体内浄土(たいないじょうど)
※残酷ではありませんが、不快感を与えるかもしれない表現が含まれています。
体内浄土
汚れたワタアメのような雲が、空、一面に広がっていた。クリーム色の雲を、眺めながら、この日はいつもと少しだけ違うな、とボクは考えていた。考えただけで、別段変ったことはなかったのだけど。
そういう気持ちのまま教室に入ったからだろうか、日常に少しだけ変化を与える光景が、教室の片隅に広がっていた。十数人の生徒たちが集まっていたのだ。
何やってんだ? と声をかけるが無反応。みんなこちらに背を向けていて、隙間のない壁が出来ていて、何をしているのか、見当もつかなかった。
窓から差し込むにぶい光が、その光景を、異様に浮かび上がらせている。だからボクは一瞬、とまどって、動けずにいた。
そのまま放置することも考えたけど、好奇心がそれを許さなかった。恐る恐るという言葉が脚にまとわりつき、前に進めるのがやっとだったが、教室はそれほど広くないのですぐにたどり着いた。そこですべての謎が解明されると思ったけど、クラスメイトの背中の壁がいくつも重なり、何を囲んでいるのか、これほど近づいたにもかかわらず確認することは出来なかった。マソシ、タツナリ、イツヤ、ミナル、どいてくれと云うがどいてくれない。接近して気づいたが、男子だけではなくて女子も混ざっている。ナヒロ、カチコ、マミエ、リリノ、どいてくれと云うがどいてくれない。ここまでくると好奇心は爆発寸前で、ボクは無理やり輪の中にもぐりこんだ。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………何をやっているのかまったく理解できなかった。ボクは夢など見ていないし幻覚の類を見る病気持ちでもないし正常だし進学と恋愛が気になる普通の高校生だ。じゃあ眼がおかしくなってしまったのだろうか。右目をつぶり、左目をつぶり、両目をつぶり、バッと大きく見開く。問題ない。わかった、頭が上手く機能していないのだ、まだ寝起きだから仕方がない。ポクポクと頭を叩く……コツコツと頭を叩く……ゴヅンゴヅン……ダメだ。これは現実だ。
登校するまではみんなと同じように、進学について頭を悩ませていた。まさかノイローゼ? と一瞬脳裏をよぎったけど、そこまで切羽詰まってはいない。機械工学の専門学校に通って運良く資格を取ってそのまま就職出来るだろう、と簡単に考えているのだ。そんなボクが、現実と妄想の境界線をさまよう訳がない。
だから今、眼の前に展開されていることは、現実なのだ。
クラスメイトのトシオミの体内に、みんなが腕を、突っ込んでいる!
泡立つ水の中に腕を入れるように、ズブズブと、なんの抵抗もなく肘くらいまで入っている。みんなに手を入れられているトシオミは痛そうどころか恍惚としていてとても気持ちがよさそうだ。それから、手を突っ込んでいるマソシやミナル、カチコやリリノたちもとても気持ちよさそうだけど彼らの表情は口が開いていて眼もうつろで今にもよだれが垂れてきそうで変な顔なので気持ちがいいのかなんなのかわからない。だからボクは大声で笑った。お腹をかかえて笑った。それから数秒後、笑いのツボも消え去り、今度はフツフツと好奇心様がボクの体内で力を増していった。
ボクも体験してみたい!
彼らにこれほどの表情をさせる体験! それがどんなものか、気になって仕方がない。
ただしこれは異常な行為なのだ。尋常じゃない行動なのだ。幻想の中に身をゆだねるともしかしたら戻ってこれなくなってしまうんじゃないか、ここで気を引き締めて現実を見つめなおしたほうがいいんじゃないのか、そういう不安が心を満たし、ボクは思いとどまっていた。
数時間尿意を我慢して、やっと解放されたような満足感を顔に浮かべるマソシ。
何日も徹夜して、やっとベッドに横になれる喜びに満ちたようなタツナリ。
長距離のマラソンを走りぬいたときの達成感を顔じゅうに浮かべるナヒロ。
深い森の中から突然大海原が顔を出したときの感動。
晴れる雲。赤ん坊の笑い声。宇宙へ飛び出すクラシック音楽。太陽よりも輝く月。海面を踊るイルカたち。空を舞う鳥。美味しい料理を飲み込む。芽を出す春草。心に染み入る歌。病気からの解放。サクラの花びらが舞う。涙が頬をつたう。家族の笑顔。恋人の笑顔。子供の笑顔。息子、娘の笑顔。
愛。
ボクは彼らを見ているとあることに気づいた。そう、彼らはみな、祝福されているようだ、と。至福に包まれている彼らの表情を見ているとそうとしかとらえられないのだ。迷う必要などない!
何本もの腕がひとつの体内に消えているけど不思議なことに反対側から飛び出していない。身体の中は腕だらけでとても密集しているはずなのにそんなふうには見えない。だから、身体に手を入れているように見えるけど実際はそうではなくてトシオミの身体が至福への入り口となっているだけでただそれだけのことで別に鬼妙なことでもなんでもない。これは、トシオミという幸せへの門なのだ。
だからボクは右腕を伸ばし、唯一あいているトシオミの首筋へ、ヌプヌプと手を押し込んだ。なんの抵抗もなかった。粘り気のある液体に腕を入れるような感触だった。
肉やら骨やら血管の手触りはなかった。生暖かいポタージュの中だった。だけどその液体はひとつの塊となってボクの手に絡みついてくる。爪のまわりを撫でまわし、人差し指、薬指、小指の第一関節……第二関節……指の腹の部分をなめまわす。それは指と指の間にまとわり手の甲へ上がってきて手首をグルグルまわる。快感はさらに上昇を続ける。
人間に与えられたのは味覚、聴覚、触覚。そのうちのひとつ、触覚を究極まで高めると、こんなにも幸せを感じられるのか! とボクはしらずしらず涙を流していた。腕だけなのに、全身に広がる快楽……快感。腕をなめまわすなめまわす……。
そこでふと我を取り戻し、周りを見渡してみると、マソシ、タツナリ、イツヤ、ミナル、ナヒロ、カチコ、マミエ、リリノたちの笑顔笑顔笑顔……。
今なら彼らの気持ち、感動がわかる。今なら現象の意味がわかる。だけどここでボクはあることに気づいた。もうひとつ先の謎に気づいた。
みんなに腕を突き立てられているトシオミの顔はどうだ。誰よりも、幸せに包まれているようではないか。
願望。欲望。野望。大欲。煩悩。利欲。念願。大願。悲願。熱願。想い。
すべてを手にした顔……表情……気色……面構え……。
トシオミは幸せへの道しるべとなってそしてまた自身も極楽へと旅立っているのではないのかだからこんな顔を浮かべられているのではないのか。
ボクは隣に眼を移した。すぐに目的のモノを発見した。
マミエ。
彼女はいつも明るく上品でボクにとって手の届かない存在として映っていた。憧れのマドンナ。彼女なら本望だとボクは思った。
彼女の手を取り、ボクは自分のこめかみあたりに、彼女の腕を持ち上げた。
体内浄土 了
自分は基本的に、落ちから考え、それに肉づけをしていくのですが、この作品はめずらしく逆のパターンでした。
若い読者にはいまいちでしたが、大人の方々には高評価を得た作品です。
ちなみに、髙樹のぶ子先生へのオマージュです。
次回は、ホラーの『鏡女』か、SF・サスペンスの『穴地獄』あたりを。
あんりでした。ありがとうございます。