序章 0話〜よくある死〜
こちらの作品は一旦終了し、改稿版として以下で連載を始めております。
大変ありがたいことに、旧版よりかは評判は良さそうなので、もしよければ以下よりご覧ください。
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二〇二六年七月。
「……今日、雨降るらしいですよ」
沢口冴子の声は、川のせせらぎに消えそうなほど平坦だった。
「ら、らしいですね」
俺もどもりながら短く返し、ポケットに手を突っ込んで歩く。冴子は俺の二つ下で三十三歳だが、見た目は二十代に見えるほど若い。綺麗な黒髪が、肩甲骨のあたりまで伸びている。彼女は俺が住むアパートの隣人で、いつも綺麗だなと目で追っていた。綺麗なだけでなく、どことなく全てに興味がなさそうで、諦めたような雰囲気に、なぜか俺は惹かれていた。たまたま近所の薬局からの帰りでばったり遭遇したのだ。なんと喜ばしい出来事で、幸運なのだろうか。しかしこの幸運で、俺は運を使い果たしたとも知らずに、舞い上がった感情を悟られぬように、冴子の隣を彼氏面で歩く。
俺たちが住むこのエリアは、比較的治安が良い安全な地域として知られていた。
掠奪種――最近やたらニュースで聞く、正体のよく分からない連中の犯罪が騒がせていても、どこか遠い国の出来事のように――いや、本当は目を逸らしていただけかもしれない。だが、その「安全」という幻想が、足元から崩れようとしていた。前方の街灯が乏しい川沿いの道に、数人の男たちが屯しているのが見えた。何となく嫌な予感がした。喉が、ひりつく。
「……ねえ、道変えませんか」
冴子の指先が、俺の腕を掴んで震えている。
(……正直、逃げたい。でも――)
「そうしましょう、あっちの明るい道から行きましょう」
密着されているのと頼ってくれているのが嬉しく、少し裏声になりながら、努めて冷静に返答する。だが、もう遅すぎたようだった。
「オイ、ソコノ」
濁った声が背中に突き刺さる。振り返ると、男たちが獲物を見つけたハイエナのように距離を詰めてきていた。その集団の中に、数人、街灯の光の下でもはっきりと分かるほど、肌がどす黒い赤色に変色している連中がいた。加虐心による高揚。隠しきれない掠奪種の本能。法を嘲笑う最悪の層が、この安全な街にまで染み出していたのだ。
「冴子さん、に、逃げまし――いや、逃げて!!」
俺は彼女の前に出た。手に持っているのは、ビニール袋に入った買ったばかりの歯ブラシと、端切れのような勇気だけ。
彼女を逃すために、果敢に前へ出たは良かったが、二人に両脇から掴まれる。
それでも暴れながら、力一杯拳を振り回した。
(ああ、何十秒、何分経ったのだろうか)
必死に抵抗を続け、どのくらいの時間が経ったかもわからない。
しかしその時、背後から彼女の声が響く。
「いや!やめて!」
俺を押さえていた奴らが、冴子さんを取り押さえ、ニヤついた顔を見せている。
凄まじい嫌悪感が身体が侵食された瞬間、奇声を発しながら冴子さんを助けようと動き出していた。
それでも多勢に無勢。
俺は格闘技をしていたわけではない。身体は大きい方だと思うが、大人になってからは鍛えていたわけでもない。
足の遅さ、身体のだらしなさ、これまで何もしてこなかった自分に嫌気がさすが、そんなこと言ってる暇はない。
何とか俺を押さえつけていた奴らを振り払い、冴子さんのところまで向かおうとしたその瞬間、重く、鈍い音が響いた。
――ドスッ。
「あ……」
急速に視界が冷えていく。俺はその場に崩れ落ちた。腰の辺りを背後から刺されたようだ。
視界の端で、冴子さんが赤黒い肌の男たちに引きずられていくのが見えた。
「やめろ……っ、……ふざけんなよ……!死ね、害虫どもが!」
俺を刺した男が、倒れた俺の顔を、赤黒い肌を波打たせて嘲笑いながら踏みつける。冴子さんの短い悲鳴が、夜の闇に吸い込まれていく。
「さ…冴子さ..」
もう声すら出ないほどのおびただしい量の血液が口内に溢れかえっている。
守りたい。せめてこの命を使って逃がしたい。俺を刺した掠奪種の、ほくそ笑んだ顔から目が離せない。
(……ああ、俺の人生は、好きになった人も守れないまま終わるのか……。俺のせいなのか――いや、違うだろ……!掠奪種や、これを取り締まらない国が、悪いんだろ……!掠奪種の権利だなんだと擁護され、不起訴処分にでもなって、また平然と笑って犯罪を繰り返すんだ!何もできない自分も、この理不尽な世界も許せない……。せめて、冴子さんだけは!頼むから……動けよ……っ!俺の身体……!)
薄れゆく意識の中で、不気味な赤い顔を見上げながら、俺は生涯最大の怨嗟を燃やした。徐々に視界が薄れていく。
(鈍い音や短い悲鳴が聞こえる気がする。冴子さんなのだろうか……だとしたら許せない。けど俺にはもう……何もできない。)
視界の端に、黒い人影が見え、何か話しかけられているような気がした。だがもう何も聞こえない、何も見えない。
理不尽な世界への憤怒と、奇妙で不可解な音を耳に残したまま、俺の意識はそこで完全に途絶えた。――これが俺、「久世恒一」のつまらない最期となった。




