瞬く二つの宿星(4)
マイセンと呼ばれる土地は、ベルゲンの北東に位置している。
赤道の直下という地理的条件ながら、マイセンは高原であるため、それを感じさせない。加えて北のザクセン山脈から吹き下ろされる風が、この土地を高温と多湿から守っていた。
そのためにマイセンは、帝国南部の立地的な条件に関わらず、土地も肥え豊穣の恵みに満ちていた。
山脈から延びる雄大なる大河ブラオ、その流れに抱かれる緑の都ミューニッヒは、この日婚礼の祝賀で華やかに彩られていた。
城壁に守られた、白塗りの建物が建ち並ぶ街並みのいたるところに、マイセンの象徴であるコンドルを描いた旗が掲げられている。表通りの石畳は色とりどりの花吹雪によって覆われ、楽士達の奏でる軽やかな楽曲が、祝賀のお祭り騒ぎを一層盛り上げていた。
町中が甘い華の香りや、様々な料理の香ばしさに満ちている。無数の露店が軒を並べ、いつもより多くの人々が通りを行き交っていた。
城市と外界を隔てる高い城壁。出入り口である城門から延びる石畳の目抜通りは、文字通りに紆余曲折しながら、街並みの中を縫っていく。
街中を流れ行くブラオ川は、このミューニッヒを幾つかの区画に別れさせ、所々に架けられた橋で互いにつながっていた。
城市を取り囲む城壁には、各所に城門が存在しており、それぞれに街中へと通づる路地が延びている。その中でも大きな城門から延びるのが目抜き通りとなり、どれも道幅こそ狭いものの、多くの人で賑わう街の中心として栄えていた。そんな市の中央に鎮座した山の頂きに、見るものを威圧するように無骨な城が築かれている。
ブラオ川に区切られた北の区画、市街地の外れに聖堂が建っている。川面に投影される白い外観は、この都に建つ建築物の中でも、随一の意匠が凝らされている。
聖堂に通じる石造りの門をくぐると、そこには聖堂前の広場が開けていた。
広場の中央では、聖人の像が市民の憩いの場を見下ろしており、それを回り込んだその向こうに、白い大理石も眩しい聖堂を望むことが出来た。
左右対称の二つの尖塔と、その間に挟まれた卵形の屋根が、特徴ある外観を印象付けている。
その聖堂ではこの日、華やかなる婚礼の儀式が執り行われていた。
穏やかに晴れ渡ったこの良日に、多くの人々から祝福を受ける一人は、マイセン領主ツヴァイク侯爵家の男子で、十八の誕生日を迎えたばかりの少年。
もう一人はマイセンの名士、豪商テイラー家の一人娘である、十五の少女であった。
この二人は幼い頃より、互いに結ばれることが約束されていた者同士、女子が十五になったのを機に婚儀が執り行われたのだ。
白を基調とした礼服に身を包んだ少年は、華奢に見えるほど色白の肌をやや紅潮させ、夕焼けの空を映したような赤い髮を軽く掻き上げた。そして明るい茶色の瞳を集う人々に向け、はにかんだようにその目を細めた。
一方の少女はやはり白いドレスで着飾っており、黒く艶やかな髮をまとめたその顔を、夫となる少年に向けた。
彼女の灰色の瞳と少年の赤茶色の瞳が交差し、二人は互いに微笑み合った。
この二人の婚儀は、その見えざる所に大人達の利害が絡んでいたかもしれない。しかし若い両人にとって、互いに向け合うその笑顔は、偽りのないものであった。
少年の名を、テオ・クライブ・ロアーと言う。大陸北方の民族ブリタンニア人の血を引いている。
少年の父リチャード・スペンサー・ロアーは、行商人であった。ガルミッシュ帝国での商いを生業とし、各地を巡って生計をたてていた。
リチャードはマイセンで一番の豪商ホーランド・テイラーと親交があり、彼を通して領主ツヴァイク侯グスタフとも交流を持っていた。
ツヴァイク侯は積極的に商人達との親交を持った。ホーランドを通してリチャードと、リチャードを通してその他の商人達とのつながりを重視し、自領の財政をより潤わせる施策を推し進めていたのだ。そのため侯爵家とテイラー家そしてロアー家は、特に深い親交があった。
そんなリチャードと彼の妻アリスを、突然の悲劇が襲いかかる。
ベルゲンの地を訪れていた隊商を、ウルク族の馬賊が襲撃したのである。
ダリューゲ公の差し向けた騎兵部隊が駆けつけた時には既に賊は去り、ただ惨憺たる有り様だけが残されていた。
保護された唯一の生存者は、未だ一歳になったばかりの赤子ただ一人のみであった。
母親のアリスが幼い我が子を、咄嗟に麻袋の中に隠したために、幸運にも命をつなぐことが出来たのだ。
この悲報を知ったツヴァイク侯は、ベルゲンにて保護された乳飲み子を引き取り、この友人の忘れ形見を自らの養子としたのである。
少女の名をマーシャと言う。やはり北方のブリタンニア系移民の子である。
父ホーランドは一代で富を築き上げ、マイセンにおけるブリタンニア系移民の地位を向上させるのに一躍かった人物だ。
そんな、成功者の代名詞とも言うべき人物の一人娘として、大切に育てられたのがマーシャだ。
帝国南部には、ブリタンニア系移民が数多く暮らしている。
ブリタンニア人とゲルマニア人は、長きにわたって互いに争いあってきた歴史がある。
ブリタンニア人は北方の民族であるため、帝国北部において彼等移民の立場は、非常に厳しいものがあった。
故にブリタンニア人が帝国で暮らすには、必然的に南へとその生活圏を求めることになる。
理由はそれだけではない。新たに拓かれた未開の地ベルゲンは、ゲルマニア人のみならず、ブリタンニア人にとっても希望を与えた。多くの貧民を抱えていたブリタンニア系移民は、理想の新天地を渇望していたのである。
何故これ程までに、北方からブリタンニア人が流れてくるのか。それは彼等の祖国での、長年続いた政情不安が理由にあった。
そのため追いやられた民が、流民となって南へと逃れて来たのである。
とは言えどもこの帝国において、ブリタンニア系移民の地位は低く、多数派であるゲルマニア人の中でその地位を築くのは、容易なことではなかったであろう。
そんな環境の中で富を手に入れたホーランドは、本音で言えば侯爵家の嫡男の元に娘を嫁がせたいと願っていた。
しかしそれが叶わないとみるや、彼は侯爵の養子に目をつけた。その養子が同じブリタンニア系であろうと、ホーランドは更なる地位の向上に目を奪われるあまり、手段を選ぶ余裕がなかったのが現実であった。
一方の侯爵にしても、テイラー家の富は是非とも味方につけたい所であっただろう。政にはとにかく金がかかるもの、財がなければ思うような治世を実現させることすら難しいだろう。
少年テオ・クライブ・ロアーは、そういった大人達の思惑を、常に肌で感じながら育って来た。良く言えば観察眼を養い、悪く言えば他者の目を気にしながらの幼少期を過ごしてきた。
本来であれば、侯爵家に籍を置く資格のない身分である。彼を養子にしたグスタフの想いとはまた別に、周囲からは冷ややかな目で見られることも少なくはなかった。
何故異民族の小倅が、侯爵家に潜り込んだのかと。
事実テオは侯爵家の養子となった後も、遂にツヴァイク姓を与えられていない。これは臣下の者達に対する侯爵の、言わば体裁であったのだろう。
それ故かテオは、己れの人生を他者に委ねることを、内心で強く嫌悪していた。恥じていると言ってしまってもいいだろう。
侯爵家で飼われている、哀れなる孤児。そんな印象を払拭したいと、テオは幼さな心に常に意識してきた。
テオは妻となる少女の腰に、そっと手を回した。そして華奢な身体を優しく抱き寄せる。
「……マーシャ」
彼の胸中にあるマーシャへの想いは、決して偽りなどではない。だが親同士が決めた婚姻という現実に、テオはどうしても反発したい衝動に駆られるのだ。
テオ・クライブ・ロアーとしては、自分が如何に妻となる少女を想っているのかを、敢えて見せ付けたいと願った。この婚礼が他者の思惑によって成ったものではないという、ささやかで幼稚な、そして精一杯の自己主張である。
人々が集う聖堂内、神々の姿が描かれた色鮮やかなステンドグラスから、眩く降り注がれる日の光を受けた少年の瞳は、まるで人血を流し込んで作った硝子細工の様に、真紅に染まって輝いた。
その瞳に射抜かれた少女は、北国の冬空を思わせるような灰色の瞳を潤ませて、夫となる赤毛の少年を見つめ返す。
そして彼女はテオの求めるままに、小さな口のやや薄めに見える唇を、夫との唇に重ねていく。
衆目の中で濃厚な口づけを交わして見せるテオは、囃し立てる者達を横目に、その瞳を更に紅く輝かせるのだった。
聖堂内の最奥部、それは意図してそう造られているのだろうか。頭上のステンドグラスより降り注ぐ陽光に照らし出された二人は、あたかも天上の神々から祝福されるかのように、眩い光のなかに寄り添っている。
神々しいまでの若い二人のもと、祝いと羨望の眼差しを向けた参列者を掻き分けるように、大股で歩み寄る人があった。
派手さはないが手の込んだ意匠を凝らした、上品な雰囲気を醸し出す聖堂に、およそ似つかわしくないその人物。
無骨な見た目通りに無遠慮な歩調で、テオの眼前までやって来た。
それに気付いた少年テオは、妻となるマーシャから身を離して呼び掛けるのだった。
「養父上!」
そう呼ばれた人物こそ、マイセンの領主グスタフ・フォン・ツヴァイクその人である。
禿げ上がった頭を愛おしそうに撫で付けて微笑む顔には、頭部とは対照的に立派な髯が存在感を誇示している。
特に体格に恵まれていると言うこともないが、堂々たるその姿は実に力強く見える。それ故にこの場の雰囲気に、いまいち適合出来ていないのだろう。
鼻の下の黄色に近い髯を指先で弄びながら、侯爵は祝福すべき二人に声をかけた。
「テオ、我が息子よ。これで私も一つ安心が出来ると言うものだ」
息子と呼ばれて少年は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。込み上げる感情を満面に浮かべて、テオは養父と対面した。
「養父上、あなたのおかけで今日という日を迎えることが出来ました。これからもよろしく、ご指導下さい」
厳つい顔を綻ばせて侯爵は、新たに家族となった娘と抱き合い、続いて己れの養子と抱き合った。
思えばこの三人は、親子とは言えども、誰として血のつながりはない。
そんな奇妙な巡り合わせに、侯爵は不思議な感覚に見舞われるのだった。
侯爵の浮かべた笑みは、複雑な心情を含んではいたが、それは決して陰のあるものではなかった。
グスタフは行動的な人物ではあったが、その反面非常に口下手でもある。今の気持ちを言葉で表現することを、簡単に諦めるのだった。
テオを抱くその腕に力を込め、あまりにも力が込もっていたために、もがき逃れようとする息子を、更に強く抱きしめた。これも不器用な侯爵流の、愛情表現である。
その様子を苦笑交じりに、数歩離れた位置から眺める青年がいた。長身の青年は肩をすくめながらも、人々が注視するその中央へと歩み寄った。
近付く青年に気付いたのは、今度は妻のマーシャである。彼女が笑顔で会釈して見せたので、グスタフもテオを抱く腕から力を抜いた。
青年は三人を交互に見回して、祝辞の代わりに笑顔を振り撒くのだ。
「父上、花嫁の前なのですから、抱擁は彼女のために控えめにしてはいかがですか?」
一応の抗議をしつつ青年は、花嫁に片目を瞑って見せる。
山吹色の前髪を指ではらう青年にたしなめられ、侯爵は渋々とテオを自己流の愛情表現から解放する。
「固いことを言うものではないぞフェルディナント、今日はめでたい日なのだからな」
「父上は力の加減というものが、どうにも苦手のようですからね。私も子供の頃には幾度となく、その洗礼を受けたものですよ」
そう言って愉快そうに笑う、身なりの良い若者は、グスタフの嫡男フェルディナント・フォン・ツヴァイクである。
物腰の柔らかく温厚そうな、一見良い意味で貴族らしからぬ印象の青年だ。
このツヴァイク家は、マイセンで一番の名門である。
およそ二六〇年前のガルミッシュ帝国建国時、功績のあったベルンハルト・フォン・キュッヒラーという人物が、このマイセン地方を与えられて領地としたのが、マイセン領主としての興りである。
後にツヴァイク侯爵家の門地を継いだ四代目当主レオンハルトが、この地の山頂に城を建て、今のミューニッヒ城市の土台が出来上がった。
当初は質素な館であったミューニッヒの城は、東の異民族イタリア人の侵攻に備えるため、堡塁や塔などを増築し、七代目当主の治世で今日のように無骨な岩城の外観が完成した。
現当主の嫡男は、父親が自分の姿を認めたとき、ほんの一瞬だが見せた表情に、敏感に気付いてしまった。
フェルディナントはそれでも、決して笑顔は崩さなかった。父の見せた寂しそうな、そしてどこか申し訳なさそうな表情の原因は、全て自身にあると承知しているからだ。
フェルディナントは義弟のテオより四歳年長であったが、未だに独り身である。つまり彼は弟に、血のつながりもなくツヴァイク性も許されていない養子に、先を越されたことになる。
フェルディナント・フォン・ツヴァイクの中に、義弟に対する嫉妬がないと言えば、それは嘘になるだろう。だが彼がそれを表に出さないのは、決して出せないのは、他でもなく己れに責任があるとわきまえているからなのだ。少なくとも父親の前だけでは。
マイセン地方とその周囲一帯の地域を治めるツヴァイク侯爵家は、領主と言うよりは国主に近い存在であり、フェルディナントはその世継ぎということになる。
したがって彼の婚姻相手は、同じ帝国内で同等の貴族家か、もしくはそれ以上の良家から迎えるのが相応である。
しかし当の御曹司が選んだ相手とは、なんと侯爵家に仕える臣の娘であったのだ。
もしも彼が嫡男でなかったのなら、つまりテオのような立場であったのなら、臣との結び付きを深める意味でも、それは必要であったかもしれない。
しかし現実としてフェルディナントは、ツヴァイク侯爵家の嫡男なのだ。父グスタフが実子と臣下の娘との婚姻を渋っているのは、至極当然の事なのである。
そんな御曹司は、義理の弟と抱き合った。無論心情はともかくとして、表向きは笑顔を絶やすことなく。
「おめでとうテオ。今日という日が訪れたことを、大神ヘカーテもお喜びだろう」
「ありがとう義兄上、貴方にそう言ってもらえるのが、何よりも嬉しい」
テオのその言葉は、本心からのものであった。彼もまた表に出しはしないが、義兄を差し置いて養子である自分が先に妻を迎えることに、少なからず後ろめたさを感じていたのだ。
厳かな空気に包まれている聖堂内、その空間に居並ぶ参列者は、いずれも身分卑しからぬ面々である。
色とりどりの衣装を身につけた参列者達、その中から一際目立つ人物が進み出てきた。それまで身を潜めるかのように、人垣の後ろに控えていたのは、まるで主役を食ってしまわないように配慮したかのようだ。
若い娘である。派手な衣装を着るわけでも、目立って自己主張するわけでもない。その美しさは誰もが一目置く、そんな存在感のある娘であった。
浴びた陽光がそのまま輝き流れているような、透き通るように眩い金髪の少女が、手に花束を持って歩を進めてくる。
優雅な足取りの娘は、手にした花束を新婦に渡すと、そのままマーシャと抱擁した。
「おめでとうマーシャ、素敵な花嫁になれたわね。羨ましいわ」
氷のような薄い青の瞳で、その少女はにこりと笑った。
次いで新郎と抱擁を交わすと、その背後からもう一人の人物が歩んできた。
中肉中背だが、実際よりやや細身に見える青年は、やはり手にした花束を、癖のある金髪を掻きながら新婦に差し出した。
「本当にきれいだよマーシャ、僕の花束も受け取ってくれるかい?」
高く晴れた日の空のように、深い碧色をした瞳を伏せがちに、少し照れながら微笑んだ。別段本人は意図してそうしているわけではないのだが、その仕草に受け取った方もつられて、思わず頬を赤らめた。
新郎としては、この罪作りな優男に対して、抗議の一つでも言ってやらなければなるまい。
「おいおいキャル……その花束は本来、このオレが受け取るべきものじゃないのかい?」
キャルと呼ばれた青年は、はにかんでいた顔をきょとんとさせると、思い出したように再度の笑顔を浮かべた。
「ああ、そう言えばそうだったかな?」
この青年はキャルドン・スタークと言い、年長ではあるがテオにとって、敬愛すべき親友でもある。
また、先の美しい娘をイヴ・メリックと言った。テオと同年の彼女も、新郎と新婦には幼少期からの友人であった。
実はこの若者達は、皆がブリタンニア系という共通点がある。
マーシャの父ホーランドと領主グスタフのつながりは先に述べたが、ホーランドは己れの立場を少しでも有利なものにするために、同じブリタンニア系の者を侯爵に推挙してきた。そうすることにより、ゲルマニア人世界の中で少数派である自分達の足場を固めようと目論んだのである。
結果マイセンの中枢には、少なからずホーランドの息のかかった者が、有力な地位を得ることになった。
だがそれは必ずしも悪い意味ではなく、優秀な人材の確保と官民の結び付きの強化に役立っていた。そして民族の融和にもである。これは長年に渡って侯爵が進めてきた、言わば国是の様なものでもある。
キャルドン・スタークの父はマイセンの政務長官という要職にあり、またイヴ・メリックの父は政務次官の役職にある。
そしてこのイヴこそが、侯爵の嫡男フェルディナントの恋人であるのだ。
そんな仲睦まじい両者を横目に見て、侯爵は複雑な表情をしている。テオとキャルドンはそれに気づき、互いに肩をすくめた。
余談ではあるがこのキャルドン・スターク、誰よりも女性に好まれそうな容姿を持っているのに、浮いた話の一つもない男である。生真面目過ぎる性分が災いしているのだろう、本人もそんな自身の性格を常々気にしていた。
「テオとマーシャが結婚し、フェルディナントの若とイヴが婚約してしまったら、僕一人が取り残されてしまうじゃないか」
冗談か本気かはともかくとして、そんなぼやきを洩らしたことがある。最もそれは、飽くまで戯れの範疇ではあったが。
ふとしたとき、テオは何とも形容のし難い不快感に襲われた。心を蝕まれるような、悪意とか憎悪とかの感情が己れの周囲を侵し始めたような、そんな見えない刃を突き付けられた感覚である。
咄嗟にテオは振り返っていた。それは誰かを振り返ったわけではなく、不快感の根源を辿り必然的にそこへと顔を向けていたのだった。
その視線の先、こちらを睨めつける呪詛のようなそれと、正面から向き合った。いや、向き合ってしまった。
テオは狼狽し後悔した。もしそうと気付いていたなら、敢えて知らぬふりも出来ただろうに。
フェルディナント、少年の義理の兄である。彼のどす黒い嫉みの切っ先が、テオの鼻先に突き付けられていたのだ。そこで初めてテオは、義兄の心の闇に触れてしまったのだ。
視線を交差させた義兄はそうと分かると、なに食わぬ顔で義弟に歩み寄り、穏やかな表情と口調で語りかけてきた。
「……どうしたんだテオ。さあ、義理の父母へも挨拶をしなければならないんじゃあないのか?」
言って、背後にいるマーシャの両親に微笑みかけた。マーシャの両親であるホーランドとその妻アシュリーは、何も気付かぬままに、そんな二人に手をふって見せた。
「え、ええ義兄上……勿論です。有り難うございます……」
忘れろと言う方に無理があろう。しかし義兄が何事もなかったように澄ましているのだから、自分だけが妙な態度でいるわけにもいくまい。ぎこちなくはあっただろうが、どうにか笑みを顔に張り付けて場をしのごうと試みた。
「テオ……?」
マーシャがそんな夫に気付いたのか、小さく声をかける。テオはしかし、笑顔のまま軽く首をふって妻の腰に手をまわした。
聖堂を後にした新郎と新婦の二人は、参列した人々に見送られて、外に待機していた天蓋のない馬車に乗り込んだ。
多くの騎兵を伴って街へと走り出す馬車。それほどの派手さはなかったが、馬車に揺られながらパレードのように、沿道に集まった市民達に手をふった。
マイセンを象徴するコンドル旗を掲げた騎士を先頭に、街の中を行く華やかな一行に向け、市民達は歓声と羨望の眼差しと花吹雪を贈る。
「私、幸せ過ぎて……何か怖いくらい」
微笑みながらそう言う妻の表情は、言葉とは裏腹に幸福そのものに見えた。その幸せを共有するはずの新郎は、しかし心の中のわだかまりを拭い去ることが出来ずにいた。
何処か虚ろな目で市民の列を見やりながら、テオは思わずにはいられない。義兄の存在が果たして自分達に、障害となって立ち塞がりはしないかと。
そんなテオの肩にマーシャが頭を凭れてきた。不意に我に返ったテオ・クライブは、そんな妻の頭を優しく撫で付ける。
「怖いか……本当に怖いのは、人の心なのかも知れないな……」
その呟きが聞き取れなかったのだろう、きょとんとするマーシャの唇に、そっと自分の唇を重ねた。その行為は目撃した市民達を、一層喜ばせるのだった。交わされた口付けに込められた、恐怖と不安への抗いを知るよしもなく。