第5話
翌日、授業がひと段落した昼下がりに、香澄は学食の端でスープを啜りながらスマホをちらりと確認した。
夜に送信したオフ会の応募に、何の返信も来ていないのは当たり前だが、彼女はどこか落ち着かない。
頭の中では「もし受かったら」「いや、落選するかもしれないし」など、思考が堂々巡りをしていた。
すると向かいの席に佐々木が座り込み、トレーを置くなり「顔色悪いけど大丈夫?」と尋ねてくる。
「ううん、ただちょっと考えすぎて寝不足かも。
でも平気。
ありがとね。」
そう言いながらも、香澄の声にはどこか熱がこもっていた。
佐々木は心配そうに眉を寄せるが、あえて深くは問いたださない。
「最近さ、神楽坂 雛人の小説ばかり読んでるんでしょ。
大丈夫? あれって刺激強そうだけど。」
「それがいいんだよ。
刺激が強いほど、なんか……自分の知らない部分に触れるような気がして。」
香澄はスプーンを置き、ほんの少し頬を染める。
「自分が普通に暮らしてるのが馬鹿らしくなるくらい、あの世界は甘くて危険で……でも、そういうのが欲しいと思っちゃうんだよね。」
最後のほうは声を落とし、ささやくように呟いた。
佐々木は彼女の目を見つめながら、小さく息を吐く。
「まぁ、ほどほどにね。
俺は君が危ないことに巻き込まれないか気になるからさ。
誰かに相談とか……ちゃんとするんだよ。」
彼の柔らかな口調には、香澄に対する守りたい気持ちと、一方で入り込めない距離を感じさせる微妙なニュアンスが混ざっているようだった。
食事を終えてキャンパスを歩きながらも、香澄の頭からオフ会のことは離れなかった。
あの作家に直に会えるとしたら、どんな会話を交わすのだろう。
質問したいことは山ほどある。
それこそ、ファンレターに書きかけたような「あなたの創作原動力は何ですか?」なんて無邪気な問いから、「言葉だけでこんなにも人を支配できる秘訣を教えてほしい」などという倒錯めいたリクエストまで。
母親にはもちろん黙っている。
バイト先の同僚に話す気もない。
佐々木なら心配してくれそうだけれど、彼の反応を想像するとためらいを覚える。
一度会ってみるだけだから、大したことではないと自分に言い聞かせてはみるものの、そのうち心のどこかが疼くような期待に支配されていくのを止められない。
「……調教、されたいのかな、私。」
誰にも聞かれないような小声でつぶやいた瞬間、自分の耳が赤くなっていく気がして恥ずかしくなる。
スマホを手に取り、何度もメールボックスを開いては閉じ、また開く。
当選通知が来るはずもないのに、そこを覗かずにはいられなかった。
そうでもしなければ、大学の廊下の雑踏も、午後の退屈な講義も、何もかもが味気なく思えてしまうのだ。
やがてサークルの仲間と合流し、夕方までは文芸論のディスカッションに参加するフリをして過ごす。
頭の片隅にはずっと神楽坂 雛人の名前が散らつき、彼女の中の“危険な衝動”がじわじわと熱を帯びているようだった。
いつもよりやけに講義が長く感じられ、はやく帰宅して確認したいメールがあることを思い出すと、心拍数が上がりそうになる。
そんな自分を俯瞰して「ちょっとおかしいかも」なんて笑ってしまうが、それも悪くはないと感じる。
香澄は鞄をぎゅっと握りしめ、廊下を足早に歩き出した。