ひととき
きっと初恋だったんだと思う。
同じ小中学校の同級生にも好きな子はいたけれど……
隣に誰かがいるのを見て焦がれるような思いをしたのはあの人が初めてだったのだから。
憧れもあったかもしれない。
でもあれはきっと恋だったんだ。
報われなかったけど、今では私の大切な宝物のように大事な思い出になってる。
10日前、彼からプロポーズをされた。
一つ年上の会社の先輩。
柔らかな笑顔が素敵な会社の人気者だった彼からの告白は夢のようだった。
正直恋愛感情は持ってなかったけど、彼と付き合わないという選択は私にはなかった。
好きではないけど、何となく目で追ってしまう。
それは恋のはじまりだったのかもしれないとそう感じたから。
付き合ってから知った彼も私には勿体ないくらい素敵な人で、想われる幸せを心から感じた。
だから彼からのプロポーズに私は直ぐに頷いたのだ。
残業あがりの満員電車から、地元の駅に降りると頬に当たる風が少し冷たくなっていた。
夏も終わったんだな、とふと思った時だった。
「久しぶり」
後ろからかけられた声。
反射的に心臓がトクリと音をたてた。
満員電車から降りたばかりとは思えないような爽やかな笑顔でその人はいた。
「お久しぶりです」
小さく息をのんだあと、後ろ髪を撫でつけるように、さっきの胸の高鳴りを気のせいだと思い込むようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「聞いたよ、結婚するんだって?」
そう言って左手の薬指を指した彼に、私はゆっくりと左手を掲げた。
「情報早いですね。最近兄貴に会ったんですか?」
日曜の朝、実家である我が家に兄貴がいたのは旧知の仲間と飲んでの事。
親友であるこの人が一緒だったろうことは容易に想像できた。
「なんか、ちょっと会わないうちに大人になっちゃったな。キミちゃんに敬語使われるとちょっと寂しいぞ。そうだ、キミちゃん夕飯食べた?」
左手の袖を軽く引き腕時計で時間を確認する彼。
私の返事によって導き出されるだろう言葉に私の鼓動は細かく刻み始める。
「もしかして、奢ってくれるの?」
おどけてみたのは、これでもかっていうほどの緊張を解きほぐす為。
「もしかしなくてもね」
そう言ってみせてくれたのは私の大好きな笑顔だった。
ちょっと戻るけど、とプラットホームの反対側へ。
都会へと向かう電車は乗客はまばら、寄り添うように吊革に掴まる私たち。
あの頃の私があんなにも望んでいたことが現実におきるなんて。
吊革には左手。
視線に映る永遠の印。
大丈夫私は貴方を愛してるよ。
心の中で呟いた。
いい店なんだけど、一人でくるのは寂しいからお祝いにかこつけてかな。
なんて。
背伸びした私が入るような落ち着いた雰囲気のその店のカウンターに腰かけた。
お勧めだよとオーダーしたのはピザとパスタ。
そしてお祝いだからとはシャンパンも。
これに胸が高鳴るのはおかしな事じゃないよね。
初恋の相手なのだから。
今はそんな感情は持ってない。
そう自分に言い聞かせるように、薬指の指輪を見つめる。
でも嬉しいと思うのは良いよね……
頬が緩んでしまうのは許して欲しい。
今日だけだから。
今日だけ、少しだけ夢をみさせて欲しい。
指輪の向こうに見える彼にちょっと罪悪感を感じながら。
グラスを合わせるとチリンと澄んだ高い音。
「おめでとう」
ほんのちょっぴり胸がチクリとした。
「ありがとう」
と言いながら、これが反対の立場だったらきっと素直におめでとうなんて言えなかったかもなぁなんて不埒な考え。
「圭吾、嬉しそうな寂しそうな顔してたよ。キミちゃんの事可愛がってたのは仲間内じゃ周知の事だからね。」
うん、それは感じてた。
私だって兄貴の事大好きだったから、兄貴が結婚するって聞いた時そんな気持ちだったから。
「いっくんは結婚しないの?」
兄貴の仲間内でアウトドアに嵌っていたころ、よく一緒にキャンプやらバーベキューについて行った私。
彼の隣にはいつも可愛い彼女がいた。
その彼女に向ける優しい眼差しが私の記憶に焼き付いている。
いつかその眼差しを私に向けてほしいと願っていたなんて、兄貴には絶対知られたくない秘密だった。
「今は相手がいないからね。いつかはしたいと思うけど」
ちょっぴり切ない顔。
今の私には毒にしかならない。
たまらず、指輪を見つめる。
聞き上手ないっくんに話好きな私。
他愛ない話だけど、楽しそうに聞いてくれるいっくん。
シャンパンを飲み干し、グラスホッパーの甘くてスーっとしたミントの香りが身体に沁みわたると普段より饒舌になってくるみたい。
いつの間にか運ばれてきたパスタとピザはお勧めとあって専門店にも引けをとらない味。
あっという間に食べ終えて、カウンターにはいっくんのスコッチと私のグラスホッパー。
周りの人に今の私たちはどう映っているのだろう。
そう考えたら、ちょっとだった罪悪感が瞬く間に広がっていった。
しっかりしろ、私。
隣に並べる幸せ。
いっくんに今相手がいないと切ない顔を見たときの、ほんのり感じた淡い感情。
グラスに映る自分の顔が歪んでいる。
まるで心を中を映しているみたい。
トキメイテハイケナイ
オモイヲノコシテハイケナイ
ハヤクカエラナクテハ
会話が途切れ始めたのは終わりのサインなはずなのに
もう少し
もう少しだけ
と言葉を紡いでしまう私。
だけど笑っちゃう。
そんな時、出てくるのは彼の話ばかり。
一応自分の中でブレーキをかけているのかもしれない。
変なところで冷静な自分がいた。
「いいかな?」
そういって背広の内ポケットからタバコを取りだしたいっくん。
兄貴が同じ銘柄のタバコを吸っているのを喜んでいた過去には苦笑しかない。
そんな過去を思い出しながら私は大きく頷いた。
「彼とね、一緒にいると落ち着くっていうか、あったかい気持ちになるんです。陽だまりみたいな人なんだよ」
そう私の運命の相手は彼なんだ。
言葉に出せば出すほど指輪が主張しているみたい。
まるでちゃんと帰っておいでというかのように。
タバコの火を灰皿に押し付けるとグラスを傾けるいっくん。
スコッチが空になるのはあともう少し。
私を誘ってくれた時のように、袖口の時計を確認するのを見て、私もグラスに手をつけた。
夢の時間はもうお終い。
終電まであと2本という電車に揺られの帰り道。
時間が経つのはあっという間だった。
既に最終のバスはなく、二人並んで歩く歩道。
「そういえば、私が高校生の頃一回だけ一緒に帰った事があったよね。覚えてる?」
あの時は神様に何度感謝したことか。
「覚えてるよ、キミちゃんが文化祭の準備で遅くなった時だろ? 確かあの時も最終のバスが出た後だったよな」
そうそう、駅に着いて迎えに来てもらおうと家に連絡を入れようとしたときいっくんが声をかけてくれたんだ。何年も前の些細な出来事だけどいっくんが覚えてくれてたことにやっぱり嬉しいって思ってしまう。
ほろ酔い加減の足取りはゆっくりだったけど、もうきっとあまり会う事のないだろう別れの名残惜しさにはちょうど良かったのかもしれない。
玄関の灯りだけになった我が家の前。
「幸せにね。おやすみ」
と笑ったいっくん。
「ご馳走様、本当に今日はありがとう。これからも兄貴を宜しくです。おやすみなさい」
私の纏まりのない言葉に、手を挙げこたえた後ろ姿を見送ると合鍵を取りだして玄関へ。
大きなため息が自然と出てきた。
そっか、そうだったんだな。
今更だけど、確信しちゃった。
彼を目で追っていたのはいっくんに雰囲気が似てたからだったんだ。
でもね。
今はちゃんと彼を愛してる。
だって、こんなにも彼の声が聞きたいって思うのだもの。
この後、馬鹿正直にいっくんとの事を言ってしまった私にちょっとした騒動がおこったのだけど。
今は彼と、これでもかというほどの幸せの真っ最中。
私は確かにいっくんを好きだったけれど、今は誰よりも彼を愛している。
でもね、初恋ってちょっと特別な想いもあるからね。
あの日の事は宝物の中にいれておかせてね。
とある曲を聴いて思わず書いてしまった話です。これってアウトなのでしょうか? 迷いながらも投稿してしまいました。