16ピッチ目 大ルンゼ突入
翌朝、簡素なタープの下で眠る俺が目を覚ますと霧と強風にあたりは覆われていた。
昨日までの快晴が嘘のようにあたりは霧に包まれ全く見えないし、風はごうごうと耳元を吹き抜け今にもタープを吹き飛ばしてしまいそうだ。
不幸中の幸いなのが、気温がそれほど低くはないこと。
これなら仮に停滞の選択をしても低体温で命を落とすことはないだろう。
「まいったなこれは。まあでも、進めないほどの風じゃないな」
毎秒五十メートルを超えるようなヒマラヤの暴風と比べればこれくらいの風はそよ風だった。
霧に包まれて崖の上は見えないが、ここから先のルートは昨日目に焼き付けている。
撤退の考えはなかった。
登攀の準備を整えて出発した。
壁の傾斜は少し奥に傾いている。
小さなスタンスを拾いながら、指先のみ入るサイズのクラック(フィンガークラック)で体を保持して登っていく。
過去数々のルートを登ってきたが、フィンガークラックの難易度としてはそれなりに高い方だ。
やはりビッグウォールの初登は現場での対応力が求められる。
下から壁を眺めている時にはこれほど難易度が高いパートが出てくるとは考えていなかった。
「フッ…クッ!…」
どうしても一手を出すのに強度が高い場面では力んで声が出てしまう。
その人のクライミングのスタイルによるが、意図的に声を出した方が個人的には限界以上の力が発揮されると思っている。
ちょうどハンマー投げの選手が投げる瞬間から叫ぶようなイメージだ。
霧の中のフィンガークラックを目の前の一手にのみ集中して登っていく。
やがて霧の中で巨大な岩塊がその姿を見せた。
「やっと大ルンゼか。これに入ってしまえば左稜線まではもうすぐだな」
ルンゼ、流れる水や氷河が岩を侵食することで形成された巨大な縦の溝。
普通、ルンゼはその形成されるプロセスから、次第に緩やかになってその山の裾に向かって広がっていく。
しかしマシカラの大ルンゼはちょうど俺がいる辺りを境に、ここより上と下で岩質が変わるためにルンゼの出口がこんな中腹に突然現れる。
ルンゼを形成した水はこの出口から勢いよく空中に放り出され、大地に届くことなく霞となって大気中に消える。
ルンゼを流れる水の水量が多くないからいいものの、天候が悪化したらマシカラに降る雨のほとんどが恐らくこの大ルンゼを通して流れ出ることになるはずだ。
つまり急激に水量が増えてとても登攀できるような状況では無くなるということだ。
霧で済んでいる今がアタックのチャンスだ。
俺は意を決して眼前の巨大な岩塊を回り込み、大ルンゼへと突入した。




