第2話
翌朝の大学キャンパスは、まだ少し肌寒い空気に包まれていた。
文学部の建物に入ると、香澄はバッグの中から薄いストールを引っ張り出し、首元に巻き付ける。
夜更かしのせいか、やや眠そうに見えるが、彼女の奥二重の目はしっかりと前を捉えていた。
「香澄、遅かったね。」
文芸サークルの部室に入ると、テーブルに腰かけていた佐々木 遼が声をかけてくる。
佐々木は髪を短く整えており、細身の体格が学生服というより私服に近いラフな装いによく似合う。
優しく柔和な雰囲気があるが、どこか頼りなさも感じさせる風貌だ。
「昨日ちょっと読みふけっちゃってね。神楽坂 雛人の新作がすごくて……止まらなくなった。」
香澄がそう言うと、佐々木は興味ありげに眉を上げる。
「また? 本当に好きだよね、その人の小説。耽美とか背徳とか、そういうの多いんじゃないの?」
「うん。でも、ただ卑猥なだけじゃなくてさ……なんて言えばいいんだろう。禁忌を抱える人間の孤独とか、美への執着みたいなのが濃密に描かれていて、読むたびに痺れるの。」
香澄は語りながら、自分の声が少し上ずっているのを感じる。
佐々木はそんな彼女の様子に少し驚きつつも、「そこまでハマれるのはすごいね」と苦笑を漏らす。
部室の長机には、各自が持ち寄った原稿やレジュメが並べられていた。
その中に混じって、香澄のプリントが数枚。
佐々木が何気なく手に取り、そこに書かれた文章を目で追いかける。
「……これ、神楽坂 雛人への手紙なの?」
「ちょ、ちょっと待って、恥ずかしいからそれ見ないで。」
香澄は慌ててプリントを引っ込めようとするが、佐々木のほうが一瞬早く、数行を読み取ったらしい。
「“あなたの小説は私の存在を映しているようで、震えます。私さえ気づいていなかった欲望や痛みまでもが、まるであなたの言葉に暴かれてしまうようで怖いのに、どうしても目が離せないんです。”……か。ずいぶん熱がこもってるね。」
「そういうのは内緒っていうか……下書きだよ。気にしないで。」
彼女は少し顔を赤らめながらプリントを抱え込むと、そそくさと自分のバッグに押しこんだ。
佐々木は気まずそうに「悪かった」と謝るが、なぜだか胸に軽いざわつきを感じているようだった。
香澄はその視線に気づかないふりをして、「とにかく、神楽坂先生の作品はすごいの。機会があれば読んでみて」とだけ言う。
本当は“調教”という単語を口に出しかけたが、それ以上強く語るのはためらった。
佐々木がどんな反応をするか分からないし、自分の秘めた欲望を晒すようで怖かったのだ。
そんな曖昧な空気のまま、次の講義の時間が近づいているのを思い出した香澄は、慌てて教室へ向かう。
佐々木も後ろから続くが、先ほどのファンレター下書きの断片が頭を離れない。
彼女がそこまで強く思い入れる作家とは何者なのか。
そして、その思い入れはただの憧れなのか、それとも……。
サークル室のドアが閉じられたあと、室内には誰もいなくなり、静寂だけが残った。