第1章
高校の教室は、昼になると少しだけ騒がしくなる。
机を寄せて、スマホを覗き込んで、誰かの恋愛話が始まる。
「で、結局付き合ったん?」
「まだ。でも時間の問題じゃね?」
そんな会話が、当たり前みたいに飛び交う。
凛は、自分の席で弁当の蓋を開けながら、曖昧に笑った。
輪の中にいるようで、実際には一歩外側に立っている感覚。
恋愛の話が嫌いなわけじゃない。
ただ、その話題になると、
自分の言葉だけが、どこにも接続されなくなる。
自分の中に置き場のない沈黙が生まれる。
輪の中にいるはずなのに、
言葉だけが、少し遅れてついてくる。
「凛はどうなん?」
そう聞かれて、
一瞬、思考が止まる。
「……今はいいかな」
それ以上、何も続かなかった。
誰も深く追及しない。
それで話は、また別の方向へ流れていく。
その軽さが、
なぜか胸に残った。
凛は、無意識のうちに視線を動かしていた。
教室の端。
窓側の席に、ハルがいる。
同じクラス。
顔と名前は知っている。
けれど、会話をした記憶はほとんどない。
別のグループ。
昼休みは、いつも同じ数人と固まっている。
ハルは、友達の話を聞きながら、
時々うなずいて、時々笑う。
声を出して笑うことは少ない。
でも、愛想が悪いわけでもない。
ごく普通。
そう形容するのが、一番近い。
――なのに。
凛は、さっきから何度も、
無意識にハルを見ていることに気づいた。
理由は分からない。
恋愛の話で盛り上がる自分の周囲より、
ハルのいる空間の方が、
少しだけ温度が低い気がした。
静かで、
必要以上のものが、置かれていない。
それが、
居心地よく見えた。
チャイムが鳴る少し前、
ハルが立ち上がった。
机の中に手を伸ばし、
何かを確かめるようにしてから、
カバンを肩にかける。
誰にも声をかけず、
誰からも呼び止められない。
その動きが、
やけに自然だった。
廊下へ向かう背中を、
凛は目で追っていた。
――昼休みは、まだ残っている。
誰かが小さく言った。
「ハル、どこ行くんだろ」
「トイレじゃね?」
それで終わりだった。
誰も気にしない。
気にする理由もない。
凛だけが、
胸の奥に、引っかかるものを感じていた。
ハルが教室を出ていくとき、
一瞬だけ、歩く速度が変わった気がした。
急ぐわけでもなく、
迷うわけでもなく。
何かを切り替えるみたいな、
ほんのわずかな間。
凛は、自分が今まで、
こんなふうに誰かを見たことがあったか、
思い出そうとした。
答えは、出なかった。
それから、
凛は時々、ハルを見るようになった。
授業中、
窓の外を眺めている横顔。
友達に話しかけられて、
少し遅れて反応する仕草。
笑っているのに、
どこか遠い目。
気づけば、
凛は恋愛の話題よりも、
ハルの沈黙の方に、
強く意識を引かれていた。
自分がこの教室で、
どこに立っているのか分からなくなるとき。
凛は、
ハルの席を見た。
そこに誰かがいるか、
いないか。
ただ、それだけを確認するように。
まだ、理由は分からない。
名前を呼ぶほどの関係でもない。
それでも――。
凛は、
同じ教室にいる誰かを、
初めて「見る側」になっている自分に気づかなかった。
この視線が、
いつか夜へ続いていることを、
まだ知らないまま。




