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偽りの栄光を欲する欲望

作者: 千羽 鶴美

「金か、地位か、名誉か――」


 低く冷たい声が耳元に囁いた。


 会社帰りの暗い路地裏、赤い月が薄雲に隠れる中、安田はその声を聞いた。背筋を走る寒気に振り返ると、そこには男が立っていた。黒いスーツを纏い、顔は薄い霧に覆われているようで、はっきりとは見えない。


「どれか一つを、お前の望むがままに与えよう。ただし、その代償として、死んだ時に魂をいただく」


 奇妙な言葉に、安田は呆気に取られた。しかし、すぐに我に返り、男を睨みつける。


「お前は誰だ?どうしてそんなことができる?」


 男は小さく笑った。


「私は悪魔だ。この世の中で満たされぬ欲望を抱える者に手を差し伸べ、代償としてその魂をいただく。つまり、取引の相手としては最適な存在だろう」


「悪魔……」

 安田は呟き、しばらく沈黙した。そして目を鋭く光らせる。


「だが、死後の魂がどうなるのかを先に聞かせてもらえないか」


***


 悪魔はゆっくりと口を開いた。


「魂を奪われた者は、永遠の暗闇に囚われる。そこには光も音もなく、ただ後悔と欲望の残骸だけが浮かび上がる。時間の感覚も失い、選んだ道を永遠に噛み締め続けるのだ」


「永遠に……?」


「そうだ」


 安田は息を飲み、しばらく黙り込んだ。しかし、その後すぐに口元に苦笑を浮かべた。


「それがどうした?俺は今、地獄のような人生を送っている。それなら、この地獄を塗り替えてやる。後悔するかもしれないが、何もしないで死ぬよりはマシだ。金だ。金をくれ!」


 その言葉に、悪魔は静かに拍手をした。


「素晴らしい。お前のような人間こそ、私が求める契約者だ」


***


 次の日の朝、安田は目を覚ますと、一つの封筒が机の上に置かれていた。「昨日のは夢だったのか?」と疑いながら封筒を開けると、中には一枚の手紙と銀行口座の通帳が入っていた。


 手紙にはこう書かれていた。


「お前の選択を尊重し、望むままの金を与えた。」


 通帳を見ると、そこには驚愕の数字が記されていた。10億円――そんな額が現実に手元に来るとは思っていなかった安田は、震える手で通帳を握りしめた。


 すぐに銀行に向かい確認すると、確かに10億円が口座に入っている。目の前で現実となった金に、安田は歓喜の声を上げた。


 安田の生活は一変した。まず、長年働いてきた会社を辞めた。上司にも同僚にも何も告げず、突然退職届を送りつけただけだった。そして、高級マンションに引っ越し、高級車を数台購入した。ブランドショップでは欲しい物を片っ端から買い漁り、夜な夜なクラブやバーで遊び呆けた。


 金があると、周りの人間が寄ってきた。派手な女性や、友達を装った人々が安田を取り囲み、彼の奢りで贅沢な日々を送った。しかし、それでも10億という大金は底をつく気配がなかった。


 だが、ある日ふと気づいた。周囲の笑顔はすべて作り物であり、金がある限りの付き合いだということを。


「どうしてこんなに虚しいんだ……」


 深夜、豪華なリビングに一人座り、安田は呟いた。その瞬間、あの悪魔の声が耳元で囁いた。


「後悔しているのか?」


 振り返ると、あの黒いスーツの男がそこに立っていた。


「後悔しているならば、特別にもう一つ与えてもいい。地位か名誉――どちらが欲しい?」


 悪魔の問いに、安田は迷った。金で得た生活は虚しいものだったが、それでも捨てがたい快楽をもたらした。だが、地位や名誉を得れば、もっと深い満足感を得られるのではないか。


「地位が欲しい」


 そう答えると、悪魔は不気味な笑みを浮かべた。


「よかろう」


***


 安田は過去の上司に頼み込んで職場に復帰し、その時を待っていた。幾度もの手柄を立て、上司に認められ、ようやく昇進を果たした。その時、彼は確信した――これで全てが手に入るのだと。CEOとしての地位を得た瞬間、彼の前に広がる世界はまるで別世界のように感じられた。すべてが彼の手のひらの上で回っているような錯覚を覚えた。


 最初のうちは、力強い手応えがあった。社員たちの顔色をうかがい、部下に指示を出し、会議で強い言葉を吐き、次々と成功を収めていった。だが、次第にその成功が安田の心に重くのしかかるようになった。


 彼は、次々と訪れる重要な会議やプレゼンテーション、企業の将来を左右する決断に直面し、そのプレッシャーに耐えなければならなかった。成功を収めるたびに、その次の目標が視界に現れる。休む暇もなく、彼は自らを追い込んでいった。


 それと同時に、安田は人々の期待にも圧倒されていった。彼を取り巻く人々は次第に彼を恐れ、依存し始めた。部下たちは彼の一言で動き、上司は彼の動向を注視し、取引先は彼の意向を伺うようになった。安田はその力を使って、次々と有利な立場を築き上げた。


 しかし、権力を持つことの代償が徐々に彼の心を蝕んでいった。安田の周囲には、もはや本当に彼を理解してくれる人間はいなかった。部下たちはただの道具であり、上司は彼を一つの駒としてしか見ていない。取引先は利益が最優先であり、友人だと思っていた者たちは彼の昇進を妬み、裏で批判を始めた。


「誰も俺を本当の意味で尊敬していない」

 安田はある日、静かなオフィスで一人、呟いた。


 その瞬間、彼は自分が抱えているものすべてが虚しいものであることに気づいた。地位を手に入れることで得たものは、ただの孤独と恐怖だった。以前は、自分が力を持つことで周囲に尊敬され、立場を確立できると思っていたが、実際にはその逆だった。今や彼は孤立し、周囲の期待に縛られた操り人形のように感じていた。


 孤独と失意の中で、安田は思い出した。悪魔との契約を。


「あいつは、俺に名誉を与えると言った……」


 悪魔が再び現れた時、安田は涙ながらに叫んだ。


「地位をくれ!金も地位もいらない!俺には名誉が必要だ!」


 悪魔は静かに頷いた。


「最後のサービスだ。よかろう」


***


 安田は名誉を手に入れることで、次第に社会的な英雄となった。新聞やテレビに取り上げられ、広く社会から賞賛を浴びるようになった。公演に出席し、名誉ある賞を次々と受け取り、そのたびに拍手が送られた。彼は、ついに求めていたものを手に入れたかのように感じていた。


 最初はその名誉に酔いしれた。自分が社会の顔となり、注目されることに興奮を覚えた。しかし、時が経つにつれ、その名誉が徐々に安田に重くのしかかることに気づき始めた。彼は次第に、誰かに評価されることが全てとなり、自分自身を見失い始めた。


 彼の周りには常に人々が集まり、彼の意見を待ち望んでいた。彼が発する言葉はすべてが重視され、次々と彼に従う者たちが現れた。しかし、安田はその中に本当に彼を理解してくれる人が誰もいないことに気づく。それどころか、彼に近づく人々は皆、安田を利用しようとする者ばかりだった。


 彼が本当に求めていたものは、名誉を手に入れることで得られる社会的な評価や称賛ではなかった。安田は次第にそのことを痛感し、名誉を持つことで得たのは「他者の期待」と「孤独」だけであることを悟った。彼は、名誉に酔いしれることができたのは最初だけで、今ではその重みがどんどん増していくことを感じていた。


 ある夜、表彰式が終わり、安田は一人静かな部屋に戻った。外の世界では彼に対する賛辞が絶え間なく送られているが、その声が急に遠く感じ、まるで幻のように響いていた。安田は鏡の前に立ち、自分自身を見つめながら思った。


「これが名誉か? 本当に、俺が求めていたものはこれなのか?」


 その時、悪魔がまた現れた。安田の姿を見つめながら、冷淡に微笑んだ。


「どうだ、名誉は手に入れたか?」


 安田は無言でうなずいた。彼はその名誉がもたらした虚しさと孤独に、心の底から疲れ果てていた。


「名誉を得ることで、俺は誰かに必要とされると思った。しかし、今やその名誉が俺を孤独にさせ、他人の期待に縛りつけるばかりだ」


 ある夜、安田の前に再び悪魔が現れた。


「満足しているか?」


 安田はその問いに答えることなく、ただ静かに答えた。


「最初から知っていたんだ。どんなものを手に入れても、最後には空虚になるって」


 悪魔は少しだけ笑い、安田の魂を引き寄せる。


「だからこそ、君は面白い存在だ」


 そして、安田の魂は永遠の闇の中へと沈んでいった。


***


 悪魔は静かに微笑む。


「誰かに与えられたものではなく、自分で掴み取ったものでなければ何の意味もない。それに気づけない人間は実に愚かで愛おしい」


 そしてまた、新たな犠牲者を探して歩き出した。

お読みいただきありがとうございます。

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