22.水神様のなれの果て
「みんな、下がってて」
常春はそう言うと、低く祓詞を唱え始めた。
ピシ……ピシ。
常春の声に呼応するように、低く家鳴りがする。家具もガタガタと地震のように揺れだす。
「ポルタアガイスト……」
千代が小さく呟く。
千代も怪奇雑誌で読んだことがあり名前だけは知っている。霊によって家鳴りが起きたり家具が移動したりする怪奇現象のことだ。
――ポツ、ポツ、ポツポツ。
外ではいつの間にか雨が降り出し、屋根を雨粒が打ち付ける音が響いてきた。
やがてそれは一層激しい土砂降りとなり雨音が辺りを支配しだすと、千代はここが外界と完全に隔絶されたような不思議な気持ちになった。
「うん。向こうも僕たちを歓迎しているようだね。みんな、僕の側を離れないように」
常春がぽつりとつぶやく。その口調はあくまでも軽いものであったが、琥珀色の瞳はどこか緊張感をはらんでいるかのようにも見えた。千代がその言葉にうなずいたその時、目の前に真っ黒な霧のようなものが現れた。
「これは?」
國仲が口を開く。
常春がゴクリと唾を飲む。
「これは……大物だね」
四人が警戒しながら見つめていると、黒い霧はどんどん長くなっていく。まるで蛇のように――。
そこまで考えて、千代の背中がゾクリと寒くなる。いや、これは蛇じゃない。足がある。これはまさか――龍!?
「ふむ、これがこの地に住んでいる《《ヌシ》》だね。こんなに大物と対峙するのは久しぶりだ」
常春が興奮したような口調で言う。その頬は、わずかだが高揚しているようにも見えた。
「ヌシ……ってことは、これが例の祠に祀られてた?」
「うん。蛟の成れの果て……ってとこかな。打ち捨てられた水神の一種だ」
「水神……って、それって大丈夫なの?」
千代の問いに、常春は答えなかった。
代わりにビリビリと強烈な湿気と寒気が千代を襲う。千代が本能的に、その場から逃げようと後ずさると、その手を常春が掴んだ。
「やはり、落ちぶれたとはいえ結構強いね」
窓の外は本格的に嵐になっていた。低く雷が鳴り、空を切り裂くような稲妻が走る。
それに呼応するかのように、蛟の体が青く光った。
「オオオオオオオ」
「まずい」
常春が慌ててお札を投げる。
「狐火!」
蛟に張り付いたお札は、ゴオッという音とともに真っ赤な火を上げる。
「やった!」
だけど、千代が声を上げたのもつかの間。
「シャアッ」
蛟が鳴くと、大きな津波のような水しぶきが上がった。
部屋の中に充満する強烈な湿気に、常春の炎はすぐに消えてしまう。
「まずいですね。向こうは水で、沖さんは炎。相性が良くない」
國仲が呟く。
そんな! じゃあ、どうするの!?
蛟は大きな口を開け、鋭い爪で古賀へと向かっていく。
「古賀さんっ」
常春が慌てて古賀にお札を投げつける。
「くっ、古賀さん、逃げて!」
しかしお札の炎は蛟の水ですぐにかき消されてしまう。
「危ないっ!」
古賀が目をつぶり、その場に立ち尽くす。
すると――。
『こっちへ来て』
急にどこからか女の人の声がした。
(この声って――あの、レコードから聞こえてきた声だわ)
千代が古賀の方を見ると、古賀の体の上に、半透明に輝く女の人の姿が見えた。
女の人に体を押され、古賀はすんでのところで爪による攻撃を避ける。
「よし、國仲くん、例のものを」
常春がお札を蛟に投げつけながら言うと、國仲は荷物から紫色の包みを取りだし、常春に投げた。
「沖さんっ」
國仲が紫色の包みを投げると、包みは磁石に引き寄せられるかのようにすっぽりと常春の手の中に収まった。
「ん、ありがと」
常春が包みをハラリと解く。中から現れたのは、古びた短刀だった。
「――緋刀・焔狐」
常春が呪文を唱え、手を担当にかざす。すると見る見るうちに短刀は燃え盛る炎を纏った長い日本刀に変化した。
「刀が!?」
千代が驚いていると、常春は刀を手にゆっくりと振り向く。
常春の体の纏う気が、炎のように赤と金に揺らめく。金の眼がすうっと細くなった。
千代はゾクリと身震いをする。あれは獣の瞳だ。狩りをする時の肉食獣の目だ。
「シャアッ!」
蛟は部屋の中でくるりと回転すると、水をまといながら常春のほうへと向かっていく。
常春はというと、目を細めたままぺろりと紅い唇を舐めた。
――チャキ。
広い室内に、鍔を返す音が響く。
小さく息を吸い込む音。
「――哀れな。堕ちたる神よ」
凛とした声が雨音を裂いて響く。
常春は大きく刀を振り上げたかと思うと、真正面から蛟を切りつけた。
「オオオオオオオオ!」
蛟の体が炎に包まれる。
火の勢いを妨げるかと思われた水は、一瞬にして蒸発し、辺り一面白い水蒸気に覆われた。
「……凄い」
千代の口から思わず言葉が漏れる。
焦げ付くような臭い。燃え盛る炎はまるで地獄の業火のように蛟の体を焼き尽くしていく。
その様子を見つめる常春の横顔は、いつもと違い冷たい瞳で眉一つ動かさず、まるで別人みたいだと千代は思った。
そして体をくねらせもがいていた蛟は、やがて完全に動かなくなり、黒い灰となった。




