第3話
四限目の授業が終わると、香澄は書店のバイトへ向かう前に一度自宅へ寄ろうと、大学の正門を出た。
都内にある大学から彼女の住むワンルームまでは電車で数駅。
夕方の混雑前の時間帯で、車内はそこまで混んでいない。
吊り革につかまりながらスマホを開き、SNSを眺めていると、タイムラインの一角に「神楽坂 雛人がオンラインサロンで読者交流を企画中」という情報が流れてきた。
「また新しい企画かな。普段はめったに表に出ない人なのに。」
そうつぶやきながら、バイトのシフトを思い浮かべる。
このサロン企画、時間帯が合えば参加してみたいけれど、詳細はまだ出ていないらしい。
帰宅した香澄は、簡単な着替えを済ませてから机の上を整理する。
そこにはバイト先で仕入れた文学雑誌や、自分が書き散らかしたメモ用紙が雑然と置かれていた。
大学生らしい資料も混ざっているが、何より彼女の目を引くのは神楽坂 雛人の文庫本の山と、電子書籍リーダー。
その横にあるのは、母から届いた封筒。
「ちゃんと授業に出てるのか」とか「食事はちゃんととってるのか」とか、そういう内容が書かれているだろう。
母の文章はいつも決まった形式で、愛情は感じるものの、やや窮屈さを覚える。
「優等生でいるのも、疲れるんだよね。」
独り言をこぼしながら、ハンドクリームを塗って作業の手を止める。
ふと、PCの画面が光っているのに気づいて、メールをチェックした。
大学のサークル広報かと思ったら、「神楽坂雛人ファンクラブ運営」からのメッセージが届いている。
“プライベート・オフ会参加者募集のお知らせ”という件名に、思わず目を見開いた。
「少人数制……抽選……。これ、めちゃくちゃレアじゃない?」
興奮気味にスクロールを進めると、応募フォームへのリンクが貼られている。
リアルイベントは都内のどこかで開かれるらしいが、場所は当選者にしか明かされない。
神秘的な雰囲気を保つためか、事前の宣伝もほとんどないようだ。
香澄はドキドキしながら、スマホで再度ページを確認する。
「当たるわけない……けど、やるだけやってみようかな。」
そう思いつつ、画面を閉じる。
この作家との距離がほんの少しでも縮まるかもしれないなら、挑戦してみる価値はある。
夜のバイト先へ急がなければいけないのに、部屋を出る直前にもう一度だけメッセージを読み返してしまう。
気づけば心臓が高鳴っているのがはっきりわかる。
その瞬間、ノートの隅に書き留めていた言葉が脳裏をかすめた。
「あの禁忌の世界を、いつか自分の身体で実感したい……」
誰にも言えない願望と日常のギャップ。
自分でも時々混乱しそうになるが、どうしてもそこから目を背けることができない。
香澄は深く息を吐き、鞄を肩にかけると玄関のドアを押し開けた。
彼女の胸にはまだ、ファンレターの下書きの言葉が残響している。
「あなたの描く倒錯は私の中に根を張り、現実にこそその花を咲かせたいのです。」
その一文を思い出すと、なぜだか背筋に微かな震えが走るようだった。