六話 バームクーヘン
六話 遠い涙
噴水を改造したような給水設備には円形に浴槽が広くあり、肩まで浸かった薄紫の髪の者は、雑だった団子の髪を整えており、深く息を吐いた。
「……日輪のより、ちょっとぬるいか?」
胸元だけでない、肩より上など身体の傷が、湯煙に紛れて見え隠れし、耳たぶに付いた鈴が露に映える。目のサラシは取っていない。
(妾はあの者らを助けただけ。だがどうじゃ……立派な豪邸で、フロに入って、あとでご飯も出るときた。こりゃついに妾も、極楽へ来たのかもしれんが……飯はきっとよもつへぐいの類いじゃろうか)
浴槽の一点から泡がぽこぽこと出始める。
(……そういえば水遁ってこんな感じ、ん?)
おもむろに泡の下をまさぐると、巨大な水しぶきとともにノイが、真っ赤な顔で全身を隠しながらナナミを殴打した。
「なにぃぃ!?!?!?」
「こっちの言いたいことじゃお主……1番風呂ではないと来たか、ちょっと気分良かったんじゃぞ」
「なに1番風呂って!お湯に一番も何もないでしょ!っていうか、いきな入ってこないでよ!こちょこちょしてきて!」
「すまんて」
ノイがすぐに湯に引っ込める、その前にナナミは耳飾りの鈴を鳴らす。よく鍛えられた肩や腕がありありと見えた。筋で盛り上がり、撫で肩に迫力をつけていて、滴たる湯が汗のように輝き、腹筋が割れているのを聞く。
「お主、凄まじい肉体をしておるな。どれほど鍛練しているのだ」
ノイはお湯に体を沈めていった。
「またまさぐるぞ。やめい」
ノイは顔だけを出す。
「……ありがと、守ってくれて」
静かな飛沫にノイは体を隠す。
「およ?今度は随分と素直じゃな……あぁ、お主、人見知りじゃな?」
「……」
「……まぁ分からんでもない。妾はいつ友が死ぬか分からん中で生きていたからの、時々、人間関係での距離の詰め方が分からなくなる。まさぐったことは、謝る」
「……」
「お主、腹が空かんのじゃな?腹の中で液体がうごめく音しかせん」
ブクブクと声を発声する。
「胃腸と言うてな?そこに食べ物と、それを溶かす液体が入ってると思え。そこに何も入っておらんと、液体だけが胃の中で波打つんじゃ。しかし腹が鳴ることもなしに……お主、飯が食えぬほどの修羅場を駆けたようじゃな」
ノイは顔を湯に浸けるように首を縦に振った。
「……そうか、まぁ難しいことは医者か、男にでも任せい。精一杯というのはそういうもんじゃ」
ノイが顔をうつむいて溺れるように湯に浸かる。
「……ふぅ、お主ら助けれてよかったわぁ~」
ふやけた声に呼び出されるように、天井から滴った滴がナナミのツムジに当たる。
「ン、ツメタイ……」
「あなた、何者?」
「それはまだお互い様じゃな。今は妾より、お主自身のことをやれ、仲間のこともな。きっと長い付き合いなんじゃろ?自分と同じくらいには大切にせぇ」
ナナミとノイは長めに湯に浸かって各々出る。ノイは一瞬で出ようとするも、鈴の音でナナミに体を聞かれた。そそくさととりあえず辺りにあり服に着替えて出ていった。濡れた足跡は、脱衣場の外に向かっている。
(ノイという奴、中々に太い脚を持っておるの。前腿が盛り上がって、ふくらはぎも中々に。体を隠す理由はそれじゃろうなぁ……モッタイナイ。そういうのが好きな男もおるんじゃがのぉ)
ノイは濡れた黒い髪をなびかせる。給仕を振り切って、冷めた水滴を敷物に落としながら、扉を開けて閉めた。
「……」
ノイは、その場でしゃがんだ。うつむいて、着ている簡素な長袖に隠された二の腕を見る。
(……なんで、恥ずかしいんだろ。ヴァルトならきっと……ナナミはヴァルトじゃないのに)
ノイは、体を掴む。トボトボと部屋の中を見て歩く。物置に見えて、履き物をしないで走ったため、足裏が埃だらけだった。
(……こんなこと、なんでいま考えてるんだろ。なんで恥ずかしがってるんだろ。誰に見られたっていいじゃない。こんなこと考えてる場合じゃないじゃない。もっと他に考えることあるじゃない。こんな、こんな……)
扉が低い位置で、優しく叩かれた。
「あの、姉さん?」
「……?」
「姉さん、入るよ?」
「姉、さん……?」
扉を開けた、やや背丈の低い、青い髪の毛の、少しソバカスのある女の子。
「……姉さん、久しぶり!」
「ハンナ……えっ、ハンナ!?」
ハンナがノイに抱き付いた。顔をノイの胸元に押し付けるようにする。走ってくる途中で、ノイはハンナの左手薬指に極めて簡易な金属の指輪が見えた。
「……姉さん、よかった、無事で良かった」
ノイが、目の色を暗くした。
「ごめん、仇、まだ……」
「いいよ、いいって……無事で良かった。手紙、返ってきて良かった。でも、本当に会える方が嬉しい……!」
「……手紙、あっ、じゃあレノー君もここにいる?」
ハンナは抱きしめるのをやめた。
「うん、あの人に着いてきた。何かできることないかなって」
「ナーセナルとかクロッカス、大丈夫だった?」
「うん、あれからデボンダーデは起きてないよ。守りはおばあちゃんとかがやってくれてる。さっき兄さんたちから聞いた、三回目があったって……姉さん顔色、良くないね」
「……そう?」
「私、姉さんのお世話するから。とりあえず……何から、しよう?」
「ハンナは、大丈夫?」
「うん」
ハンナは自身が身につけた指輪を見て、撫でた。
「もうずっと、一緒だから」
「……そっか」
「ご飯食べられないって聞いたよ、でも……私は無理にでもって思うんだけど……あぁ、やっぱり無理は……」
ノイは力強く、ハンナを抱きしめる。ハンナの髪の毛が鼻に当たる。可愛い花のような香りに包まれていて、ノイは涙が出てきた。
「……ちょっと、なんか、泣けてきた」
「……いいよ」
「ちょっと、このままで良いかな?」
「えっ、ダメだよ。身体中濡れてるんだから、いま冬だよ?暖炉あるところいこ」
「……うん」
部屋を出ると、少しだけノイは寒いことを感じ始めた。
「……うわ、寒い」
「風邪引くよ、はやくいこ」
ノイと手を繋いで、やや近めであるく二人は廊下をいく。後ろの方の影で、黒い板に棒状の白い石で粉状こ跡を書き込む茶髪の男。その側に女性がいた。
「良い香りというのは、幸福感や高揚感……物によっては鎮静作用もあります。故郷の特産品で行うのが我々の主流ですが、今回は彼女の境遇を想起させないために、あえて彼女の生活圏の外にある花で香油を作り、ハンナくんに配布してあります。おでこに浸ける指示を送り、彼女の鼻の位置で香るようにさせましたので、同郷の妹分との再開と同時に多幸させてあり、効果は期待できます」
「ありがとうございます先生」
「いえ、これで治るほど心はたくましくないのです。拒食症、不眠症……先ほど確認したところ不眠症は改善の兆候があるみたいでした。しかし過剰に肉類を避ける傾向もあると」
「何があったのでしょうか……」
「不眠症は多くの場合日頃の精神的負荷の積み重ねですが、過度な生命の危機を経験したり、寝込みを襲われるような経験があると顕著に現れます。「拒食症の場合、自身の体に対する劣等感などから拒食になったり、あるいは毒物の混入、人肉を食した経験などが影響したりします」
「では、ノイ様はいずれかの……ひょっとして人を?」
「一概には言えません、ですが……口に入れた物や、食によって影響される事象に結び付きやすいのは現状、統計では出ています。彼女はシレーヌ討伐に向かい、しかし補給部隊が壊滅したまま帰還したそうです。その点も考慮すれば……可能性は高い。私としては、人肉を摂取したのではと思います」
「次は何を?」
「……食事を取らせます。肉類を避けた」
「……?」
「卵や牛乳を利用したもの……とりあえず、あなたの得意なお菓子でいきましょう。食べ物に見えないような何かで……動物由来のものはやはり元気が出ますから、積極的に取り入れるべきです」
「……分かりました、準備してきます」
「かなり多く作ってあげて下さい。菓子は高級品、申し訳ないと思わせないほどの量で。そして宴会の余り物として、軽い気持ちで食べられるように振る舞って下さい。旦那様にはそれら食材の調達をと連絡してありますで」
「はいっ……では、品目はアレでどうでしょうか?ちょうど、木に見えなくもない菓子です」
「……あぁ、あれは美味しいですからね」
ノイはハンナと一緒に部屋を移動して、中程度の広さの部屋に入る。暖炉にくべられた薪に火をつけた。しゃがんでノイが手を伸ばして暖かさを享受していると、ハンナが懐から瓶を取り出し、手にかけて塗り込み、ノイの顔と手に塗った。ノイは顔を揉まれている。
「くしゅぐったぃ、なに?」
「保湿のための塗り薬。冬に暖炉の前だと、顔も手もすぐ乾燥するってマルティナ様が」
「マルティナ様……?」
ハンナがノイにくっつくように座る。
「ユリウス様の奥さん。姉さんと同い歳くらいの女性だよ。橙色の髪で、肌がすごくキレイ」
「同い年かぁ……」
ノイは、シャルリーヌがベストロに変わった瞬間を思い出した。
「……」
「友達になれるとおもうよ?あの人、あまり友達いないみたいだし」
「そうなの?」
「貴族社会だと、嫌われてるらしいよ」
「貴族かぁ……わかんないや、なんか悪どい感じかなぁって、ぼやっと思うだけ」
「私も……でも、マルティナ様は大丈夫だよ」
薪をくべ、燃えるのを動かして、灰を退かしてを繰り返す。ノイたちのいる部屋に、濃厚な香りが立ち込める。
「………なんだろ、いい香り」
「マルティナ様がお菓子を作ってるんじゃないかな。もう結構ここにいるし、時間的には……あぁ、お薬塗り直すね?」
ノイの顔は揉みほぐされていく。
「……あえいあ、ん~」
「ふふっ、なに姉さん、声ふやけてる」
「……!!」
ノイは少し顔を赤くした。だが、目線は落ちた。
「こんなに休んでいいのかな……」
「……えっ?」
足音と、滑車の回る音。ノイたちの部屋の扉が軽く叩かれる。
「……だれか、いらっしゃいますか?」
「はい、ハンナです」
「……ノイ様はお見かけしませんせしたか?」
「ここにおられます」
「入っても宜しいでしょうか?」
「姉さん、良い?……」
「大丈夫です~」
「失礼します」
扉を開けると、橙色の髪をして、肩と腰に風でふわりと上がるような軽い布の装飾を持つ真っ白な服。
「えっちょっ!?」
飾りや露出のまったくない様相の女性がいた。
滑車に乗せられた、山のような焼き菓子を見る。
「初めまして、ノイ・ライプニッツ様」
滑車から手を離して、両手を繋いで深くお辞儀をする。
「わたくし、バックハウス家当主ユリウス・フォン・バックハウスの妻。マルティナ・フォン・バックハウスでございます。以後お見知りおきを……」
「あの、マルティナ様。ノイは姉さんはその……」
「かしこまったことは、始めは必ず行うものですよ?ハンナちゃん」
「……」
ノイはハンナの
「マル……はっ、貴族!」
ノイは立ち上がろうとすると、マルティナは慌ててる。
「……あぁ、申し訳ありません!そうでした、わたくし貴族でしたよね!驚きますよね、ごめんなさい!」
「……えっ?」
ノイは中腰のまま呆気に取られてしまい、ハンナにもたれ掛かる。
「えぇっと……私、その……ハンナちゃんにもこれ言ってないんですけど、平民以下の身分の人間だったんです。あぁこれ、宴会があるって聞いて焼いたんですけど、無かったので……捨てるわけにもいかないので、宜しかったらと配っていたのですが……」
「姉さん、食べよ?」
ノイはハンナにもたれ掛かったままだった。
「姉さん?」
マルティナは、台車に乗せていた小皿に焼き菓子を移す。バックハウス家の焼き印が施された、小麦を原料としたもの。円形に切断された樹木のようで、ノイの忌むものとはかけはなれた存在。真ん中はくり貫かれたようになっている。
「……お口にあえば、宜しいのですが」
ノイは、マルティナが切り分けた菓子を目の前に差し出す。ハンナのとはまた違った、より深く濃厚な香りが立ち上る。
「……これ、何ですか?」
「バームクーヘンと言います。生地を何層も重ねたもので、しっとりとしていてフワッと柔らかい、そんな感じのものです。今日はちょっと……表面を焼きすぎたかもしれません、あまり期待しないでもらえると嬉しいですね」
ハンナにノイは、少し手を震えさせながら、マルティナが手に取る。
(なんだろ、全身食べ物っぽくない。丸太をノコギリで斬ったみたいな、そんな感じ……)
ノイは口を開けて、それを少し、かじるようにして、舌に乗せて、たしなみ、飲み込んだ。
「……ぅ」
「ノイ様?」
段々と粒を大きくして、声も大きくなりながら、ノイはまた一口、一口と刻んで食べていく。マルティナとハンナの笑顔がより強く現れていき、二人でノイを抱きしめ始める。マルティナは抱きしめて、ちょうど側になった耳元でささやきながら、ゆっくりと頭を撫でる。
「大丈夫です、大丈夫。あなたはよく頑張ってます。今はゆっくりと、です」
ノイの鼻に、ハンナと同じ香油の香りが漂う。
「ぅ、ぅぅ……ぁあ、ああぁ……っ!」
ハンナが背中から抱きしめている。
「あっ」
ふとハンナは離れて、台車に向かいバームクーヘンを切り分け、ノイに持っていく。
「まだいっぱいあるよ姉さん」
「はい、まだ厨房に台車が5つありますので……」
「……はい?」
「台車が5つ」
「……多すぎでは?」
「そう……ですねあぁ……!」
ノイが体重をマルティナに乗せる。顔を見るとノイは目を閉じていた。
「あぁ、眠ってしまいました」
「……でも、これで良かったですよね?」
「はい。ノイ様をとにかく癒して、たまに運動させ、お仲間にノイ様が回復していくのを見せるというのが先生の仰ったことです」
「……兄さんたちはどうするの?」
「しっかりと話を聞く必要があると仰っていました、ノイ様が何を経験なさったかを、ヴァルト様やフアン様から聞き出しながら、彼らも同時に治療していくんだとか。でも、お話を聞くのはあとに回すそうです。今は、各々やりたいことをやらせると」
「……何もしてないじゃないですか」
「いえいえ、これで金銭の発生する初めての処置です。それはもう気合いを入れていますよ」
「金銭?」
「帰還兵制度を利用しているので、彼らのこちらでの生活はオルテンシアの国庫から出されているんです。これに成功すれば、先生の家の研究は、大きく西陸で認められます。まぁ、今はバックハウス家が立て替えているだけですが」
「……じゃあ、頑張ってもらえるんだね」
「わたくしのお小遣いからも追加で払ってますよ」
「えっ、それって」
「ハンナちゃんがあんなにも心配していたんですもの。レノー君からも言われましたし」
「……あの人が?」
「あなたのことを察知して、私に言ってきたんです。元からそのつもりでしたが」
「レノーさん……」
「ふふっ、さすが名門作家の一族ですよね。バズレール家……音楽、詩歌、劇、小説、絵画。あらゆる芸術のいずれにも必ず偉人を残す家系。オルテンシアで国をあげて囲われていただけはあります」
「バズレール家って、燃えたんでしょ?」
「はい、聞き及んでいます」
「姉さんたち、そのことは……」
「……彼らはデボンダーデ関連できっと忙しくされていました。自由に行動できたとは思えません。レノー君を中心に、こちらからオルテンシアの倉庫に連絡して調べさせています。大丈夫です、きっとあの子なら点と点を、ピーター君とハンナちゃんのように繋げてくれます」
「……うん」
「……ふふっ」
「何です?」
「いえ、先生が仰っていました。ヴァルト様とフアン様に、出会いがしらで抱き付いたそうですね?」
「……!」
2025年6月3日時点で、997,634字、完結まで書きあげてあります。添削・推考含めてまだまだ完成には程遠いですが、出来上がり次第順次投稿していきます。何卒お付き合い下さい。




