瞬く二つの宿星(2)
ガルム二六二年、ディーター・シュライバー率いるベルゲン解放軍は、完全にヒルデンを包囲している。この包囲網は、敷かれてから既に一ヶ月が経過していた。
城市の周辺一帯はほぼ制圧下にあり、残すは眼前にそびえる城壁の向こう側のみである。この包囲から逃れる術があるとするなら、それは空を飛んで逃げる他にないだろう。
もっとも人である身ならば、その様な事を試したならどんな結果が待っているか、容易に想像が出来るだろう。
ヒルデンの城市は町全体が堅牢な城壁に囲まれており、その外周には更に運河が巡らしてある。ダリューゲ公ハインリッヒはそれを頼みとして、ここに城下や近隣の農村から男手をかき集めて、守備兵力に組み込んでいる。
ヒルデンを守る兵力は、数だけは数万規模にまで達したが、実際の正規兵数は三〇〇〇に満たないのが現実であった。
そんな城兵達は絶望的な状況に士気も乏しく、であるから必然の事、脱走しようとする兵の数は日増しに多くなっていった。自ら投降し、解放軍に加わる者も少なくはない。
『多くの民は解放軍に賛同している』
ユルゲンスの公言したその言葉は、現実に形となって証明されたわけだ。
クリスタルのシャンデリアに照らされてもなお薄暗く、魔女の釜に煮られているかのような室内にあって、次々ともたらされる報告を受けるたび、ダリューゲ公爵は顔色をその都度蒼白にしたという。届けられる報せが、朗報であったためしがないからである。
民の貧困を嘲笑うかのように贅を尽くした生活を送っている貴族達は、民草の置かれた現状などには意識を向けることなど有りはしない。
それを具現化したかのように豪奢な調度品がところ狭しと並べられた、結論の得られない会議の繰り返し開かれているその室内。淡く照らす燭台の灯りに浮かび上がる顔は、焦燥のためであろうか酷く痩せほそって見える。もともと血色の良いとは言えない顔が、更に青白くなってしまったようだ。
公爵の焦る心情がそのまま移ったかのように、その場に居並ぶ臣下の者も皆、どこか落ち着かずに青白い顔を陳列させている。それは例えるなら、まるで亡者の群れの如くである。
ヒルデンの城内は、およそ覇気というものとは無縁であった。誰もが己れの行き着く先に、明るい未来など想像すら出来ずにいたことだろう。
しんと静まりかえる室内に、公爵の恨みがましい溜め息が、今にも消えてしまいそうな弱々しい灯火のように、力なく漂っていた。
「これだけの者が揃っていながら、誰も叛徒どもを止められないのか!」
しわがれたその声に答えられる者は、既に何処にも存在しはしない。
虚しく響く公爵の声は、そのまま城内の薄い闇の中に溶け込み、あたかも己れ自身に向けられた呪詛のようにすらも聞こえた。もはや何の効果ももたらすことはなく、ただ耳に不快であるだけだった。
城市をぐるりと包囲する解放軍、その東側に位置する司令部の置かれた本陣では、総大将ディーター・シュライバーが出陣を控えた兵士達を眺めていた。
涼やかであるが、しかし熱い志しを内包した瞳には、これより死地に赴かんとする兵士達が頼もしく映り、ディーターは満足気に目を細める。皆が同じ志しを共有する、生死を共にする同志である。
同時にディーターは、今朝の夢を思い出していた。
彼の心には巨大な重圧と一抹の不安、そしてぬぐい去ることの出来ない戦いへの罪悪感がのしかかるが、ディーターは頭を振ってその思いを振り払おうとした。
何もかも全てが覚悟の上での事だったはずだ、今更事ここに至って迷いなどあってはならない。戦いはこちらが望もうと望むまいと、最早後戻りをすることは出来ない。
そんな埒もないような葛藤にいつまでも喘いでいる時、ふと近付いて来る者の気配に気付いて振り返る。
そこには見知った、大柄な男の姿があった。
「いよいよこの日が来たなディーター」
馬上にあるクルト・エリク・ユルゲンスが微笑みを浮かべながら、立ち尽くしているディーターに声をかけてきた。
人並み以上の体躯を持つこの男は、その口から吐き出す声もやはり大きい。
赤髯の友に顔を向けたディーターは、胸中の不安を悟られまいと、ようやくの笑みを顔に張り付かせる。
「ああ、そうだなクルト。これで最後だ、決着を着けよう!」
友のいまいち緊張感に欠ける声に頷いて、どこか陰りのある対照的な微笑みを返した。
今ベルゲン解放軍にある兵力は、実に四〇〇〇〇を数える。
農民を中心とした民、降伏したり自ら合流してきたり等の正規兵、そしてこの土地の先住民族ウルクの民。
これらが一つとなって、解放軍はダリューゲ公爵を追い詰めるに至った。
これに抗う公爵の軍は、実戦力などほとんど期待の出来ない、烏合の衆と化している。
敗戦につぐ敗戦によって、すでに軍隊としての組織が、崩壊しかけているのだ。
ディーターの元に一人そしてまた一人と、伝令が駆け付けて来た。各部隊を率いる指揮官達からの報告が、現場よりもたらされるのだ。
伝令は皆一様に、総攻撃を開始する準備が整った旨を告げる使いであった。
一通りの報告を受けたディーターは、クルト・エリク・ユルゲンスの跨がる黒毛の馬に手を当てた。その鼻面を軽くなでてやりながら、眩しい陽光に目を細めて友を見上げる。
「だがクルト、全軍の参謀であるお前が、自ら前線に立つ必要はないだろう?」
解放軍の参謀を務めるユルゲンスは、旗揚げから四年にわたる戦いの中で、常に作戦の立案を担って来た。
当初は指導者であるディーター共々、前線にて指揮を執ることも頻繁であったが、勢力が膨れ上がり解放軍の陣容も厚みを帯びてくると、後方での指揮が専らとなっていたのである。
「いやなに、この戦いはこれまで経てきた闘争の集大成と言っても良い。最後の締めくくりはやはり、作戦を立てた当人として見届けたい」
その言葉には覚悟と決意が込められている。一見飄々とした男ではあるが、内に秘められたものに気付かされたからには、今更止めるのも野暮ではあっただろう。
そんな友にディーターは、強く頷いて返すのだった。
「頼んだぞクルト。俺はここから動けないから、お前の働きに全てがかかっている!」
言われてユルゲンスは、髯面に笑みを浮かべて片目を瞑ってみせる。
「おう!総大将はそこで、のんびりと見物でもしていればいいさ」
上品とは言い難い大きな声で、自信に溢れた言葉を吐くユルゲンスは、東側に位置する城門を攻める手はずになっていた。
彼の下には旗揚げの頃より従っている、マイヤーとゾンマーという二人の将が、行動を共にすることとなる。
東側は、広大なベルゲン荒野に延々と続いていく街道が横たわっており、街道を封鎖してしまうことでヒルデンへの陸路からの流通を遮断してある。
ヒルデンの北と西からは元ベルゲンの将であった二人、ガーランドとブーフホルツという降将率いる部隊がそれぞれ攻めかかる。
ガーランドが陣取る北側は何のへんてつもない平野部が広がるだけで、所々に男手を奪われた農村が点在している。
一方のブーフホルツが睨みをきかせる西側は、ペルセの大河がその雄大な流れを湛えており、その地に陣取ることによってヒルデンの水上補給路を断っていた。
残る南側を任されたのは、先住民族ウルクの民を率いる長アブドゥッラー・アリー・ハッダードの軍勢である。
この城市には三ヶ所の城門があり、ディーターのウルク族への信頼の証しとして、その一つを攻める重要な役割をウルク人に任せることにした。
南へと延びる街道を彼等が封鎖したとき、ヒルデンの城市は完全に陸の孤島と化した。
まさに一触即発と言うべき空気が漂う中、これ等の軍勢がディーターの号令を、息を潜めるようにしてじっと待っている。
このおびただしい数の人馬が上げる気炎は、陽炎となって戦場となるべきこの土地を、不吉なほど妖しく幻想的に浮かび上がらせていた。
黒々とした姿をさらすヒルデンの城郭は、さすがにベルゲンの都であるだけに、堂々としたたずまいで鎮座している。
その守りも堅く、交通の要所でもあることから、侵入者を防ぐためのあらゆる設備が、整えられている。この城市の歴史は常に、難攻不落という言葉で形容されてきた、有数の堅城である。
だが遂にその神話にも、終わりの時が迫っていた。
天空に昇った炎の神ソルの陽光が、容赦なく地上を焼く中で、両軍は最後の決戦の時を迎えようとしていた。
ペルセ川流域の広大なベルゲンの野を、一陣の風が吹き抜けていく。決戦を前にして猛るその熱気が、一気に爆ぜる時を息を潜めるように待っている。
大地を抜ける風は、時おり東の方角から砂漠の砂を運んでくる。遠く西方の彼方に青く霞む山々は、悠久の刻を経てこの大地を見守り続けて来たのだろう。
人間の歴史を天上より眺めてきた神々は、今この瞬間をどの様に見ているのだろうか。
ならば大神ヘカーテよ、我等の戦いを篤と御覧じるがいい。
雲一つなく晴れた空の下に、ディーター・シュライバーの号令が響き渡る。
軍旗が大きく振られ、ラッパ手がその得物を高らかに吹き鳴らす。全軍に総攻撃開始の合図が送られたのだ。
「さあ、ぼちぼち始めるとするか!」
軽口も勇ましく、自ら馬を駆るユルゲンスを見送り、ディーターは感慨を抱かずにはいられない。この四年の間に、解放軍も頼もしくなったものだと。
最初は農民が中心の、小規模な叛乱でしかなかったものが、今では数万規模の解放軍を組織するまでに膨れあがったのだ。手にする武器も農具の類いから剣や槍に代わり、粗末な衣類しか身に付けるものがなかったのが、今や誰もが胸甲と盾を装備していた。何処から見ても、立派な軍隊ではないか。
その誇るべき軍隊が今、仇敵ダリューゲ公爵を追い詰めるまでに至ったのだ。考えてみれば、何とも奇妙なものである。
戦場に身を投じたクルト・エリク・ユルゲンスは、左右にマイヤーとゾンマーの部隊を伴い、ベルゲンの野を一気に駆けた。
砂埃をあげながら、見渡す限りの高い城壁に囲まれたヒルデンの城市に寄せて行くと、深い堀の対岸、正面に立ち塞がる格子状の城門が、激しい軋み音を立てながら引き上げられていくのが見えた。
それを目の当たりにしてユルゲンスは、その光景の意外さに驚いて、軽い呻きを洩らすのだった。
守りを固めている敵軍に、最早打って出る程の戦力も意気込みも、有りはしないだろうと考えていたからだ。
然れど己れの予想や希望的観測など、現実の前ではなんと無力なものであるだろうか。
「俺の認識がほんの少しばかりだが、甘かったということだな……」
舌打ち混じりに呟いてユルゲンスは、軋みながら開かれていく城門の奥に目を凝らした。
下ろされる跳ね橋のその向こう、城門の口に現れた一団を確認したとき、それこそ予測の範囲外であった現実を突き付けられる。
現実を前に赤髯のユルゲンスは、思わず困惑と狼狽が混在した声を上げていた。
「あれは……まさか?」
それは朱色に統一された甲冑に身を包み、同じく朱色に染め上げられた軍旗を掲げる、騎兵からなる一団だった。朱の騎士団(あけのきしだん)が、その名称である。
ユルゲンスは手綱を握りながら、目の前の光景を自分に納得させるべく思考を巡らせた。
朱の騎士団は、ベルゲン軍の中でも最精鋭とされる一軍である。過去に幾度か兵を交え、そのたびに彼らの精強さを見せ付けられてきたという経験がある。
騎士団の創設は、およそ三〇〇年前に遡る大南征の頃であると言われている。
当時ウルク人の国が、このベルゲンを含んだ広大な土地に栄えていた頃、それを攻めるザクセン王国軍の先鋒として常に戦場にあった軍団、それが朱の騎士団である。
そんな歴史と伝統ある騎士団も、この四年に及ぶ戦いの中で、解放軍の奮戦により壊滅的打撃を受けているはずであった。
それを裏付ける事例として、半年ほど前の戦闘で騎士団を率いるトーマ・フォン・ホルツという騎士団長が、勇戦の後に壮絶な討ち死にを遂げている。
しかし、実際に騎士団は目の前に現れた。さすがに規模こそ少数ではあるようだが、確かに健在なのだという事実を、素直に受け入れなければならないだろう。
「よりによって、最も厄介な連中に出会すとはな。まあ、敵軍にしても包囲網の東側にこちらの本陣があることは、とっくに承知なんだろうがな」
粟立つような戦慄を肌で感じたユルゲンスは、咄嗟にマイヤーとゾンマーの各部隊に、両翼へと大きく広がるように指示を出す。出てきた敵を三方から圧迫する、挟撃の構えである。
旗手達が旗を振ってその命令を伝えると、両翼がほぼ同時に中央より分かれ広がって行く。これは解放軍の練度が高いことを証明している。
赤髯のユルゲンスは自ら腰の剣を引き抜くと、降りた跳ね橋を駆け渡り来る敵に、正面から挑み掛かって行った。
寄せるユルゲンス率いる軍勢と、跳ね橋を渡り終えた騎士団は、 ヒルデン東側の街道沿いで激突した。この戦いが、終わりの始まりとなることを願ったのは、どちらにも共通の思いであっただろうか。
手にした得物を振りかざし、打ちかかってくる敵騎兵。殺気に充ちた一撃をやり過ごし、すれ違いざま横に一閃したユルゲンスは、次に眼前に現れた騎兵を馬上から斬り下ろそうと剣を振り上げた。だが相手もむざむざとやられはしない、身を翻すと同時に鋭い突きを繰り出してきた。
一瞬全身の毛が逆立つような感覚に見舞われたが、必殺の刺突をどうにか紙一重でかわすことができた。危なかったが、こんなところで倒れるわけにはいかない。手綱を力一杯引き寄せて今の相手に向き直れば、どうやらその騎兵はまだ体勢を立て直せていない様子であった。
騎兵が馬首を巡らせ終えるその一瞬を突いて、一気に距離を詰めると、ユルゲンスは高くかざした剣を振るった。敵騎兵は今度こそ斬り伏せられて、頭から落馬していった。
すでに辺りは、むせかえりそうな血の臭いで覆われている。大地の息吹を思わせるように緑一色だったベルゲンの野は、瞬く間に兵士達の流した血の色に染め上げられて行く。
それは一切の慈悲も請うことの出来ない、無情な命の奪い合いであった。敵味方を問わず、兵士一人一人の出自も過去も関係がない。敗者には平等に死が訪れ、その者の営んできた人生の全てを否定するかのように、無慈悲に過去と未来の双方を刈り取ってしまう。
そんな凄惨な乱戦の中で、どうにか四、五人ほどの敵をほふったであろうかと思われた時、ユルゲンスの視界に一人の騎士が飛び込んできた。
白馬に跨がり朱に染められた甲冑に身を包んだ姿は、あまりに堂々としており、あまりに美しいものであった。一目で身分いやしからぬ騎士であると想像できる。
どうやら先方も、こちらに気が付いたらしい。手にした槍を構え直すと、馬首を巡らせて来るではないか。
その凛とした騎士の姿に、思わず視線を奪われたユルゲンスは、無意識の中で相手に向けようとした剣を下ろしてしまっていた。
「……女か?」
戦場においては男も女も関係がないことは、当然ユルゲンスとて承知はしている。しかし相手の騎士の見事な出で立ちを見て彼は、なぜだろうか切っ先を突き付けることを躊躇ってしまった。
その女騎士の美しさは一言に美とは言えど、肥沃で温暖な帝国中部の草原に咲く花々の可憐さでもなければ、夜の天空に瞬く女神ルナが散りばめた、幾千万の宝石のように魅了されるでもない。それは研ぎ澄まされた刀剣の放つどこか危険な輝きと、雪深きノルデンラントの触れると焼けるよう冷たさを持つ氷のような、そんな透明と言うべき美しさである。
装飾の施された冑からこぼれる、大地の土を思わせる髪。口を真一文字に結んで鳶色の瞳を向けるその顔は、女と言うよりは少女と言うべきものであることを認め、ユルゲンスはどこか奇妙な違和感に戸惑うのだ。
彼の呟いた声が聞こえた訳でもないだろうが、武器を下ろしたユルゲンスにその少女騎士は怒声を浴びせた。
「構えろ、この私を女と思って侮るか!」
よく通る声で吼え迫り来た後、感情がありのままに込められたような、強力な一撃が繰り出された。
防ぐユルゲンスに、少女騎士は手にした槍で、休む間もなく次々と鋭い突きを見舞う。
その度にユルゲンスは、その容赦のない突きの連撃を、すんでの所で防いでみせるのがやっとだ。
己れの一撃をいちいち避けてみせる相手を前にして、女騎士は驚きに目をまるくした。さすがに相対している者が、決して有象無象の類いではないと感じ取った様子である。
好適に巡りあったからには礼を欠くことは許されない、それが騎士の節度である。
「一度しか言わぬぞ卑しき下賤の輩よ。我が名はエマ・キルステン・フォン・ホルツ、貴様達に討たれた誇り高きトーマ・フォン・ホルツの子だ!」
気高き少女騎士の名乗りを聞いて、ユルゲンスは今をもって騎士団が存続していることに、ようやく得心がいった。勇将の下に弱卒なし。騎士団には未だにカリスマが存在していたのだ。
軽い驚きと同時に、今すぐ戦場を放棄してしまいたいという衝動が、心の奥底からわきだしてくる。
正確無比な槍の一撃一撃を、ようやく受けながらもユルゲンス。エマ・キルステン・フォン・ホルツと名乗った少女にどこか覚えがあった。それは実際に面識があると言うことではない、騎士団の勇名を耳にする度に、必ずと言っていいほど聞こえてくる名があると、不意に思い出した故である。
そんな記憶を辿るまでもなく、目の前の女傑が何者であるかは、既に明白ではあった。
馬上にて赤髯の参謀は、至近にいる相手に対して、殊更大声を張り上げてみせる。当然のこと、不敵にも眼前の女騎士を挑発するためである。
「貴公こそは高名なる、朱き戦乙女殿とお見受けする。せっかくの出合いも束の間だが、早々に別れねばならぬ我が不幸が呪わしい!」
ユルゲンス流の憎まれ口混じりが如何にもらしくはあるが、大音声の威嚇にも相手にはさほどの変化もみられない。どうやら強固な芯の持ち主ではあるようだ。
小手先の技は通じないと悟ったユルゲンスは、手にした剣を構え直すと、女騎士に向けて横一閃に薙ぐ。朱き戦乙女(あかきいくさおとめ)は、難なくそれを受け流してみせると、間髪いれぬ切り返しで反撃のひと突きを繰り出してきた。
その槍さばきと鋭い一撃を受けてユルゲンスは、彼女の女傑ぶりに改めて舌を巻く。
「この小娘……出来る!」
舌打ちしてユルゲンス、思いきって手綱を引くと、自らの乗馬を相手の馬に体当たりさせた。流れる汗が目に入るが、構っている余裕がない。
馬同士が激しくぶつかり合い、まるで迷惑だと乗り手に抗議するように鼻を鳴らす。
朱き戦乙女エマ・キルステンが、衝撃で体勢を崩したその隙に、ユルゲンスはさっと馬首を巡らして相手との距離を一気にとった。つまりは、その場から退散したのである。
まともに相手をすることはない。少々情けない気もするが、これも戦いの手である。間もなく左右に展開したマイヤーとゾンマーの部隊が、一斉に挟撃を仕掛ける手はずであった。そうなれば如何に精強であろうとわずか数百騎の敵、たちどころに踏み潰すことが出来るだろう。
女騎士エマはユルゲンスとの距離をどうにか詰めようと試みるが、次からと阻もうとする解放軍の兵に遮られ、思うようにならないでいた。
「小癪な!」
エマは吼えるが、既に賢しい敵将の姿は視界から消えていた。
一方でユルゲンスは、朱き戦乙女から逃れてようやく一息ついたとき、配下の者よりの報告を受けた。それは彼には予定された通りではあったが、この時のユルゲンスにとっては、何より勝る吉報となった。
「左右に展開した各部隊が、一斉に寄せて来ます!」
その報告を耳にして、赤髯の参謀は思わず口元を緩めた。誰もが皆、良く働いてくれているじゃないかと。
「どうやら勝利の女神は、この俺に気があるようだぞ」
彼は得意気に自賛しながら、勝利を確信して手にした剣を腰に収めるのだった。