第16話
夜の街を彷徨うように歩き回った末、香澄が自分のワンルームにたどり着いたのは深夜近くになってからだった。
神楽坂 雛人との対話で感じた絶望は深く、しかし奇妙な静けさも伴っている。
もともと憧れていた作家がAIを使っているかもしれない――それを聞いたときの衝撃から、さらに一歩踏み込んで何もかも見えてしまった今、彼女の中には“虚構の破片”が突き刺さったままの感覚があった。
ベッドに倒れ込むと、頭の奥でかすかに蘇るのは、かつて何度も読んだ神楽坂のSM官能シーン。
ただし今、その場面を思い浮かべても官能の高揚は全く感じられない。
むしろ、意図的に配置された言葉やフレーズが、どこか冷たいシステムの残滓のように思えてしまい、ページをめくることさえ躊躇われる。
香澄は頬を打つように両手で顔を押さえ、「こんなこと、信じたくなかった」と声を低く吐き出す。
それでも完全に切り捨てることもできないのは、彼女自身がそこに救いを求めていたからだ。
子どものころから感じていた背徳的な欲望を、神楽坂の小説は“美しく描き切っている”と思っていた。
その世界でなら、自分が変わり者でも、倒錯した願いを抱えていても肯定されると信じたかった。
だが、部屋の天井を見つめるうちに、ふと別の感情が生まれる。
「たとえAIが書いた文章だったとしても、私が本気で感じ取っていたのは事実じゃないの?
私の心と体が震えたのは、紛れもない現実だったはず……」
そしてもう一つ、編集者に聞かされた言葉が再度頭をかすめる。
“あなたのファンレターや感想が、AIへの指示文の一部として頻繁に使われていた”――そうだ。
もし香澄自身が書いたあの倒錯的イメージこそが、作品を支える重要な原動力になっていたなら、いっそ“自分で書けばいい”のではないか。
今まで神楽坂 雛人の名を冠した作品に感じていた官能世界を、いつか自分の筆で紡ぐことはできないのか。
枕元のノートパソコンを開き、香澄は思わず息を呑む。
何も考えずにキーボードに指を置いたとき、胸の奥からあふれてくる言葉があるのを感じる。
それはかつてファンレターの下書きやメモに書き散らかしていた官能表現の断片とは異なり、もっと鮮明でリアルな衝動を孕んでいた。
「もし、あなたがAIの幻だとしても、私の欲望まで嘘にはならない。
痛みと快楽の隙間を私は書きたい。
誰にも見せられなかった秘密を、今こそ言葉に閉じ込めて、私だけの官能世界を刻みたい。
私の“調教”は、私自身が創り上げるしかない――」
ハッとしたように指を走らせる。
書いてみなければわからないが、書き出すと不思議なほど言葉は尽きない。
神楽坂 雛人への憧れを背景にしてきたからこそ、自分が育んできた妄想や情念は確かにある。
それを表現するのは、編集者でもAIでも神楽坂本人でもなく、ほかならぬ自分自身なのだと、今はっきりと悟る。
もちろん、彼女の文章がどれほどの完成度なのかは未知数だ。
ただ、少なくともそこには偽りではない“欲望”と“官能”が流れている気がした。
ノートパソコンの画面に打ち込まれた文字列はまだ拙いが、香澄の中で一種の解放感が広がってゆく。
自分の倒錯的願望を肯定してくれる世界を、いつまでも他人の手に求めていてはいけない。
だったら、自分の手で創り出すしかない――そう思うほどに、筆が止まらない。
夜はすっかり更け、時計の針は深夜を指していた。
一息ついた香澄は微かに笑みを浮かべる。
神楽坂 雛人が“虚像”だとしても、あの小説に本気で心を震わせたのは誰でもない自分自身なのだ。
そして、その震えは自分だけの糧に変えられるかもしれない。
スマホの通知画面には複数のSNSメッセージやメールが溜まっていたが、いま彼女が知りたいのはネットの噂や外野の声ではなかった。
ただ己の内面を掘り起こし、熱を宿した文字に変換する。
それこそが今の香澄を満たしていく作業のように思える。
「私が書く。
SM官能の世界を、私だけの欲望で築きあげるんだ。
誰かに騙されたっていい。
結局、本当に動かされるのは自分の心だけなのだから……。」
そう呟いた瞬間、遠くで夜明けを告げる鳥の声がかすかに響いたような錯覚を覚える。
ノートパソコンの画面には、かつての香澄がファンレターに書いた以下のフレーズが引用されたままだった。
「あなたの調教がAIの産物でも構わない。
私がそこに感じた官能は幻ではないと信じたいから。
そして、いつか私自身の筆で“真の官能”を描き出してみせます。」
画面に映るその言葉は、まるで彼女に新たな道を指し示す灯火のようだった。




