第10章
翌朝。
教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
――なのに。
凛の視線は、無意識のうちに、窓側、後ろから二番目の席へ向かっていた。
ハルの席。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「おはよー。今日さー」
前の席の友達が振り返り、何気ない調子で話しかけてくる。
凛は笑って、会話に混ざった“ふり”をした。
自分の声が、遠い。
頭の中では、昨夜の雪の姿が、何度も繰り返されていた。
フード。
マスク。
闇の中で光を映す、あの瞳。
そして――
「そっちの人は、ちゃんとしてる?」
あれは、ただの偶然だったのか。
それとも。
昼休み。
凛は、気づけば図書館へ向かっていた。
探しているのは、もうはっきりしている。
ハルだ。
本棚の間を歩く。
ページをめくる音、椅子を引く音。
そのどれにも、過剰に心臓が反応する。
――いた。
窓際。
一人で座っている。
思わず、息を呑んだ。
姿勢は悪く、肩が落ちている。
昼の光を浴びているはずなのに、どこか影が濃い。
雪の歩き方と、重なる。
「……凛?」
名前を呼ばれて、凛は完全に固まった。
「……あ、ごめん」
ハルは小さく笑った。
けれど、その笑顔は、どこか無理をしている。
「最近、よく目合うよね」
心臓が跳ねる。
――気づかれていた。
「……そう、かな」
凛の声はぎこちなく、言葉を選ぶ余裕もない。
「なんかさ」
ハルは視線を落とし、本の端を指でなぞる。
「凛、変わった?」
その一言で、凛の中の何かが、音を立てて崩れそうになった。
追いかけていること。
盗み見るようになったこと。
夜に、別の顔を探していること。
全部、見透かされた気がした。
「……ごめん、用事あった」
逃げるように立ち上がる。
椅子が、静かな図書館に不釣り合いな音を立てる。
「え、ちょ――」
ハルの声を背中で聞きながら、凛は図書館を出た。
胸が苦しい。
息が、うまくできない。
――同じだ。
昼のハルも、夜の雪も。
近づけば壊してしまいそうで、
それでも、離れられない。
僕がおかしいのか。
それとも、おかしくさせられているのか。
雪に会いたかった。
確かめたかった。
ずっと抱えてきた違和感を。
ずっと見ないふりをしてきた、その正体を。
もう、隠してはいられなかった。
ハルの通学路。
夜道の暗がりを、一人歩く。
そのとき、怒鳴り声が響いた。
嫌な予感がした。
大事な何かが、決定的に壊されてしまう、そんな予感。
凛は歩く速度を上げる。
声のする方へ、引き寄せられるように。
昼間は、陽だまりみたいに見えた家。
今は、冷たく沈んでいる。
――見つけた。
地面に倒れている雪。
いや、ハル。
こちらを見たハルは、何とも言えない顔で笑った。
次の瞬間、
そいつは容赦なく、ハルを蹴り続けた。
何か喚いている。
でも、言葉は一つも耳に入らない。
ハルが――
雪が――
気づいたときには、凛はそいつを後ろから殴っていた。
「凛……」
ハルの声で、我に返る。
「大丈夫。これは、俺がやったんだ」
雪の声で、そう言って、凛の手を引く。
「凛……もう、さよならだ」
「ハル……!」
「全部忘れて」
静かな声だった。
「これは、凛の悪夢だから」
それから、どうやって帰ったのか、覚えていない。
気づいたら家にいて、
ただ、茫然と天井を見つめていた。
ハルは、学校に来なくなった。
一身上の都合で、そのまま姿を消した。
ハルの家は、ほどなく売りに出された。
クラスでは、噂だけが残った。
「なんか、親が死んだらしいぞ」
「施設に入るとか、聞いた」
そんな声が、日常の延長みたいに交わされていく。
――人を殺したかもしれないことより。
ハルを。
雪を。
失ったことの方が、
凛には、ずっと怖かった。




