ向かって歩き出した。その懐かしい椅子が見えたとき、そこにはすでに先約がいた。誰もいないと高をくくっていた私は少しばかり驚いて目を見開く。それと同時に私の歩みも止まった。
その人は男性で、年齢は見当がつかなかった。二十歳のようにも見えるし、三十代後半と言われても納得のいくような、そんな様相だった。お兄さんと見るかおじさんと見るか、若干迷う。
私の不仕付けな視線に気がついたのか、その人は中途半端なところで歩みを止めた私を見た。
この人も随分と似合わないところにいるもんだなぁ、とそんなことを思いながら私は口を開く。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
先を越された。私は戸惑いがちに同じ言葉を返すことしかできなかった。体も棒になったまま動かない。
「あの――――何か?」
その人は戸惑っているようだった。確かに、こんな時間帯に少女から注視されては居心地が悪いだろう。
私は背中に嫌な汗を感じながら、耳に響いてくる心臓の音に負けないように精一杯言葉を探した。
「すみません。何でもないんです。ただ、誰もいないと思っていたので、少し驚いてしまったんです」
その人は、私の言葉に目を丸くするとフッと笑った。
「真っ直ぐですね」
何が、とは言わなかった。
「では、失礼します。素敵な時間を」
私はペコリと礼をすると、踵を返そうとして―――――出来なかった。
――――え、え? ええ、どうなって……?
足が、動かない。棒のように、動かない。
「大丈夫? 顔色が悪い」
そう言うとその人はコンクリートの椅子を詰めてスペースを作った。どうやら私に座れと示唆しているらしい。
――――でもダメなんです。私の足はさっきから棒のように動かないんです。
心の中で必死に叫ぶ。逃げ出したい気分だった。このままでは私は可笑しな子だ。両足から伸びる短い影の中に逃げ込んでしまいたかった。
――刹那、
「どうぞ」
その人の口がゆっくりと開いて、まるで時間が急速に歩みを遅めたかのようにその言葉は紡がれた。
魔法のようだと思った。その言葉が耳朶を打った瞬間、私の足を締め付けていたものがフッと消えて、先程から暴れ狂っていた心臓もその鳴りを潜めた。
ありがとうございます、と礼を言いながら私はその人が作ってくれた場所に呆然としながら腰を下ろした。
「でも、もう大丈夫みたいです」
――――あなたの『どうぞ』がなぜか、薬のように効いたんです。
泥棒のようだと感じた心情も、ふわっと軽くなって、なんでもないことのように思えた。少しだけ、肺に入ってくる空気も優しいように感じた。
「あぁ、確かに、ちょっと血色が良くなった」
その人は私の顔を見ながらそう言った。
「顔色ってそんなに変わるものですか」
「カメレオンとまではいきませんが、さっきは青白っぽくなっていましたよ」
聞いていて落ち着く声だなぁと思った。ずっと目を合わせて話すのもなんとなく恥ずかしくて私は自分の膝に視線を落とした。
「あ、赤くなった」
私は曖昧に笑って、ごまかした。
カメレオンに負けず劣らずかもしれない。流石に緑や黄色は無理だけど。――あぁ、でもみかんをいっぱい食べたら黄色はいけるかな。
「ここへはよく来るんですか?」
私は照れていることを隠すように話題を逸らした。平日の午前中にここへ来るということは、この人の職業は特殊なのだろうか。
「よく、は来れないんですけど、たまに来ます。仕事の合間の休憩で」
「そっか、お仕事中なんですね。あぁでも、確かに休憩にはうってつけかも。」私は頷いた。「静かで、ちょっと寂しい感じが良さそう」
「慌ただしい職場だから、こういう落ち着いた場所で休憩したくて。――あなたは、よく来るんですか?」
「はい。……あ、えっと、やっぱり違います。昔は毎日のように来ていたんですけれど、最近は全然で。今日も久しぶりに来たんです。さっき、砂場に入ってみたんですけど、公園での楽しみ方を忘れてしまったみたいに動けなくなってしまって、ちょっと悲しくなりました」
「あぁ、砂場か。なつかしいですね。そういえば、僕も昔は落とし穴を作ったりして遊んでいたな。山を作って、ほら棒倒しとか」
その人は遠い目をして、懐かしむように笑う。私は目の前で笑うこの人が砂場で遊ぶ姿を想像して少し笑ってしまう。
そうか、この人も昔は子供だった。
「そうですね。楽しかったなぁ。 掘って掘って、このまま掘り続けたら地球の反対側に出るかもね、なんて言って笑って。それで頑張って爪を真っ黒にしながら掘って、コンクリートが顔を出したときは、ちょっと悲しかったなぁ」
先程から、話のオチが悲しくなった、になっているということに気づくまでに、私は少しの時間を要した。
ここで、会話が途切れた。ハッとする。横を見ると、そこには思案するような表情があった。今日初めて会った人に、私は何をベラベラ喋っているんだ。折角の休憩時間を邪魔して台無しにして、あげく困らせてしまった。相手は私のような暇人学生ではなく、社会人だ。
「ごめんなさい。困らせるようなことを言ってしまって。せっかくの休憩時間を台無しにしてしまって。本当に、ごめんなさい」
私は深々と頭を下げる。他人を困らせたことがあまりない私は、緊張で肩が強張っていることに気づいた。
それでもこの人と話をしていると、気が楽になって心が軽くなったのは確かなのだ。同時に、口がゆるくなったのも事実だが。
「でも、これだけは言わせてください。あなたとお話するのが楽しくて、本当に……あなたはとても、お話がしやすいです。私とお話をしてくださってありがとうございました」
私が立ち上がってもう一度、頭を下げると、その人も慌てたように立ち上がった。
「あ、別に僕は困ってないですよ、謝らないでください。ただ、ちょっと落ち込んでいるように見えて。言葉を、探していたんです。何か、悩みがあったら言ってください。僕で良かったら聞きます」
なんて、優しい人なんだろう――そう思った。
私が何も言えないでいると、彼はすみませんと言った。
「こんなところで、無理ですよね。それも、こんな見ず知らずのやつに。でも、落ち込んだ時は、一人でいない方がいいですよ。苦しい時は、何をしていても――楽しいはずの時でも、ふとした瞬間、悲しい感情に支配されやすいものですから」
「大丈夫です。あなたのその言葉だけで私はもう十分です。確かに私たちはお互い初対面ですけれど、私はなぜかそんな気がしないんです。きっと、話しやすいからですね」
「僕もそんな気がします。でも、話しやすいのはあなたですよ」
自身の顔が、パァっと明るくなるのを止められなかった。彼はそんな私の表情の変化を頬を緩めながら、面白そうに見ていた。
それからもう一度ベンチに座って、十五分ほど話し込んだ後の時だった――――――ピロロロロと、電子音が鳴ったのは。彼は慣れた手つきでズボンのポケットに手を突っ込み、私にすみませんと言ってから――携帯電話に出た。
それは、奇妙な携帯電話だった。見た限りでは画面が非常に小さく、白黒で、種類としてはガラケーでもない。昔一度、写真で見たことがある、ポケベルというやつだろうか。とにかくそれは、現代の若者が使うような代物ではなかった。
じゃあ、この人はお兄さんというよりは、おじさんかな、と先ほどの疑問を反芻する。
「あぁ、ごめんごめん。今行くから。はい、はいじゃあ。あ、ちょっと待って中崎先生は?」
彼は目線で私に謝ると、席を立った。私は首を横に振って、彼の背中を目線で追った。
――――先生?
この人の職業は教師だったのか。言われてみれば、なんとなく頷けるような気がした。
丁寧語ではない彼の言葉が新鮮で、断片的に聴こえてくる言葉を、私は耳の中で楽しんだ。
それにしても平日のこんな時間に、休憩に来るって、それはいいのか。非常勤講師か何かなのだろうか。
彼が電話を終えてベンチに戻ってくると、私はふざけて、先生、と呼びかけた。彼は太陽みたいに笑った。今日見た中で、一番の笑顔だった。
「あーバレたか。いや、別に隠すつもりはなかったんですけれど。あ、それよりすみません、呼び出しがかかったのでもう行かないといけなくて」
私は立ち上がって頷いた。
「長々と話してしまって……私がいたせいで、先生を待ってる人を待たせてしまって、申し訳ないです。どうも、ありがとうございました。本当に、楽しかったです。」
やや、沈黙して私は考え込むように眉間に皺を寄せる。
「……私も、今から学校に行こうかな」
尻すぼみになりながらも、前へ進む勇気をくれたこの人に、それを示したくて言葉がポロっとこぼれた。
教師なのだから、私が学生で、学校を休んで公園で遊んでいたと分かったら怒るだろうな、とそんなことを思って、少し心が沈む。
あぁでも、そもそも私が学生だってことを知らなかったのかも。
「そっか、学生だったんですね」
やはり、彼は勘違いしていたようだった。
「大学生ですか?」
「いえ、高校生です」
彼が驚いたように、少しばかり目を見開いた。大学生ではなく高校生だということは、今この時間に、ここに私が存在していることはおかしいということになる。
「……学校、休んでしまってて」
私は耳に熱が集まるのを感じながら、彼の目を見られないでそう言うと、反応を待つように黙った。亭主関白の雷を待つような気分だった。
「――――しんどかったら、無理はしないでくださいね」
真剣な目が私を見た。
――忘れていた。この人は、とても優しい人だった。本当に、どれだけ私を励ます言葉をくれるんだ。私は、何も返していないのに。
「じゃあ」
彼は言った。
「じゃあ」
私は同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
私も彼も、さようならとは言わなかった。
そして。
またね、などという言葉も言わなかった。――何も言わなかった。
私と彼の出会いは、次の約束をするほど重くもなく、またそれほど軽いものでもなかった。
彼が私に背を向けて、歩き出した。ザァ―っと懐かしい空気が耳を霞める。さぁ、お別れの時間だ。この公園で、キノジョーで何度経験しただろうか。いつまでも、時計に背を向けてはいられない。
泥棒のような心境が戻ってくる。居場所のない感じが戻って来た。
彼は自分の仕事場に戻るために、歩き出した。――――私も、私も。そう思えば思うほど、背中に気持ちの悪い汗がつたい、心臓は狂ったように、拍動を増す。
私は声にならない声を喉に絡ませて、彼の背中を食い入るように見た。
――――――待って、待って。待って!!
彼が振り返った。こちらを、私を、見た。
その瞬間、私は分かってしまった。悟ってしまった。
「ありがとう、ございました」
私は頭を下げる。深々と、深々と、深々と。
どうすることもできない。ただ、お礼を言うことしか私にはできない。
――沈黙。
「ゆっくり頑張れ」
私は彼の最後の言葉を、自分の靴を見ながら聞いた。彼がどんな表情でその言葉を言ったのか、私には知る由もない。
長い、長い間、私は頭を下げ続けた。人生で一番、長く、頭を下げた。
ようやく私が頭を上げた時には、目の前には何もなかった。
私は悟った。
顔を見ただけで、声を聞くだけで、こんなにも元気が出る、無機質な『木の上公園』をあの頃の、キノジョーに戻してくれた彼のような人はきっともう今後、現れないだろうということを。
――――――――――私は無性に、左回りの時計が欲しいと思った。