瞬く二つの宿星(3)
ハンス・マイヤーは後ろで束ねた長い白金髪をなびかせ、馬上で器用に弓を構えてみせた。
歩兵を中心とした約一〇〇〇の部隊を率いる青年は、矢をつがえて標的に狙いを定める。
元来狩人を生業としてきた彼は、並ぶ者のない弓術の名手である。同時に馬術にも長けており、馬上での弓の扱いも実に巧みであった。
狩人としての日々が鍛えたのだろう、マイヤーの視力は、常人に比べて非常に優れてもいる。離れた標的を正確に射抜く技術は、ベルゲンでも随一であるとは、本人の嘯くところである。
ハンス・マイヤーはつがえた矢を引き絞り、一呼吸おいてから放った。
解き放たれた矢は、正確に獲物を射抜く。
一矢放てば一人を、二矢放てば二人をと、放った数だけ確実に敵を仕留めていく。
マイヤーはヒルデンを包囲する指揮官の中では最年少の、若干二〇歳の若者である。
解放軍総大将のディーター・シュライバーと、その腹心クルト・エリク・ユルゲンスの両者とは、同郷の昔馴染みであった。
幼少時から弟のように可愛がられてきたマイヤーは、周囲の反対を押しきって、半ば強引に二人のあとを追い解放軍に身を投じたのである。
そんなマイヤーであったが、若さに似合わず見事に指揮官としての任をこなしてみせた。幾多の戦いの経験が、この若者を逞しく成長させたのだ。
今では皆から信頼される一人の指揮官として、この決戦に臨んでいた。
「さあ全隊、一気に敵を切り崩せ!」
白金髪の青年マイヤーは、兵を鼓舞するように大声をかけると、得物を弓から剣に持ちかえて、敵軍へと斬り込んでいった。
リヒャルト・ゾンマーは、赤毛の髪を後ろに流した、屈強な戦士である。
馬に跨がり、雄叫びをあげながら戦場を駆けるその姿は、まさに神話に語られる狂戦士さながらであった。
元々傭兵稼業をしていたゾンマーは、赤髯のユルゲンスが味方に雇い入れた男である。解放軍の旗揚げ時よりディーター達に従い、今では指揮官の一人として、解放軍に不可欠な存在となっていた。
全身に無数の傷痕を持ち、大振りの剣を片手で振り回すような偉丈夫である。
戦場での破壊的なその様から、敵味方を問わずに畏怖されており、地上に降り立った狂戦士ベルセルクではないかと、まことしやかに囁かれる程だ。
ゾンマーの指揮下にはマイヤー同様一〇〇〇の兵が与えられ、その部隊は一直線に朱塗りの軍旗を掲げた敵軍へと、突進していった。
三方向からの同時攻撃、これは戦術においてはまさに必勝の形である。これで敗れるようならその指揮官は、無能者との謗りを受けても反論の術を知るまい。
ヒルデンの東側での戦闘は、文字どおりの乱戦となった。城外での戦闘は、この東側城門前でのみ戦われた。
北と西そして南を攻めた各軍勢は、運河を土砂で埋めようと苦心したり、丸太橋を架けるなどしつつも、次々と城壁へと取り付いていく。城壁を破城槌で破壊したり、梯子をかけて登ったりと、徐々にだが確実に守勢を追い詰めて行く。
もちろん守備側も黙って見ているわけではない。城壁の上から矢の雨を降らせるように射かけたり、煮えた油を浴びせる等の抵抗を試みる。
晴れた蒼天に突如暗雲が垂れ籠めた様に、陽光を遮って大地を闇色に染めた大量の矢の群れは、盾で身を守ろうとする寄せ手を、それでも容赦なく薙ぎ倒してしまう。
ある者は雨のように降りかかる矢に、無惨な針鼠の様にされ、ある者は煮えたぎる油を頭から浴びて、全身を焼けただれさせて絶命していく。
それでも寄せ手の兵たちは勝利を信じて、ただひたすら果敢にも城壁へと挑んで行く。
正規軍に比べて解放軍がその装備で劣っていたのは、既に過去の話となっている。
幾つもの都市を解放し、無数の拠点を攻略していく過程で、多数の装備もまた解放軍にもたらされる事となった。
そんな恩恵の中には攻城兵器の類いも含まれており、その新たに手にした力の威力は、この度のヒルデン攻めに大いに発揮されることとなる。
本陣に身を置くディーター・シュライバーは、随時もたらされる報告に、いちいち耳を傾けていた。中にはとるに足らない情報も多数含まれてはいたが、どんな些細な動きでも洩らさずに報告せよとは、ディーター自身の厳命であった。
戦において重要なのは、なんといっても情報である。ダリューゲ公爵の今日までの敗因として、情報を軽んじるとまではいかないまでも、重要視していなかった傾向がある。その事実は結果として、現在のような事態を招くに至った。
自分達解放軍が、過ちを犯し続けた公爵軍の、同じ轍を踏むことはあってはならない。
しかし情報の収集と言っても、時にはどうしても知り得ない類いのものもある。それが一つの綻びとなり、時に大局を左右する事さえあるのだ。
一人の本陣付き士官が、血相を変えて駆け寄ってきた。ディーターは何事かと、視線でその士官に報告を促した。
それを察した士官は懸命に平静を装いつつも、舌をもつれさせながら言葉を続けるのだった。
「ご報告申し上げます。南の丘陵地帯より朱色の軍旗を掲げた一隊が、この本陣めがけて寄せてくるとのことです!」
突然の報告にディーターは、その精悍そうな顔を歪めるのだった。驚きよりもむしろ、手負いの敵に虚を突かれた事実が、彼を苛立たせた。
「物見は何をやっていた!」
敵はいつの間に部隊を回り込ませたのか?夜の闇に紛れて行動したのか?いや、あるいはこちらの包囲網が完成するより早く、予め兵を伏せていたのかもしれない。
まさか守りを固めている敵が、城外に伏兵を配しているなど、ディーターも考えてはいなかった。
いや、可能性の一つとしては、充分有り得ることではあった。
彼我の圧倒的な戦力差とこれまでの勝利の連続によって、敵に対する過小評価という初歩的かつ、最低の過ちを犯してしまったのか。
朱色の軍旗といえばやはり、朱の騎士団であろう。この期に及んでもなお戦意旺盛とは、敵ながら称賛に値する。
「防げ、どのみち大した戦力など残ってはいないはずだ!」
戦いの気配が近付き、ディーターは腰の剣を確かめた。言った後で彼は、己れの発した言葉を改めて反芻するのだった。
大した戦力など残ってはいないはず?その考えが慢心となり、今回のような不手際につながったというのに。
「油断はするな、まだ他にも伏兵がいるものと警戒しろ!」
気を引きしめての命を下しながら、ディーターは傍付きの者に、自分の馬を引いて来るように言いつけた。
いざとなれば自ら剣を取って、敵と斬り合う覚悟である。自身としては、その方が性にあっているのだ。
「久しくこんな後方に押し込められていたからな、適度に身体を動かす、いい機会ではあるな」
湧き上がる闘志を抑えきれず、ディーターは戦いの緊張に不敵な笑みを浮かべるのだった。
ヒルデンに籠る守備兵達は、騎士団の奮戦にもかかわらず、精神の根幹を巨岩で押し付けられたように、深く沈みこんでいた。
応戦ももはや形だけのものとなり、戦意の喪失は取り返せないほどに深刻な事態を招いていた。
それまで烏合の衆だと教えられてきた叛乱軍が、攻城櫓や破城槌、更には投石機まで持ち出して攻め寄せて来たのだ。
それに対して、城壁の上から矢を射かける位しか抵抗の術を持たないのだから、城兵達の士気もあがろうはずがなかった。
今しも投石機から放たれた大岩が、不気味なうなりをあげて飛翔し、城市を囲む城壁の一郭を轟音と共に粉砕した。
大局は既に決している。
リントヴルム朝ガルミッシュ帝国、第十七代皇帝クリストフ・レギナルトは、このような事態に陥るまで援軍さえ満足に送ることがなかった。
皇帝はこの一連の戦いを、単なる地方の騒動でしかないと、軽く考えているふしがある。それは皇帝だけの責任ではなく、周囲を取り巻く側近達の怠慢にも問題があっただろう。
確かに帝国の長い歴史上、今回のような争乱は幾度となく起きては来た。しかしながらそれでも、今日のように深刻な事態に陥る例は、皆無であったのだ。
今まさに滅び行かんとしている者達にとって、何一つの希望につながる要素は残されてはいなかった。奈落の縁に立たされることとなったベルゲンの将兵達は、誰もが異口同音に皇帝に対して呪いの言葉を吐きかけた。
「あの愚鈍帝が!虚飾で身を飾る暗愚の権化め!」
あれほど皇帝にへつらい、それ故に今日の状況を作り上げてしまったダリューゲ公ハインリッヒでさえも、それは例外ではなかった。
公爵はクライストとブラウンという、長年公爵家に仕えてきた二名の廷臣を前に、青白い顔を強張らせながら、生気を完全に喪失したしゃがれ声で言った。
「貴公等……忠実なる臣達よ、何とか講和を結ぶ方法は無いものだろうか?」
微かに震える腕を力なく伸ばしてくる様は、往年の面影は完全に失われていた。そんな主君を目の当たりにしてブラウンは、ため息まじりにゆっくりと首を横に振る。
「今となってはもう、既に遅すぎるかと……」
今更この期に及んで、何を言い出すのか。やるせない憤りが、ブラウンの胸中に沸き上がる。これまでに幾度か和議を結ぶ機会は訪れた。だがその度に好機を逸してきたのは、公爵の狭量が招いた結果ではないか。
鈍い光を放つ淀んだ濃褐色の瞳を、虚しく燭台の灯に照らされる天井に向け、ブラウンは自身に問いを投げ掛けた。
果たしてその罪は、公爵だけのものであったか。脳髄を駆け巡るのは、自責に彩られた否定の言葉。他者の責任と決めつけてしまえば、その時だけは己れの心も安堵させることは出来るかもしれない。しかし現実というのは常に非常であり、こちらの望むような答えを示してはくれないものである。
齢六〇を前にして、すっかりと白くなってしまった頭を軽く振り、ブラウンは思う。全ては公爵の矮小な誇りと、自分達仕える家臣団の稚拙な矜持に原因がある。
そんな忌避すべき悪徳に囚われていたために、そこから脱却することが出来なかった。その全てが罪なのだ。
エーリッヒ・ブラウンは平民出身の臣である。体格に恵まれなかった小柄なこの人物は、以前はディーターの父トマス・シュライバーとも親交があった。
同じ平民の出というのもあり、ブラウンはトマスの考えに賛同する者の一人であった。見た目の貧相な自分を、公爵に推挙してくれた恩もある。
今回の解放軍の蜂起にも、心のどこかで理解をすることが出来ていたのだ。
だが結局は我が身の可愛さに友を見捨てることになり、解放軍の存在にも見て見ぬふりを決め込んでいた。
「今に至っては、これも償いか……」
彼はヒルデンと運命を共にすることで、自身の罪のけじめをつけようと覚悟していた。
オットー・フォン・クライストは下級貴族である。
下級とは言えど貴族は貴族、その誇りは常に失うことはない。故にクライストはこの度起きた解放軍の叛乱にも、終始否定的な態度を変えることはなかった。
恵まれた体格が縦にではなく、横へと向いてしまった彼は、しかし己れの職務というものを見失わない理性を備えていた。
何がベルゲンにとって最良か。それを計算できる才覚の持ち主でもあり、よってクライストもまたトマス・シュライバーの理解者の一人であった。
クライストが解放を称する叛乱に否定的なのは、このような状況に陥ってもなお揺らぐことはない。
武力による世直しなど、あってはならないと信じる彼は、常に強硬論者でもあった。
有能な官僚ではあっても、軍事には疎いクライストではあるが、頭髪のほとんどなくなった頭の中には、力による不正には同じく力によって正すのが道理であり、またそれが正義であるという考えが支配していた。
しかし一方では、その考え方こそ持てる者の傲慢であり、持たざる者を顧みない悪しき政を作り上げてしまったのではないかと、思えるようになっていた。
「降伏されるのが、一番の道かと思われます」
クライストのこの進言は、主君を見捨てるのではなく、何よりもベルゲンのために良かれとの思いからである。それを躊躇うことなく口に出来るのは、クライストならではであった。
「な……何を言うのだ。そんなことになれば、我らは間違いなく殺されてしまうだろうに!」
頬の痩けた青白い顔をしかめて公爵は言うが、もとよりそれを覚悟の上で、クライストは進言しているのだ。最早事ここに至っては、是非もなしである。
「左様、勝ち目のない戦を続けていても、無駄に兵を死なせるだけです。ならば犠牲になるのは、少ないほうがよろしかろうと考えます……」
クライストの言葉に、ブラウンも無言で頷く。言葉の残した余韻が、まさに虚飾で彩られた砂上の楼閣に響くが、果たして公爵の心には届いたであろうか。
居並ぶ廷臣達が、その不安そうな顔を一様に主君に向けている中、公爵は声を震わせながら返した。
その声はかつての自信に満ち、堂々とした大貴族のものではなく、迫り来る脅威にただ怯えるだけの、無力な初老の痩せ男のものでしかなかった。
クライストとブラウンは、公爵が決して悪人ではないことを知っている。であるから、そんな主君をここまで追い詰めた叛乱軍を、憎いと思う感情も抱いていた。
「解ってはいるのだ、それでも私は公爵家の当主だ。降伏など、するわけにはいかない!」
髪を振り乱して叫ぶダリューゲ公は、半狂乱の如く血走った目で二人の臣を睨み付ける。
これは価値観の違いと言うよりは、立場の違いであっただろう。それが理解出来るからこそクライストとブラウンには、それ以上何も言うことが出来なかったのだ。
ヒルデンの東側の戦闘は、激戦が続いてはいるものの、次第に趨勢は決しつつあった。
エマ・キルステン・フォン・ホルツが如何に女傑であるとはいえ、まだ十八の若き乙女にこの戦局を覆すことは、到底無理な話しであった。
エマ・キルステンの騎士団は、三方より半包囲の形で攻め立てられていた。
朱き戦乙女は手にした槍を振るい、文字どおりに孤軍奮闘していた。怒号と断末魔が狂気と悲壮の二重奏を演奏するがごとき戦場で、彼女は全身に返り血を浴びながら、まさに血塗られた死地を駆ける。
その様は畏怖すべき戦士の姿である。朱き戦乙女さながらであった。もっとも、敵対する者達からすれば、それは死をもたらす魔女の姿に思えたことだろう。
騎士団の予定通りなら、今頃は別動隊が敵の本陣を急襲しているはずだったが、彼女にそれを確かめる術はない。もとより成功の見込みなど、皆無にも等しいであろう。だとしても、わずかな可能性に賭ける以外に、勝利の道はなかったのだ。
彼女も既に、無数の傷を負っている。深傷と呼べるものはないにしても、その姿はあまりに痛々しい。手綱を操り槍を振るう両の腕も、先程から情けなく悲鳴をあげていた。
ベルゲンのため、騎士団のため、そして亡き父のために彼女は、それでも必死で槍を振るい続けた。
勝利することが目的ではない。ただ朱の騎士団の名を辱しめたくない、その一心がエマを突き動かしていた。
天空で猛る炎の神が、天頂からやや西へと傾き始めた頃、赤髯のユルゲンスはそんな女丈夫の様子を見て、今更ながらに感嘆の声を漏らした。
彼女の周囲には既に無数の屍が転がり、解放軍の兵達もその女傑ぶりに戦いて、望んで挑みかかろうとはしたがらない。そのため乱戦であるというのに、彼女を中心とした一帯だけが、不自然にぽっかりと穴が空いたかのように見える。
「まったく、見事なものだな……」
まるで独創性のない呟きであったが、心から口にした感想でもある。敵味方を越えて勇者は称えられるべきであろうが、そうは言えどこれ以上兵を死なせるわけにもいかない。
「遠巻きに狙って行け、多少の無礼は俺が許すぞ。見事戦乙女を口説き落としてみせろよ!」
それはつまり、エマ・キルステンを生け捕りにしろと言う意思を込めた言葉であった。
ユルゲンスはホルツ親子との面識こそなかったが、ベルゲンに住む民で騎士団の勇名を知らぬ者はない。この地方では子供に聞かせる物語や童歌にさえも、朱の騎士団は頻繁に登場するほどである。
「朱き戦乙女か……」
このまま討ち果たしてしまうのも、なぜだか不憫な気がするのだ。何より追い詰められた美女を非情にも討ってしまっては、後の歴史にどんな悪名で語られるか、知れたものではない。
むしろ敢えて助けたならば、クルト・エリク・ユルゲンスの名は、より美談に彩られるというものだろう。などと戦のさなかにあってもなお、この様な思考を巡らせるのは、彼一流の冗談ではあった。もっとも、それを解するのに一般の感性では、役不足であったかもしれないが。
司令官の特殊な感性は別として、解放軍の兵達は長い木の棒や投げ縄を持ち出して、女騎士エマを生け捕ろうと牽制する。
あからさまな敵の動きにその意図を察したエマは、忌々しそうに歯軋りして槍を握る手に力を込める。
「ただで生け捕りに出来るなどと、この私も安く見られたものだな」
肩で息をしているエマは、どうにか気を落ち着けようとして、何度も深く息を吸い込んでは吐き出す。
酸素を吸い込む度に生臭い血の臭気が鼻腔を刺激し、今まさに自分は戦場のただ中にあるのだと、改めて再確認させられる。
周囲を見回せば、今や味方の姿も見当たらない。単に彼女が取り囲まれて、味方から引き離されているからなのだが、エマからすれば味方は既に全滅してしまったかのように思えた。
さすがの戦乙女も、遂には心が挫けそうになる。父親から譲り受けた名誉ある騎士団を、むざむざ失おうとしている。己れの力量など所詮はこんなものかと、絶望感に目眩すら覚えるのだった。
この様な状況に陥ったのは、決して彼女の無能などではなく、むしろこの結果は不可避であったかもしれない。
だがそのような見解など、彼女にとっては何の慰めにもなりはしない。ただ容赦なく浴びせられる激しい陽光が、彼女の肉体を焦がすのと同様、自責の念がエマ・キルステンと言う一人の人間を、押し潰そうとしていた。
戦乙女は血糊と脂で既に用をなさない槍を、その手から投げ捨ててしまうと、やはり真っ赤に汚れたその手で、腰に下げている短剣を引き抜いた。
諦めてしまったのか、馬上で動きを止めたエマに、解放軍の兵達が一斉に縄を投げつける。
投げられた縄の一つがエマの跨がる白馬の首にかかり、ここぞとばかりに兵が群がっていった。そして数人がかりで、力任せに引き倒したのである。
勢いよく投げ出されたエマ・キルステンは、そのまま強かに大地に叩き付けられた。衝撃でしばらく呼吸の出来なくなった彼女は、懸命に地を掻きながら喘いだ。
這うようにして地面を転がり、ようやく伸ばした手の先には、取り落とした短剣があった。
それを拾うや彼女は、鳶色の目を見開いて、躊躇う間も惜しむかのようにその切っ先を、己れの喉に突きあてた。
「最早……これまで!」
見開かれていた両の目を固く閉ざし、いよいよ覚悟を決めた刹那である。垣根のように取り囲む人馬の壁を突き破り、敵勢の中を抜け出して来た騎士があった。
その騎士はエマの眼前で馬上から飛び降りると、今にも自らの命を絶とうとしている戦乙女に飛び掛かった。
抵抗する間もない。エマ・キルステンは手にしていた短剣を、鋭い手刀で叩き落とされ、そのまま突き飛ばされて地に伏した。
唖然としているエマを見下ろしながら、その騎士は目の前で這いつくばる者に、容赦のない怒声を浴びせかけた。
「我等騎士団の長たる者が、率いるべき騎士を残して死のうなどとは、亡きお父上に申し訳ないとは思われませぬか!」
朱色の甲冑を身に着けた騎士を見上げ、エマは呻くような声を漏らした。
「ペーターエダー……貴公、無事だったのか……?」
髯の濃く、ややえらの張ったその顔は、良く見知っているものであった。それを確認したとたんにエマは、安堵のためであろうか力なく地面に突っ伏してしまう。
戦乙女エマ・キルステンにはもう、既に戦う気力など残ってはいなかったのだ。
じりじりとにじり寄る解放軍の兵。強情そうな顔を更に険しく、ペーターエダーは敵を睨み回した。
何をするものかと張り詰めた空気の中、厳格なる騎士は大音声で敵の囲みに吼えた。
「良く聞け、我々は降伏する。ただし、我が団長に危害を加えるとあらば、その時はこの私が黙ってはおらぬぞ!」
それは有無を言わせぬ勢いであった。騎士ペーターエダーの気概は、解放軍の兵達を圧倒する。
この騎士のみではない、既に騎士団にとってエマ・キルステンは、最後の拠り所であった。
降伏はするが決して媚びず、へつらわず、誇りは捨てない。ましてや団長である朱き戦乙女を、叛徒どもの好きにはさせぬ。そんな覚悟をうかがい知ることが出来た。
ペーターエダーのこの判断は、彼の独断によるものであったが、それでもエマは内心で、この騎士に感謝せずにはいられなかった。
降伏は不名誉であるという一面だけではない、騎士団そのものを救う可能性につながるのだ。この選択は、エマには遂に導き出すことが出来なかった。
そんな様を見ていたユルゲンスは、やや複雑な表情で、全部隊に戦闘の停止を命じた。その顔は、あからさまに不満気であった。
敵将の生け捕りが成ったのは良い。しかし降伏をされたのでは、その後の処遇が複雑になってきかねない。加えてあのように悲壮ぶられては、勝者としてもどんな顔をすれば良かろうか。
ユルゲンスは、軋みながら引き上げられていく跳ね橋に目を向けた。橋を上げられては一気に雪崩れ込むことは無理であろうが、最早そんなことはどうでもよかった。
城門前は今や完全に自軍が制圧しており、どちらを向いても味方の兵で埋め尽くされていた。
「朱き戦乙女に会ってみよう」
この時点でユルゲンスは、既に勝利を確信している。何も慌てて攻め寄せることはなかろう。
今の彼にとって全ての興味の対象は、敵将である戦乙女に向けられていたのだった。
くすんだ金髪を風になびかせて、長身の青年は遠くを眺めるように目を細めた。伝令によって次々にもたらされる報告に、耳を傾けているのだ。
時折そよぐ風が、火照る身体に心地よかった。
本陣に奇襲を仕掛けてきた敵の部隊は、味方の勇戦により撃退に成功していた。実に称賛すべき騎士達ではあったが、彼我の戦力差を考えれば、最期の悪足掻きと言う他はないだろう。
残念ながらディーター自身には、自ら剣を振るう機会には恵まれなかったが、個人的な理由はともあれ勝利には違いない。
何よりの朗報は、朱の騎士団が降伏したとの報告であった。
「どうやらクルトが、上手くやってくれたようだな」
ディーター・シュライバーは呟いて、思わず顔をほころばせた。
敵の奇襲部隊もそうだが、積極的な抵抗を見せているのは、朱の騎士団ぐらいのものである。即ちそれさえ沈黙させてしまえば、直接的にも間接的にも、ヒルデンの敵を追い詰めたことになる。
破壊された城壁の一郭に、味方の兵が殺到していく。戦いはいよいよ最終局面を迎えた。心を砕かなくてはならない要素など、既に存在していないように思えた。
戦いには勢いが重要である。このまま一気にヒルデンを落としてやる。ディーターは内心で気が急いていた。
最後の瞬間まで油断は出来ないだろう。しかしここまでの優勢に持ち込めたのならば、最早細かな作戦など必要もなかっただろう。
ディーターは解放軍にとっての戦いが、間もなく一つの区切りを迎えようとしていることを実感し始めていた。長い苦難の先にようやく見えた、光明という答えである。
多くの犠牲の果てに、偶然得られた結末などではない。これからの未来を、自分達の手で勝ち取ったという結果であるのだ。