六話 徹夜
六話 徹夜
吐き気を催す眠気のなか、ノイは寝台の上から寝たまま、窓の外の朝日を直視していた。目の下の黒さはやはり目立ち、隣ではシュエメイが寝ていた。
(なんで、寝てるの?私、まともに喋ったことないのに)
驚きで少し眠気が飛んで、しかし起き上がれるほどの体調ではなかった。歪んで見える世界のなか、永遠と不幸が心を巡る。やつれた顔で、髪の乱れは酷かった。
扉が軽く叩かれしばらくすると、ノンナが入ってくる。目を開けたまま仰向けのノイを見る。
「お姉さん、寝れ……てないよね。ご飯、どうする?」
「ノンナ……いいよ私は……大丈夫、どこにもいかない……から……」
シュエメイが起き上がると、妊婦にしては素早い速度で窓を開ける。
「今天有点热」【今日は少し暖かい、かな】
肌を立たせる風が入り、ノイを襲う。ノイは寒いことに気付かないで、寝台にただ寝ていた。シュエメイが、部屋にあった布を濡らしてノイの顔を拭く。ノンナが急ぎ足でそれを取る。
「わたしが、やる」
「谢……ありがとう」
ノンナが頷き、ノイの顔をやや強く拭く。。
「……大丈夫、何もしなくて、いい」
「する。お姉さんには、キレイでいて欲しいもん」
「……いいよ、もう、いいから」
喉の乾いたような、かすれた声で返事を繰り返す。開けたままの扉から、声が聞こえた。
「いっそ、強引に動かして限界まで働かせてみたら?」
声の方向にノンナが向くと、扉の枠に背中や尻尾でもたれ掛かり、ナタリアが立っている。髪や服装はやや乱れていた。
「ナタリアさん」
ナタリアはシュエメイが椅子に座り揺られているのを確認すると、ノンナを見る。
「おはようノンナちゃん。それ、お母さんの指示?」
「……ううん、そうじゃないけど」
「優しいのね、子供の頃のあなたのお母さん、そんなんじゃなかったのに」
「……ねぇ、ナタリアさん」
「私の仕事じゃないわよ」
「えぇ?」
「まぁでも、仕方がないわね。あなたはドナートの子でもあるし……そうね、少し時間を頂戴?」
「……えぇ?」
「保証なんて1つもないわよ。生きてる世界、全然違うし」
ナタリアはノンナに部屋にいるように指示すると部屋を出る。会議室で大量の資料に囲われながら作業をしているヴァルヴァラのところへやって来た。1人で作業するには些か広い机である。
「……あぁ来たか。そっちの書類に目を通してくれるか?復興に少し遅れが生じているらしい」
「……少しいいかしら?」
「何だ?」
ナタリアは、ちょうどヴァルヴァラの座る机最奥の場所、山積みの書類の塊を1つ退けて、そこに腰かけた。
「なんだいナタリア」
「……あなた、ドナートが記憶消失になったとき、結構しんどそうにしてたわよね」
「……そうだったな、だがそれが?」
「いや、あのまるでドナートが死んだかのような顔を思い出して。どうやって気持ち保ってたのかな~って。あなた、あの頃からずっとギムレーの長じゃない?仕事だってキチンとやってたし」
「……なるほど、ノイちゃんか」
「そうね、応用効くかなって……」
「……同列には語れないさ。私は確かに、彼を亡くしたようなものだった。だが、亡くしてはいない、これはとても大きな差だ。私がどうして心をギリギリ保てていたか、それは亡くなってはいないという状況それだけだった。今までの思い出が全て消し飛んだことには、まぁ随分とやられたがな」
「何か、やったことはある?」
「……手紙を書いた。文字を書くことは常に行っていたからな。昔のアイツのことを思い出しては、そのときの気持ちを書き連ねて、心を整理していった。書き終えてみるとこれが長くてな。私はこんなに彼を思っていたのかと思うと、自分の傷心にすら納得してしまったよ。そしてそうこうしているうちに、仕事の量が増えていった……」
「ひょっとして……」
「気持ちを整理させて、自分を忙殺する。あるいはその逆も……とにかく、ギムレーではよくある立ち直り方だな」
「そうなの?」
「実はこれ、ポルトラーニンが主導で秘密裏に行われている政策の1つなんだ。家族や隣人、友人などを把握し、それらが亡くなった者ほど、よく働かせ、悲しみにくれるのを防いでいるんだよ。時間ができたら休息を与え、じっくりと自分と向き合ってもらう。罪悪感のない、非生産の時間を流すにはちょうど良いとか」
「……ノイちゃんもそうするしかないのかしら?」
「どうだろうな、まず死別とはいいきれないのが問題だ。私が、ジークリンデがジークヴァルトに戻るのではと考えたように、彼女もまたそう考えているかもしれない。死はそのどれよりも諦めのつく絶望だ。だからこそ、そうでない状況が彼女をより追い込んでいると、私は考える。それに彼女には、彼を守れる力があって、実行までしてこの結果なんだ……ちなみに、忙殺させるとうのは精神をより追い込む結果になり、一定の効果がある変わりに、一定数の自殺者も生んでいるのが現状だ。不安定ないま必要以上に刺激して、彼女を止められる人材のいないギムレーはどうなる?」
「でも、いまのままじゃノイちゃんは戦力ですらないわ」
「1つ、賭けに出るか?」
「いいわ、聞かせて」
「やけに熱心だなナタリア。女には興味ないんじゃなかったか?」
「そんなことはいいのよ……ただ、見てられないってだけよ」
「……やっぱりお前は、優しいな。それだけに、男を漁ってるのが惜しい。良い兵士なんて、いくらでも紹介してやれるってのに」
「それでいいのよ」
「昔はそんなんじゃなかったろ?何がった?」
「昔からよ、きっと抑えてたの、私」
「そうか……まぁ、でも大丈夫。どんだけ男を漁ろうが、あたしの旦那に手を出さないなら、昔と変わらずお前と私は友達だ」
「気にしないで、彼イイ雄じゃない」
「私もいいこと思いついたわ
」
ナタリアは手書きで書類を作る。丁寧な字面で、彼女に施すものを書き連ねてあった。
「……完全に荒療治だな。こんなこと思いつかなかったよ」
「このまま放置するよりは、いくらかマシよ」
「……まぁ良い。やってくれ」
ノンナはノイを抱き締めるようにして寝転んでいた。ノイが無心で天井を眺めているので、ノンナは頭を撫でてみる。丁寧に拭かれた髪は適度に艶がある。扉が叩かれ、再びナタリアが現れる。
「ノイちゃん、ちょっと良いかしら?」
「……えぇ?」
「至急、探して欲し人がいるの……ジークヴァルト」
「……えぇぇ?」
ノイは、寝台から飛び起きた。
「さっき、ジークリンデに変容が見られたの。最初はオフェロスに変わっていったと思ったんだけど……光ったまま、外へ飛び出していったわ。何か重要なことをオフェロスから共有されたのか、あるいは大切なことを思い出したのか……」
話を聞くこともなくノイは寝台から転げ落ちるように動き、自身の黒い革の長靴を履く。
「向かった場所は不明。ノイちゃん、貴女なら分かったりし」
ノイは部屋の窓から飛び出していった。地面に衝突し転がる。雪を掴んで、吐きそうな呼吸を我慢し、強引に目を開いて無理やり焦点を合わせ、ふらつきながら走っていく。真っ白な息を絶え絶えに放って、瓦礫や血の滲んだ街を走る。雪で脚をなんども滑らせながら、ひたすら街中を走り回った。ビクともしない大きな瓦礫を易々と退かして家内を流し、海岸の打ち上げられら船の中まで見て回る。ノイは最後に、自身が死んだと思われる大きな瓦礫のあった場所に向かった。
跡形もなくない瓦礫の、下敷きになっていた自分の血液だけが色濃く残っている、
「……どこ、どこ……??」
泣きそうな声で震える彼女の視界の端に、茶色い服に、工具の入った鞄、腰に据えたからくりの刀剣、命綱を引っかけるような紐などが見える。路地に消えたそれに向かって、力を振り絞り、涙を流しながら、家屋にぶつかるように曲がる。
必死に走っていくその脚は重く、正面の頭巾の人物に追い付くことはできない。
「……ヴァルト……ヴァルト!!」
むせび泣く声色に頭巾は振り向いた。振り向いた瞬間、ノイはその人物に取り掛かり、弱々しくくも力強く、抱き締めた。頭巾は倒れかかるのを家屋の壁を掴んで防ぐ。
「ごめん、なさい。ごめんない……私、守れなくて……ごめんね……ねぇ私、ずっと好きだったんだよ、気付いてた?ナーセナルからお仕事でいなくなっちゃったとき、ずっと寂しかった。屋敷が天使に襲われて、私動けなかったのに先に動いてくれて、本当に嬉しかった。クロッカスでも、みんなを助けるために作戦考えてくれて、気を抜いてシャルリーヌがベストロになっちゃったときも、咄嗟に庇ってくれて、ありがとう。オルテンシアで、必死になって倒れるくらい、シレーヌ倒すために色々考えてくれてありがと、ヴァルトが私を連れて、二人っきりで物作ってたの思えてる?私、嬉しかったよ。ごめんね、もっと警戒しなきゃだったのに、特別な時間が流れてるって、ヴァルトのことで頭いっぱいだったよ。奈落から私たちを助け出してくれてありがと。シレーヌをオルテンシアから追い払ってくれてありがと。イェレミアスでもいっぱい迷惑かけたよね、ごめんね。脚がふらつくだろうって、ご飯食べられないだろうって、色々作ってくれてありがと。イェレミアスのために、みんなと一緒に作戦考えてくれてありがと、一緒に音楽祭に行けて、嬉しかったよ。服カッコ良かったよ。ううん、いつもカッコ良かったよ。私もみんなみたいにお洒落したけど、可愛いって思ってくれてたら嬉しいな。いきなり脱衣場来たとき、蹴りすぎちゃってごめんね。もう蹴ったりなんかしないよ?もの作ってるとき、また素材足りなくなったら持ってくよ?鉄でもなんでも、掘ってでもさ。嫌なやつがいたら、私が懲らしめるから……お料理、頑張ってできるようにするし、裁縫だってなんとかするから……お願いヴァルト。もうどこかにいかないで、もう一回、顔を見せて、お願い……お願い……」
家屋の内側から、鉛筆で髪に文字を書く音があり、ノイの言葉が止まると同時に止んだ。
ノイは、ずっと抱き締めるなか、ヴァルトの衣服にまとわる鉄や火薬の匂いに涙を流す。いつもそばにあった、頑張ってる人の香りだった。
頭巾は顔を見せることなく、しかし強くノイを抱き締めて返した。泣き続けるノイの耳元に頭巾は顔を近付ける。
「……そうか、そんなに思ってくれていたんだね」
「……えぇ?」
その声は艶やかで、男のものではなかった。
抱き合いながら頭巾を取ると、それはヴァルトではなかった。
「……ジーク、リンデ?」
「ごめんねノイさん。でも私は、どんなにあなたがヴァルトという人物を好きだったのか、知りたかったの」
両肩を持って、ノイと視線を合わせるジークリンデ。ノイの腕はふらついていた。
「よく聞いて……これは仮説にすぎないけどね、あなたの思い人のジークヴァルトは、私の中に眠っている。でも、彼を起こすにはあなたの協力が必要なの」
「……ヴァルトが、いる?」
「えぇそうよ。私がオフェロスと会話をしているなかで、あなたの記憶だけがヴァルトと違って欠損しているの。他はほとんど変わらない記憶を持っているわ」
「……えぇ?」
「もっと単純化して言うわノイさん。あなたとヴァルトの思い出を私に聞かせて、あなたとの記憶の空白を埋めれば、私はジークヴァルトに戻れるかもしれないの」
「……記憶?」
「そう、記憶よ。思い出をできるだけ鮮明に教えて、そのときどんな表情で何を言って、何を言い返されたか。全部話して……彼との思い出を教えて?そうしたら私は、ジークリンデは、ジークヴァルトに戻っていくはずよ」
「……いや」
「思い出すのは辛いかもしれない、けれど」
「そんなことしたら……リンデさんは、どうなるの?」
「えっ……あぁ、えっと、それは」
「私、リンデさんと目があったとき、私考えちゃったの……何かの拍子にまたヴァルトに変わったりしないのかなって……でも、そんなことになったら、今度はオフェロスさんが……ジークリンデさんだって、生きてたいじゃん……」
「ノイさん……君はそんなことを考えて……そうか、初めてあったとき、君、最初ごめんなさいって……そういうことなの?自分の幸せを考えてごめんなさいってことなの……?」
「私は、自分の幸せのことばかり考えるの。ヴァルトを助けようとしたとき、色んな人を見捨てていっちゃったから……これねは、罰なの?…」
「……そんなことあるもんか。いい?君は絶対幸せになるべきだ!なんだったら私がヴァルトの変わりにだってなってあげるわよ!」
ジークリンデは、ノイを強く抱き締める。
「……私は、ヴァルトに戻りたいんだ」
「……でもそれじゃ」
「いいんだ……目が覚めて起き上がって、知り合ったことのない人間の情報が山積みで、既視感しかない初対面のやつ全員が歪な視線で私を見てくる。でも、その眼に写ってるのは私じゃない、私じゃない私にそれらは向けられていたんだ。私はすぐに悟ったよ、ここに私にの居場所はないって……記憶にあるこの体の持ち主は偉く器用で賢くて、一国の英雄にして一方西陸における反逆者の一味、おまけに驚異的な、代償の不明確な技を恐れず使って怪物を凌ぐ。私の知らないところで、私の価値は青天井になっている……どうやって私は私として生きていけば良いか、検討もつかないんだ。そりゃみんな、私のことなんてどうでもよくて、みんな私をヴァルトに戻したくってしかたがないだろうさ……だから、ありがとうね。私がどうなるかって、一番考えなくて良いはずのあんたが考えてくれて……この国で初めて、私を私として見ようとしてくれて……今日こうしてあんたと話してるのは、正直私個人の願望だったんだ。記憶のない成果、唐突な身体の成長、私じゃない私への期待……全部ウンザリなのに、あんたが心をつなぎ止めてくれてた。話を聞いて分かった。あんたはいい奴過ぎるんだ。ヴァルトだって、君のことを好きだったはずよ」
ジークリンデは自身の胸元にノイをうずくまらせるよいに抱く。
「……もっとあんたのことを話して。それが、あんたへの一番の恩返しになるから。ねっ、恋の話、しよ?」
ノイは、思いを吐き出し、ただ肯定されるがままに、頭を撫でられ、身を包まれ、3日ぶりの睡眠に入った。
2025年6月3日時点で、997,634字、完結まで書きあげてあります。添削・推考含めてまだまだ完成には程遠いですが、出来上がり次第順次投稿していきます。何卒お付き合い下さい。




