002
ぱぁん。
ぱぁん。
早朝、尾張のとある町、その一角。
そこには、割と年季の入った道場がひとつ、ぽつんと建っていた。
町のはずれに位置しているから、人通りも少ない上に建物自体も数えるほどしかない。
そんな場所に、一定の間隔で、妙な「音」が鳴り響いていた。
ぱぁん。 ぱぁん。 ぱぁん。
なにか乾いた音が響く。
多少耳の良い人であれば、それは道場の開け放たれた窓から聞こえてくる、という事がわかったであろう。
ぱぁん。
道場の中、磨き抜かれ、それでも年月によって黒ずんでいる板張りの床の上で、一人の女性が剣を振っていた。
剣を、と言っても木剣などではなく、ましてや竹刀なんぞでもない。
真剣である。
女性は上下ともに白い色の道着を纏い、背中ほどまで伸ばした、艶のある黒髪を頭頂部で一纏めにし、背中へ流していた。
女性は、一心不乱に剣を振る。
その間隔と剣筋には寸分の狂いもなく、只ひたすらに剣を振るっている。
日本刀である。
刃渡りは四尺、反り一寸程の、至極細い太刀だ。
刃文は濤乱刃、火焔の鋩子。
加州信友が作、その初期作品であると、見る人が見ればわかるかもしれないが、生憎とこの道場には今、女性一人しかいなかった。
造られてから五十年は経っているはずなのだが、そんな気配は微塵も感じられない。
振り下ろされる軌道には銀の光が残り、未だこの刀が現役なのだと言うことを雄弁に語っている。
しかし、女性は素振りをしているのだろうが、一つ、おかしな事があった。
音である。
普通、一般の人間が刀を振れば、その音は「ぶん」であったり「ひゅん」だったりするだろう。
だが、この女性の音は違った。
無音で上段から振り下ろされ、半ば頃まで来たときに「ぱぁん」という音が鳴る。
というか、まず切っ先の軌道が見えない。
早すぎるのだ。
と、その時。
女性が素振りを止めた。
今まで上段に構えていた刀を下ろし、左腰に差していた鞘へ切っ先を向ける。
しゅらん、という刀の峰と鞘とが触れ合う音の後、きん、と鯉口が鞘に嵌る音が道場に響いた。
ぐ、と女性は右足を前に、左足を後ろに開いて腰を沈ませた。
左手で鞘を掴み、右手で柄を握る。
そして、そのまま静止する。
無音。
さっきまでなっていた音も。
床がきしむ音も。
風がないから、木葉が地を転がる音すら聞こえない。
と、その時。
ぶぅん、という本当に小さな音が道場に飛び込んできた。
蠅だ。
蠅が道場の窓から入ってきたのだった。
そのまま、蠅は道場の床の上を縦横無尽に飛び回る。
きん。
一度だけ、まるで鯉口を切るような音がした後、女性は構えを解いて歩き出した。
道場の入り口にたどり着くと、一度だけ後ろを――道場を向いて、一礼。
そのまま道場を出て行った。
女性が道場を出て行ってから、少し後。
道場の床、さっきまで女性が構えていた所から八歩ほど離れたところに、何か小さくて黒い物がぽとりと落ちてきた。
さっきの蠅が落ちてきたのだ。
しかし、ひとつ、おかしな所があった。
黒い物は二つあるのだ。
そう、蠅は二つに断たれていた。
誰もいなくなった道場、その床には、未だ自分が何をされたのかわかっていないように、手足を虚しく宙に泳がせる蠅が横たわっていた。
感想、批評なぞがありましたらお気軽に。
誤字脱字でもかまいません。




