012
見張りというのは、とても暇な仕事だ。
夜、わずかにかがり火の光だけが照らすあたりを櫓から見下ろし、男はそう思った。
自分たちの首領から「周辺を警戒しろ」との命令が下されてから二日。未だに、「首領が警戒するほどの敵」の姿は見えない。
何をそんなに気をとがらせているのか、自分にはわからないし、理解しようとも思わない。
それに、一万の軍勢にわざわざけしかける馬鹿が何処にいるというのか。
自分は首領の言う通りに動けばいい。これまでそうしてきて、さんざん甘い汁を吸ってきた。男はそ
う考える。
しかし、この暇だけはどうしようもない。そういえば、とんがった、で思い出した、あいつにこの間の花札のツケを返して貰っていない、と、そこまで考えたところで、自分の思考の脈絡のなさに男は苦
笑した。
その時だった。
ふと、かがり火の炎が大きく揺らいだ。
身に付いた用心深さから、腰に挿した刀の柄に手をやった。
この用心深さから、男は彼の首領――立待水仙に見張りを命じられたのだが、今回ばかりはその慎重さが裏目に出た。
その瞬間、男は何が起きたのかわからなかった。
いきなり足下の櫓が崩れだし、身体が宙に放り出されたのだ。
何もわからないまま、ろくに受け身も取れずに背中から地面に叩きつけられる。衝撃から、酸素を求
める意識とは逆に肺からありったけの空気がはき出された。
うずくまり、咳き込みながらも必要なだけの酸素を吸い、立ち上がろうとしたところで、男の目に何
かが映った。
いや、映った、というのは少し違う。
正確に言うのなら、男の視界に一筋、銀色の閃が奔った。
そして、その瞬間、男の意識は、花札の勝ち分を手に入れることなく、此岸から彼岸へと旅立った。
一度円を描くように横に振り、懐紙で血を刀身から拭き取った楓は、かがり火の光に照らし出された、己の姿に目を向けた。
白い着流しに白の陣羽織。右腰に大小一本ずつ、左腰にも同様、後ろ腰に短刀を挿したその姿は、かがり火の明かりと相まって、さながら修羅のようだった。
そして、もう一つ。特殊な設計により折り畳まれていた鞘をのばし、右手の刀を納め、楓は、自分の
背丈とそうかわりがない長さの「それ」を見た。
野太刀、あるいは馬上刀。
五尺を超える刃渡りと、それに比例するように広い峰をもつそれは、今回の「討ち入り」にあたって
楓が持ち出してきた、秘密兵器である。
丈夫な木材で組まれた櫓を切り崩し、見張りの頚を断ったのはこれだ。
しかし、圧倒的な威力を持つこの刀にも、一つ弱点があった。
重いのだ。鍛え上げられた楓を持ってしても、長時間の使用は無理だろう、と当たりをつけるほどに。
今回の「討ち入り」にあたって、楓はこれまで掲げてきた「不殺」の信念を捨てた。
それは大軍を前に、余計な手心を加えたら簡単に死ぬ、といった予感からでもあるが、理由の大半はもう一つにある。
百合の家を去り、道場で装備を確認し、陣が置かれている平原に向かうまで。絶え間なく腹の奥で蠕動する「熱」に突き動かされたからだった。
怒り、哀しみ、寂しさ、それら楓の中で燻っていた負の感情を巻き込んで、一つの大きな炎へと変わ
った憤怒の「熱」は、今や楓を乗っ取り、楓の意志の代わりに躯を動かしていた。
「葵様……。今、お助けします…」と呟きながらも、それを免罪符にただ暴れたいだけの自分がいる。
それを頭の片隅で感じながらも、「熱」に突き動かされた足は駆けだしていた。
駆けながら馬上刀の鞘を捨て、両手で地面と水平に構えると、あたりを廻り、警戒している兵士の一人へ突っ込んでいく。
こちらに気がつくその前にその胴を両断すると、勢いをそのままに次の兵士へと突き進んでゆく。
切断された上半身が地面に落ちる。その鈍い音で振り返った兵士達が楓に気がつき、腰の武器に一様に手を伸ばす。だが、走る勢いを乗せた馬上刀を止めることは、所々錆び付いたなまくらでは出来なかった。
首を守るように立てられた刀ごと、その首を切り落とす。その場で一回転し、後ろから迫っていたもう一人の足を断つ。
地面に倒れ込みながらも、楓の首を狙って振るわれた一撃を最低限の動きだけで避け、楓は馬上刀をその首に突き立てた。
敵襲を知らせる銅鑼が打ち鳴らされ、兵士達が一斉に陣から出てくる。
それを眺めていた楓は、いきなり何かに突き動かされるように走り出した。
一気に兵士達の直前まで駆け寄り、無造作に馬上刀を横に薙いだ。
圧倒的な質量と重量で断ち切るその一閃は、瞬く間に六人の命を刈り取った。
重さに振り回され、一回転する事も出来そうにない。周囲は六人の穴を埋め、確実に楓を包囲する兵士の壁。そこまで考えたところで、これ以上の馬上刀での戦闘は不可能だとの判断を下した楓は、思い
切りよく馬上刀を手放した。
薙いだ時の勢いをそのままに、回転しながら地を這うように進む馬上刀。その突進は、七人ほどの兵士を巻き添えにしながら進み、勢いを失った馬上刀は地面に落ちた。
その回転で空いた空間に飛び込んだ楓は、左腰の太刀を掴み、一息に抜き打ちを放った。
野分流、『灰鷹』。通常の抜き打ちではなく、斬った後に突きを放つ技。
それによって更に広がった穴に飛び込み、楓は更に刀を振るった。