二十九話 空よ棺に、地は烈々に葬す
二十九話 空よ棺に、地は烈々に葬す
大橋の側にかかる時計塔は、自身で体制を立て直せない巨大なベストロたちの波に圧され倒れる。工業化により汚染された川は血に充たされ、異臭は汚臭へと変化する。平原の緑はすでに蒼い波に侵食されていたが、赤い波が上を行く。腐蝕されていき、蒼々の絨毯は赤に染まる。蒼騎士や死神はベストロの波で押し潰され、転がりながら蒼に感染していくベストロたちもいる。蒼に溶け込んでいくベストロたちはしかし、バビロンから絶えず出産されるベストロの波に圧され、更に加速していく。
エペソ学院から出発して数十分、スミルナ港に到着した機関車は、避難民と兵士、学院にあった物資のほとんどを積み込まれていた。リンデは後方を見て、蒼い口の海との距離が十分にあることを認識する。
湾内に止めてあった船は3隻。それら全てにギリギリで人員や武装に資源を詰め込んでいく。港の安全を監視するための高台の鐘が鳴った。リンデが違和感を持つ。ノイに荷物を任せて駆けようとすると、高台から伝令は降りてきて通じて湾内に情報が届く。
「波だ、赤い波が来てるぞ!!怪物の群れみたいな波だ!!避難を急げ、住民を最優先、とにかく急げ、ありえないくらい早い、すぐここも飲み込まれる!!」
すべての人員は、3隻の帆船に乗船していく。帆船は帆を張って、風を受け取り出港する。出港してまもなく、死神から港を守っていた防波堤やバリケードを一瞬で破壊して、雪山の雪崩の何倍もの質量のベストロの波が押し寄せてきた。
赤く黒いそれらは天幕で作られた休憩所や鉄格子、廃屋や高台を飲み込んで、港をすぐに占領すると、海にこぼれ落ちていく。海に沈んでいく量はけたたましく、海面が徐々に沸き立ってきた。溺れるベストロの上にベストロが積み重なっていき、口の海のと溶け合ったベストロのその蒼く赤い波は、次第と海を削っていく。フアンはその光景を見る。
「……デボンダーデのような」
シャノンがその光景を見る。
「西陸のスタンピード……だが、この量はあまりに……」
海面が押し迫るかのように、ベストロが海底にまで積み重なり、島全体が肉に覆われていった。すると、海面に浮かぶ溺れ死んだベストロたちは青く繋がっていき、海面を勢いよく埋め立てていく。シャノンはアーサーの言葉を思い出していた。
「……海の向こう側へ逃げろと、父上はおっしゃった。まさか、ああして海を、海ごと、蒼騎士病のかかる肉で埋めようとしている……!?」
フアンは、悪い予感を話し始める。
「……口の海によって、この流れてくるベストロたちはすぐに感染し、口の海はその範囲をすぐ拡大していく……この勢いのまま拡大していくなら、世界を青ざめた肉で埋め尽くすのも、時間の問題……です」
リンデのそばに、ノイがやってきた。
「なんとか、なんとかしなきゃ……!!」
「増え続ける肉、バビロンだっけ……近寄って壊すなんて、もう無理よね」
「私たち、逃げられるの……?」
「……速度的には、船より埋め立てる速度がはやい。私たち、結構ヤバい状況よ」
「そんな!」
リンデは目を閉じて、首を下にする。顎に手を当てて、しかし頭をかきはじめた。ノイがリンデを見る。悲しそうな表情で、ノイを見つめ返した。
「……私も、考える」
「……大丈夫よ、一個だけ案があるわ」
「えぇ?」
「ねぇ、ヴァルトがギムレーを救ったとき、どうしてた?」
「えっ?」
しばらくの沈黙が、ノイを青ざめさせる。ノイはリンデを抱き締めた。
「……嫌っ」
「大丈夫よ、私は」
「嫌ったら嫌……!!!」
ノイは、リンデの胸に飛び込んで、大声を篭らせる。
「だから大丈夫、それに、ノイにとっても、これは悪くないことなのよ」
「嫌っ……!」
フアンは、リンデに近寄った。
「リンデさん……」
「私が思いっきり、あの謎の力を使えば、ヴァルトと同じくらいの規模で、火を出せるんでしょ?それにリヴァイアサンのとき、血をいっぱい作って機関車に振り掛けたんだけど、私は元気だった。話じゃ、ヴァルトは銀とかをちょっと作り出すだけでもヘトヘトだったとか……」
「……なに1つ、保証はありません」
「それでも、やるの。そうやって、皆生きてるのよ」
「あなたが犠牲になる必要なんてないんです!考えれば、きっと答えは」
「出るかもしれない、でもそれを出せるほどの時間も、能力も、人間にあるかなんてのも、保証はない。私の力でバビロンをやれるかもしれないし、できなくても時間は稼ぎにはなるわよ。そうね、やっぱり火でブワーって焼いてやろうかしらね」
「自分を犠牲にする前提で、話を進めないで下さい!!」
「……」
「僕だって、あなたに生きて欲しいと思っています。あなたはもう既に一個の命として、ここに存在し、確かな存在なんです……もう大丈夫なんです、リヴァイアサンのときもそうでした。あなたは自分を確立するために、自分のことをどこか勘定に入れていない!あなたは断じて、ヴァルトの生まれ変わりだとか、元のヴァルトだとか、そういうんじゃないんです。リンデはリンデなんですあなたは個人として、存在しているんです、だから……!!」
「……フアン」
「……ごめんなさい、ただ……その……」
「もう……失いたくない。そういうことでしょ?」
リンデは涙を流した。ノイは鼻水をすするように、リンデの胸元で音を鳴らす。胸元が湿っている。
「……何よ二人して」
リンデは、ノイの頭を撫でる。
(……もっと、守りたくなるじゃない)
リンデはフアンを見る。
「……大丈夫、私はもう、私だからさ。気にしないで、別にこれは、リヴァイアサンのときみたいな、焦りとかでやってるワケじゃない。大切な人がちゃんとできた、私という人間が出す答えなの。私は他の誰でもないからこそ、あなたたちを大切にしたい。これは私の答えなの、私だけの答えなの、行動なの、思いなの、願いなの。ヴァルトだって……あなたたちを死なせたくはないはず。自分の使い道としては、まぁいいんじゃないかしら」
「……」
「……悲しんでくれてありがとう。こうなると、自己犠牲って、カッコ悪いね」
「えぇ、そうです。自己犠牲なんていうのは、自分が大切にされていることいに気付かない、頭の悪い方こそ、しでかすことなんですから」
「……私、カッコいい?」
「……はい」
「ははっ、ありがと……ノイは?」
ノイは、頭を上げる。ボサボサの前髪が束になって湿っている。
「……大好きだよ」
リンデは言葉を聞いたその瞬間的に、ノイを力いっぱい抱き締める。そして、ノイの頬に接吻すると、フアンに向けて片目を閉じて拳を突き出す。フアンは拳を、やや強く押し上げるように殴った。
リンデは帆船の帆を上り、見張り台に立つ。手すりに手をかけ、島を望む。大淫富士通バビロンは、七つの竜の首に取り囲まれ侍らせるようにして、切開された腫瘍からベストロを垂れ流している。毛細な血管による皮膜は翼となって経血のような汚臭を送る。
頭の中で、声が聞こえる。
(……リンデ、考え直すことは)
(しない)
(……私に、頼みはないか?)
(……私は、結局ヴァルトとどういう関係なのかは分からない。でも、仮に私が元のヴァルトだとして、私の意識が身体から消えたら、この身体は、本当にアンタ1人になる)
(そうだ、だから)
(……せめて、あの二人をお願い。できるだけ大切にしてやってあげて、このバビロンっての、大きすぎ……全力出して、止められはするかもだけど)
リンデは呼吸を整えると、右腕を胸の前に伸ばした。
(……標的、バビロン。顕現、炎焼。形状……そうね、こういうのはどうかしら)
空間に閃きが走り始め、皮膚表面から枝分かれするような光が溢れ始める。リンデは深く息を吸った。
「Le ciel un cercueil,Incinérer la terre. 」【空よ棺に、地は烈々に葬す】
痺れは壮大になり、リンデの呼吸は浅くなる。空へ瞬く一介の雷撃は、腕から先より放たれ、放物線を描きながらバビロンへ接近する。
その雷撃ささくれ立つように枝分かれすると、一瞬にして地面に溶け込んでいく。バビロンの足元は次第に熱を持つと、煮えたぎるように炎が溢れ始め、そして空に届き雲を貫くほどに溢れ出た。
その炎は円形に、ただ炎の柱として徐々に貫いていき、バビロンや王都、大橋、学院、工廠、列島に現存する全ての陸を焼き付くしていった。空は熱により多動し、風は吹き荒れる。リンデからは絶えず痺れの断末が風に乗るように前方へ向かっていき、リンデは直立を諦め、倒れ込む。
(頭、真っ白……何これ、これが死?)
ボヤけた視界が、包まれた。光が放たれたと同時に、ノイが船体中央の直立した棒をよじ登って、リンデのもとへ駆けつけていた貸すかにリンデに声が届く。絶えず光るリンデの身体に触ると、乾燥した日に布を触ると鳴るような音がひときわ大きく鳴り響き、ノイは心臓がひっくり返ったかのような経験をつむ。自身の心臓の部分を掴みながら、呼吸を荒くしてリンデを抱える。リンデは徐々に、さらに輝きを増していく。ノイの声は、リンデには遠かった。
(ノイ、ありがとね。おかしいけどさ私ノイのこと好きだった。好きって感情も、うまく分からないけど、きっとノイって、ヴァルトのことこう思ってるんだろうな。贅沢なヴァルト、こんな可愛い人遺していくなんて……)
微かにリンデは、言葉を発した。
「……私、好きだよ」
「……私も!!だからやっぱり、やっぱり嫌だってぇぇ!!」
リンデは全力の末に聞き取った言葉に、心の中で笑った。
(あっはは、伝わらなくて…………よかった…………)
身体の暗い、しかし明るい奥の底。ゼブルスは1人、上を向いていた。
「私の、私の大切にすべきものは何なのだろう……?」
動作としては、きっと歩くを行っている。
(……彼は、何者だったのだろう。彼女は、結局何者だったのだろう。私は当然のように、どこか感覚的に、ここから彼・彼女に語りかけながら、どことない、異様なまでの親近感が働いていた。私は、なぜ彼を、彼女を、近くに感じていたのか。私は本当に、彼の、彼女の、父親だったというのだろうか?術はない、そして思案もない、もう二人は、どこか遠くへいってしまった。遠くとは、どこだろう?なぜ私は遠くと表現しているのだろう?彼・彼女の発する雷すら、私にとってはどこか愛おしく、頼もしく、恐ろしかった。彼・彼女が傷付くと、私は分かっていたのだろうか?どう傷付くというのだ、私は……ははっ、私は、そうか……悲しいのだ)
動作としては、きっと上を向いている。
(何を……私は、仮に親だったとして、いやあり得ない、だが仮にそうだったとして……棄てたじゃないか、家族を……)




