私を探しています
松田美奈子は、いつものスーパーでキャベツをひょいと持ち上げた。豚肉に醤油、それから……。
そのとき、ちらりと視界に入った人影に、彼女の手がぴたりと止まった。
あれ? まさか……?
野菜売り場の向こうで、自分と瓜二つの女性が、同じようにキャベツを手に取っているではないか。同じダウンジャケット、同じ髪型、同じ髪留め。美奈子は目をごしごしと擦った。見間違いよね? でも……。
女性はひょいと振り返る。美奈子もひょいと振り返る。まるで鏡のような動き。
「うそでしょ……」
美奈子の心臓がドキドキと鳴り始めた。まさか双子の姉妹? でも私に双子なんて……。
女性は何食わぬ顔で買い物を続ける。豚肉をぽいとカゴに入れ、醤油をちょいと手に取る。美奈子とまったく同じ商品を、まったく同じ順番で。
これは偶然じゃない。美奈子はそっと後をつけることにした。
レジでも、女性は美奈子と同じエコバッグを使った。店員に「ありがとうございます」と言う声まで、美奈子そっくりだった。ぞくりと背筋が寒くなる。
女性は迷うことなく歩いていく。美奈子の家への道のりを、まるで毎日通っているかのように。
「なぜこの道を知ってるの……?」
美奈子の困惑はどんどん深まっていく。そして信じられないことが起こった。女性は美奈子の家の前で立ち止まると、鍵を取り出して、するりと玄関を開けて入っていったのだ。
美奈子は玄関前で立ち尽くした。手がぶるぶると震える。
押し入って問い詰めてやる。そう思ったのに、足がすくんで動かない。なぜ?
いや、なぜ動けないのかじゃない。なぜ「押し入る」なんて表現を使ったのか。まるで自分がこの家の外部の人間みたいじゃないか。でも、ここは私の家なのよ? 私の……家よね?
不安を紛らわすため、美奈子はスマホを取り出した。そして、目を疑った。
見覚えのないアプリがひとつ、画面にぽつんと表示されている。「重複削除システム」。
勝手にインストールされてる……? 美奈子の指が震えながら、そのアプリをちょんと押した。
画面がぱっと明るくなり、無機質な声が響く。
「あなたのコピーを検出しました。削除しますか?」
美奈子は息を呑んだ。
「え? 何これ……?」
アプリが続ける。
「本人確認を開始します。お名前をどうぞ」
「ま、松田美奈子です」
美奈子は震え声で答えた。
「生年月日は?」
「昭和47年10月3日」
「ご住所は?」
「東京都世田谷区……」
基本的な情報はすらすらと答えられる。美奈子は少しほっとした。これで本人だと証明されるはず。
「確認中……」
画面にくるくると回る輪っかが表示される。美奈子は安堵の表情を浮かべた。
「本人確認できません」
無情な文字が画面にぱっと現れる。
「え? そんなはずないわよ!」
美奈子は慌てふためいた。でもアプリは容赦なく続ける。
「追加質問に移ります。昨夜の夢の内容は?」
「え? 夢? そんなの覚えてないわよ」
「今朝、鏡を見たときの最初の感想は?」
「普通よ、普通。いつもと同じ……」
「先週の火曜日の昼食は?」
「そんな細かいこと……」
質問はどんどん奇妙になっていく。美奈子のイライラはぐんぐんと募る。
「あなたが3歳のとき、最初に覚えた言葉は?」
「知らないわよ、そんなこと!」
美奈子はとうとうスマホに向かって叫んだ。
「私が私よ! 何回も確認したじゃない!」
音声入力機能が反応して、美奈子の怒声を拾う。通りを歩く人たちがぎょっとして振り返る。
「再度確認しましたが、あなたは登録されている松田美奈子さんとは別人です」
美奈子の顔がさーっと青ざめる。
「じゃあ私は誰なのよ!」
「個人情報保護のため、お答えできません」
美奈子はがくんと膝をついた。そのとき、画面の上部に赤い文字がぴかぴかと点滅を始める。
「削除実行まで残り30分」
カウントダウンが始まったのだ。29分59秒、58秒、57秒……。
美奈子は慌てて夫に電話をかける。プルルルル……。
「お客様のご都合により……」
留守電だ。今度は娘にLINEを送る。既読にならない。息子にも連絡する。反応なし。
「なんで誰も出ないのよ!」
美奈子の孤立感はじわじわと増していく。カウントダウンは容赦なく進む。23分15秒、14秒、13秒……。
そのとき、スマホがピピピと音を立てて、画面がぱたぱたと点滅した。
「システムエラーが発生しました」
機械的な音声がアナウンスする。
「あなたの人格データが二つに分離されています」
美奈子はきょとんとした。
「分離って何……?」
画面に、青と赤、二つのボタンがぽんぽんと現れた。
青いボタンには「完璧な美奈子を削除」
赤いボタンには「不完全な美奈子を削除」
そう書いてある。
「どちらか一つを選んで削除してください。制限時間は5分です」
美奈子は両手でスマホをぎゅっと握りしめた。
家の中にいるのは、きっと完璧な美奈子よね。そう思うと、胸がきゅうっと痛んだ。
「あの人は料理も上手で、物忘れもしない。理想の奥さん、理想のお母さん」
一方、今ここにいる自分はどうだろう。最近は物忘れが増えて、家事も手抜きになることが多い。夫に心配をかけ、子どもたちにも迷惑をかけている。
涙がぽろぽろと落ちる。カウントダウンは残り3分。
美奈子は家を見上げた。窓から温かい明かりがもれている。きっとあそこで、もう一人の美奈子が夕飯の準備をしているのだろう。家族のために。
「あの人の方が、みんなを幸せにできるのよね……」
そう思いながらも、心の奥で何かが叫んでいる。
私だって生きていたい。私だって愛されたい。
残り1分。美奈子の指がボタンの上でぶるぶると震える。
どちらを押せばいいの? どちらを押せば……?
残り30秒。
そのとき、美奈子の脳裏に思い出がどっと溢れた。
夫との結婚式。不器用だった彼女のベールを、夫が優しく直してくれたこと。
子どもたちの誕生。初めて「ママ」と呼ばれたときの感動。
初めて作った手料理。焦がしてしまったハンバーグを、家族がにこにこ笑って食べてくれたこと。
「完璧じゃなくても、みんな笑ってくれた……」
涙がとめどなく流れる。
残り10秒。
美奈子は気づいた。私らしさって何? 完璧さじゃない。失敗も含めて、愛してくれた家族がいること。一緒に笑い、一緒に泣いてくれる人がいること。
「どちらも私。どちらも愛された私」
美奈子は決意を固めた。両手の人差し指を、二つのボタンにそれぞれ置く。
「ありがとう、今までの私。よろしく、これからの私」
彼女は目をぎゅっと閉じて、両方のボタンを同時にちょんと押した。
画面がまばゆい光に包まれる。
光が収まったとき、新しいメッセージが表示されていた。
「お疲れさま、お母さん」
美奈子は目を見開いた。
「これは認知症予防アプリ『ママケア』です。あなたの不安や混乱を感知して、自動的に起動しました」
美奈子の心臓がどきんと鳴る。
「このアプリは娘の恵が開発しました。お母さんのために」
画面には続いてメッセージが現れる。
「完璧じゃなくても大丈夫です。物忘れが増えても大丈夫です。あなたはあなた。私たちの大切なお母さんです」
「いつもありがとう。いつまでも大好きです。──家族一同」
美奈子はスマホをぎゅっと胸に抱きしめた。温かいものが胸の奥からじんわりと広がっていく。
家を見上げる。もう恐怖はない。
玄関の鍵をそっと開ける。
「ただいま」
家族の「おかえり」の声が、やわらかく迎えてくれる。
もう一人の自分なんて、最初からいなかった。でも、それでいい。
不完全でも愛される自分のまま、美奈子は家族の元へと帰っていく。




