第8話
サークル室の片隅で、みんなが帰ったあとのテーブルに佐々木と二人腰をおろす。
窓の外はまだ夕方の光が残り、うっすらとオレンジ色に染まっていた。
だが室内は古い蛍光灯がやけに冷たい光を落としていて、少し人肌が恋しくなるような薄寒さがある。
「香澄、最近やたらと神楽坂 雛人の話ばっかりでさ。
いや、別に悪いことじゃないんだけど……なんか、危なっかしいんだよね。」
佐々木が遠慮がちに切り出す。
本人はいつもの柔和な表情だが、目つきが普段より少しだけ真剣に見えた。
香澄は「危なっかしいって?」と聞き返す。
「だって、あの作家って結構ハードな内容を書くじゃない。
最近の新作だってそうだろ?
読んでると刺激強すぎて頭おかしくなりそうなとこあるし……。
少し前、俺もイベントで一節だけ朗読させてもらったけど、何か変なんだ。
表現がまるで機械的に組み立てられた文章みたいだった。」
「機械的に……組み立てられてる?」
香澄はその言葉に反応した。
考えてみれば、神楽坂の作品の中には妙に同じ言い回しが繰り返されている箇所があったし、情景と情欲の融合がまるで計算式のように正確すぎるとも感じたことがある。
しかし彼女はそれを作家の持ち味だと思い込もうとしていた。
まさか“機械的”なんて表現を他人から聞くことになるとは。
「まあ、俺の単なる勘違いかもしれないよ。
でも、君がそこに引き込まれていくのを見てると、正直心配になるんだ。
何かあってからじゃ遅いっていうか。」
佐々木の声は徐々に弱まっていく。
彼自身も、香澄に強く踏み込む権利などないと思っているのだろう。
だが、気遣いの気持ちだけは確かに伝わってくる。
「ありがとう、遼くん。
でも、大丈夫だから。
私……自分が何に惹かれてるか、ちゃんとわかってるつもり。」
そう答える香澄の瞳には、一瞬だけ強い光が宿った。
自分で言いながらも、その言葉が多少の虚勢であることに気づく。
とはいえ、佐々木にこれ以上心配をかけたくないのも本音だった。
するとドアの外からノックの音が聞こえ、他のサークルメンバーが「鍵閉めるけど大丈夫?」と声をかけてくる。
佐々木が「すぐ出るよ」と答え、二人は立ち上がる。
最後に部室の灯りを消すとき、香澄は一瞬だけ机に目を留めた。
そこには、彼女のメモ書きがあった。「痛みと悦びは表裏一体。
その狭間にこそ人の本性が剥き出しになる。」
わずかにペンの跡が残るそれは、香澄が自分用に書きつけた小説の着想だが、身近な友人の前でこんな言葉を晒すことはできないと思い、そっとノートを閉じた。
外に出ると空気がひんやりしていて、香澄は小さく肩をすくめる。
佐々木は「いつでも話聞くからさ」と言い残し、シェアハウスに帰るため駅へ向かう。
その後ろ姿を見送りながら、香澄は自分の足取りがやけに重たいことに気づく。
まるで、刺激を求める心と、それを怖がる心がせめぎ合っているようだった。
パーティーやオフ会への誘いに舞い上がっていた自分を、佐々木の言葉が少しだけ冷静にさせる。
だが、だからといって引き返すつもりはなかった。
危険とわかっていても踏み込みたいと思えるものはそう多くないし、そこには自分がずっと探し続けていたものがある――そう信じているのだから。