第4話
朝の支度を終えた香澄は、まだ寝ぼけ眼のままスマホを眺めていた。
SNSのタイムラインを何とはなしにスクロールしていると、「神楽坂 雛人プライベートオフ会開催」の告知が目に留まる。
思わず画面を指先で拡大すると、【完全抽選・少人数制/都内某所にて実施】といった文字が並んでいる。
普段、作家本人が公の場に出ることは滅多にないとされているだけに、なかなか刺激的な誘いだった。
胸が高鳴るのを感じながら、彼女はゆっくり息を整えた。
「ここに申し込んだら……本当に会えるのかな。
いや、当たる確率は低いだろうけど……どうしよう。」
声に出して呟くのは、まるで自分を説得したいかのようだ。
最近は母親からの電話でも「真面目に勉強してる?」と念を押されるし、バイトでは「きちんとレジ締めしてよ」と先輩に注意される。
周囲からの「優等生」のイメージを壊すことに、どこか恐れを抱き続けてきた。
けれど、神楽坂 雛人という作家が描く世界をもっと間近で感じたいという欲望を、今さら抑えられそうになかった。
ポストに届いていた大学の資料を横に退けると、机には見慣れたノートとファンレターの下書きが置かれている。
彼女があの作家に向けて綴った言葉は、どこか危うい陶酔に満ちていた。
「あなたが創る耽美な世界に踏み込みたいんです。
全身がほどけてしまうような背徳の瞬間を、私は実際の肌で感じてみたくて……。」
文字として読むと息苦しいほどの情念が染み出しており、香澄自身が改めて読み返すのをためらうほどだった。
しかし、その言葉を形にしてしまったときの自分は決して嫌いじゃない。
むしろ、書き終えたあとの昂揚感に、彼女は微かな救いを見いだしていた。
「決めた。
とりあえず応募だけはしてみよう。」
スマホ画面を操作し、応募フォームへ必要事項を打ち込み始める。
名前や連絡先を入力している最中も心臓がどきどきと騒いで落ち着かない。
万が一当選でもしたら、いや、実際に神楽坂 雛人を目の前にしたら、どんな自分が露呈してしまうのだろうか。
そんな不安がありながらも、送信ボタンを押す指にはためらいはなかった。
ちょうどそのとき、LINEの通知音が鳴る。
佐々木からだ。「今日のサークル、先に行ってるから」とのメッセージが表示されている。
彼にはまだこのことを話すつもりはないが、少しだけ口に出して相談してみたい気もする。
けれど、まずは抽選結果が出るまで静かに待ちたいという思いが勝った。
結局「了解」とだけ返事を打ち込み、神楽坂 雛人のプライベートオフ会ページをもう一度開いてしまう。
画面の向こう側には、まだ知らない深い闇と誘惑が広がっているようで、気づけば喉がひりつくほど渇いていた。
重いまぶたをこすり、香澄はパソコンの横に無造作に置いてある文庫本を手に取る。
神楽坂 雛人の既刊の中でとりわけ背徳度の高いと噂される作品だ。
「曇った瞳の奥に、私はあなたの絶対的な支配を夢見続ける。
その首筋を噛みしめるたび、罪の吐息が私の舌を甘く濡らしてゆく……。」
この一節だけを読み返しても、体の奥で呼応するものがあるのを感じる。
そしてそれは、彼女にとって危険なほど魅力的な世界の入り口に他ならなかった。