「第1章 遠い記憶からの始まり」 (2ー3)
学校に到着すると、昇降口で自分のロッカーから上履きを取り出して履き替える。大勢の生徒が教室へと向かう中、桜もその群隊の一つとなって、足を進めた。通学路を歩いている内は、新鮮さからどうしても見てしまった未来でダメージを受けていたが、学校まで辿り着く間に少しずつではあるが気持ちの整理を付け始めていた。
こんなに早く折り合いが付けられたのは、この力との付き合いが長いからこそ。どんな事があろうと、今は定期テストを第一に考えないといけない。
桜は自分の教室に到着してドアを開ける。まだ朝のホームルーム前特有のガヤガヤとした雰囲気が滞留していた。休み時間とは違って、スイッチが入り切っていない状態。
その空気感が桜はあまり得意ではなかった。
教室前方にいるはしゃぐ男子グループの大声を耳障りに感じながらも桜は自らの席へと座った。
学校での自分の定位置。椅子の横にあるフックに通学カバンをかけて、ノートと筆記用具。後はペットボトルのお茶を取り出して、口を付けた。
駅ナカのコンビニで購入したお茶がスッと喉から入って、桜を落ち着かせた。すると前から声を掛けられる。
「おはよ、桜」
「おはよう。結衣」
前の席に座っている斎藤 結衣。彼女は桜の数少ない友人である。一年生は違うクラスだったが、図書委員と体育の見学を通じて仲良くなり、二年生で初めて同じクラスになった。
何度かの席替えを重ねて、縦で並んだ時はお互いに喜んで昼食も一緒に食べる仲になっている。学校では友人関係が薄い桜にとって、結衣の存在はとても大切だった。クラスで友達がいないと認定されてしまうより、仲良し二人組という認識の方が風当たりが大分違う。
口には出していないが、それは結衣も分かっているのではないか。彼女は自分と違って、ズルなんてしていないのにテストの点数の差は殆どない。元から頭が良いのだ。その事に対して、いつも申し訳ない気持ちになりながらも同盟維持の為に罪悪感を心の奥底に隠していた
「結衣、今日のテストどんな感じ?」
「暗記の世界史は大丈夫かな。怖いのはやっぱり数学」
「私も同じ。豊野先生、今回は解くのに時間がかかるって言ってたもんなぁ」
「ああ、言ってた言ってた」
確かに昨夜解いた時は、かなり時間がかかった。“遠見の力”を使う前は八割くらいは取れると思ったが、今回は無策で受けていたら、七割も厳しかっただろう。
結衣に同意しつつも既に答えを知っている桜は、そう考えていた。
それから結衣とテストについて話をしていた時だった。後方の教室のドアが勢い良くガラッと開いた。
「おっはよ〜。ギリギリセーフ!」
元気良く声を上げて、一人の女子が教室に滑り込んできた。階段を駆け上がってきたのか、若干息が上がっている。
始業三分前。間に合った彼女は、自分の席へと向かう。するとそこには男女グループ六人がいた。
「おはよ〜、真緒。おっそ!」
「テスト初日からアイツ、遅刻だなって皆で話してたところ」
男女二人が席に座ったばかりの彼女を早速からかう。
「残念でした〜。まだ遅刻してませ〜ん」
二人からの軽口に得意気になって答える彼女は自身の席へ座った。
少し崩した制服の着こなしも格好良くて、それでいて下品にはなっていない。彼女はあのグループの主人公と言える存在だった。
市原 真緒。いつも明るく、クラスの中心人物と言っても過言ではないクラスメイト。
桜との接点は特にないが、体育の時間やオリエンテーション等で何度か話した事がある。自分のような人間にも明るく話しかけてくれた。
そう、あの彼女があんな事になるとは、桜にはどうしても信じられない。
数分前に見てしまった未来の映像が、頭の中でフラッシュバックする。鉄の塊のトラックと衝突してグチャグチャな赤い肉片へと変貌していくその姿を。
「……どうしたの? 桜、顔色悪いよ?」
つい真緒の事を考えてしまった桜に結衣が心配そうに声をかける。
「えっと、ちょっと昨日嫌な夢を見て……」
正確には数分前の事だが少しぼかして、結衣に話した。それを聞いて、彼女がクスクスと笑う。
「あー、もしかしてテストの夢? 分かるよ〜、私もたまに見るもん。テスト当日に全然勉強してない教科受けるとか、遅刻して間に合わないとか」
「あははっ、そんな感じ。何とか学校に来れて良かった」
二つの意味を含めた言葉を結衣に返していると、そのタイミングで教室のチャイムが鳴った。朝のガヤガヤとした雰囲気がこれでようやく終わる。
真緒の周りにいたグループも解散となり、各々の席へと戻っていく。
「よし、今日からがんばろっ!」
両手で拳を強く握った結衣がそう言った。「うん、頑張ろう」と桜が返事を返すと、彼女は微笑んで体を前に向けた。
やがて教室前方のドアが開いて、担任の山本が入ってきた。あまり話した事のない彼の印象は、良く言えば落ち着いている、悪く言えば無愛想だ。
また山本が教科担当が英語なのも好ましくなかった。テストについては大丈夫だが、授業がどうも威圧的に感じる。
英語の定期テストは明日だから、今日は昨日みたいにギリギリにならず早目に見ておこう。簡単な連絡とテストについて話す山本に桜はそう考えていた。
「――以上だ。各自、テストを頑張るように」
説明を終えた山本は淡々とした感じで教室から出て行く。彼が出て行った事で緊張感が漂っていたクラスの空気が僅かながらに弛緩する。
コソコソと話し声も聞こえてきた。桜はノートを開いて、書かれていた内容を最終確認する。
テストは“遠見の力”で見た通りの内容が出題されるので、苦戦する事なく問題が解けた。世界史なんて選択する記号から覚えてしまっている部分もあったくらいだ。このままいけば、百点は確実だが面倒事を回避する為に意図的に難問か間違える。
もはや学力を測るというよりも一種の作業として解いているテストを終えると、桜は小さく息を吐いて、シャープペンを手から放す。
周囲を軽く見回すとまだ手を動かして書いている生徒が多かった。中には突っ伏して寝ている男子もいたが、おそらく解けなくて早々に手放したのだろう。後方から見える彼の背中からは、そんな感じがした。
桜は斜め前にいる真緒の姿を見る。彼女はシャープペンを動かして軽快に問題を解いていた。この位置からこっそりと覗ける横顔は真剣で、とても数時間後にあんな事になるとは考えられない。
こんなテストなんかよりも真緒の事を考える方が百倍難しい。桜はそんな事を考えながら、教室の窓の外に広がる青空を眺めていた。