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帝都浅草 妖狐カフェーの怪奇譚  作者: 深水えいな
第弐章 狐の嫁入り
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9.二人きりの買い物

「千代、着替えたのか、早く行きなさい!」


 後ろからお父様に声をかけられ、千代ははたと我に返った。

 カヨ子も慌てて沖さんから離れる。


「やあ、千代さん。良く似合うね」


 沖はというと、まるで先程までの出来事などなかったかのように素知らぬ顔で千代に手を振るのだった。


 千代はなんとなく気まずい気持ちで父親とカヨ子に頭を下げると、そそくさと家を出た。


「それでは、行ってまいります」


 玄関を出ると、沖がまるで子供のような顔で車を自慢してくる。


「ほら見て。この色、この形。格好良いだろう」


「そ、そうですね」


 千代はというと、車のことなどまるで分らないのではポカンと口を開けるばかりだった。

 それにしても自家用車まで持っているなんて、どういうことなのだろうと千代は訝しむ。

 千代の通う女学校には華族の娘も通っているけれど、その子の家にすら自家用車などない。

 ただのカフェーのマスターに、そんなに儲けがあるものなのだろうか。まさか葉っぱのお金で騙して買ったのではないだろうか。狐なのだし、大いにありうる。


 千代がそんな疑いの目で見ていることなどつゆ知らず、沖は嬉しそうに車の説明を続ける。

 そして一通り車の紹介を終えると、沖はいかにも紳士的な仕草で車のドアを開けた。


「それより乗ってよ、お嬢様。今日は君と出かけたくてここまで来たんだ」


「出かけるって、どこへですか」


「さあ、どうしようかな。実は決めていないんだ」


「どこか行きたいところがあるわけではないのですか?」


 千代はびっくりして沖の顔を見た。てっきり何か買い物したいものでもあるのかと思っていた。

 沖は笑顔でうなずく。


「うん、ただ千代さんと一緒にどこかへ行きたいだけ。三越がいいかな。それとも丸善? 千代さんはどこへ行きたい?」


 ウキウキと楽しそうな沖に、千代はため息混じりに答えた。


「それでは丸善へ行ってもらっても良いですか? 文具を見たいので」


「いいね、文具だけじゃなく、洋服でも着物でも、何でも買ってあげるよ。バーバリーのコートはどうだい?」


「いえ、結構です」


 千代が素っ気ない口調で答えると、沖は嬉しそうに車を発進させた。


「了解」


 車はあっという間に赤レンガ造りの四階建て建物に到着する。

 丸善といえば、明治の初めころから万年筆のインクで有名になったお店である。

 今では万年筆の他に、書籍やタイプライター、珍しい輸入雑貨なんかも扱っていて、女学生の間でも人気が高い店なのだ。


 千代が一階の文房具売り場へと向かっていると、沖が後ろから尋ねてくる。


「文房具が欲しいの?」


「はい。便箋や封筒を見たいので」


「手紙を書くの?」


「学校で友達同士で手紙を交換するのが流行っているんです。授業中にこっそり回したり、靴箱に入れたり」


「へえ、そうなんだ。面白いね。世の女学生たちはそんなことをしているのかあ」


 千代の説明を興味深そうに聞く沖に、千代は首をかしげる。

 変なの。女学校の話なんて何が面白いのかしら。まあ、男性にしてみたら未知の世界なのかもしれないけれど。そもそも沖は狐だし。


 そんな風に千代が考えていると、沖が通路の奥を指さす。


「ほら、こっちに便箋あるよ」


「本当だわ」


 千代は急いで便箋の売り場へと向かった。 そこには薄桃色に白に藤色。可愛らしい便箋が所狭しと並んでいた。

 なんて素敵なのだろうと、千代は目を輝かせる。


「この小鳥の封筒、可愛らしいわ。こっちの野ばらも良いわね。これは百合子さん宛にしようかな。こっちは喜久子さんに……」


 と、千代が封筒や便箋を何枚か手に取って眺めていると、ふと文房具の横で売られている大きな赤いリボンが目に飛びこんでくる。


 赤とは言っても、それほどはっきりとした赤ではなく、どちらかというと臙脂えんじに近い地味な色だ。しかしその大きさや形、生地のツヤ感はまさに千代の理想とするものだった。


 千代の胸がトクンと高鳴る。


 今、女学生の間では頭に大きなリボンを付けるのが流行っている。

 袴にブーツ、それに大きなリボン。それが今どきの女学生の象徴で、女子たちの憧れの的であった。

 中には女学校に通ってもいないのに女学生の真似をしてリボンを付けたりする女の子もいるほどだ。


 千代の妹であるカヨ子も母親に頼み込んで桃色の大きなリボンを買ってもらい、それをつけて女学校に通っている。

 だが千代はというと、学業に関係ないだとかお前には派手すぎると言われ、地味なリボン一つ買ってもらえはしなかった。


 この際だから買おうかな。どうしようかな。お小遣いは貯めていたものがいくらかあるけれど、足りるかしら。

 千代が迷っていると沖が横から顔を出した。


「それ、買おうか迷っているの?」


「は、はい」


 答えると、沖はひょいと千代の手からリボンを取り上げた。


「貸して、付けてあげるよ」


「えっ」


 沖は、固まる千代をよそに、慣れた手つきで私の頭にリボンをつけると、そのまま千代の顔周りの髪を軽く整えた。

 千代の耳の辺りに、白くて長い指が微かに触れる。

 その瞬間、千代は沖に触れられた箇所が、熱を持ったみたいに熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が速くなる。男の人に髪を触られるのは初めてだった。


「ふふ、そんなに赤くならなくてもいいよ。可愛いね」


 沖はおかしそうに笑う。

 千代の顔が茹ったみたいに赤くなった。


「し、仕方ないでしょう!? 普段女学校には殿方なんて居ないんですから」


 千代がムキになって言い返すと、沖さんは口の端を持ち上げて笑った。


「あはは、それは失礼」


「もう、何が面白いんですか」


 千代がぷうとふくれて横を向くと、沖は嬉しそうに目を細めた。


「それでは、おわびと言っては何だけど、その便箋とリボンは僕が買ってあげよう」


「へっ?」


 そんなの悪いと思った千代であったが、千代が返事をする前に、沖はさっさとお会計を済ませてしまった。


「はい、どうぞ」


 沖は綺麗に包装された便箋とリボンを千代に手渡した。


「ありがとうございます」


 千代が素直にお礼を言うと、沖はひらひらと手を振った。


「いいよ、これぐらい。気にしないで。それよりもっとお店を見て回ろう」


 そしてその後、千代はお気に引きずられるようにしてあちこちの店を見て回ることになった。

 封筒と便箋、リボンだけではない。雑誌にハンカチーフにバレッタ、千代が欲しいと思ったものを、特にねだったわけでもないのに、全部買おうとしてくれる沖。


 一体どういうつもりなのだろう。そんなに自分はみすぼらしく見えるのだろうか。

 千代は恥ずかしくなり、少し下を向いたのだった。


 




 

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