第12章
結婚式の朝は、驚くほど静かだった。
窓から入る光はやわらかく、
白いカーテンが、ゆっくり揺れている。
凛は、鏡の前で深く息を吸った。
もう、昔みたいに胸は苦しくならない。
夜に出歩くこともなくなった。
誰かの影を、無意識に探すことも。
――そう、思っていた。
「凛、準備できた?」
ドアの向こうから、杏樹の声がする。
昔からの呼び方で、
今も凛は「杏ちゃん」と呼んでいる。
「うん。大丈夫」
そう答えた声は、ちゃんと現実にあった。
杏樹は、穏やかな人だった。
よく笑って、よく話して、
凛の沈黙も、無理に埋めようとしない。
「無理しなくていいよ」
その一言に、
どれだけ救われてきたかわからない。
恋人になって、
同じ時間を重ねて、
今日、夫婦になる。
凛は、幸せだった。
確かに。
式は滞りなく進んだ。
拍手。
祝福。
写真。
誰もが、未来の話をする。
「いい人見つけたね」
「幸せそう」
凛は、笑って頷いた。
夜。
新居に戻り、
一段落した頃。
シャワーを終えた杏樹が、
ソファに座る凛の隣に腰を下ろす。
「疲れた?」
「少しだけ」
杏樹は、凛の肩に頭を預ける。
その重さは、現実で、
あたたかい。
「凛さ」
「うん?」
「凛の中に、まだ誰かがいるの、知ってるよ」
一瞬、言葉を失った。
否定しようとして、
やめた。
「……消えないんだ」
杏樹は、何も言わずに頷いた。
「無理に消さなくていい」
「凛が凛になるまでの時間でしょ」
その言葉に、
胸の奥が、少しだけ緩む。
夜。
ベランダに出る。
街灯の光。
遠くの車の音。
空は、思ったより暗い。
ふと、
昔の空き地や路地を思い出す。
雪。
ハル。
名前を呼ぶことは、もうない。
探しに行くことも、ない。
でも。
いなくなったわけじゃない。
あの夜がなければ、
今の自分はいない。
それだけは、はっきりしている。
凛は、空を見上げる。
――ちゃんと、息できてるよ。
誰に向けた言葉かは、
自分でもわからない。
ただ、
夜に置いてきた誰かに、
そう伝えたかった。
背後で、
杏樹がドアを開ける。
「寒いよ」
「すぐ戻る」
振り返ると、
杏樹は微笑んで待っていた。
凛は、夜を背にして、部屋へ戻る。
過去は、消えない。
でも、今はここにある。




