笑顔でいて欲しいから~ルディ~
アンジーのところへ、トマスとミットフォード伯爵、その部下の騎士達を連れて戻ったら。
そこは物抜けの殻。
残されてるのは、あの猪と“ソロキャン”一式。
見ると剣や弓まで置いたまま。
なんというかまさに身一つで逃げ出したという感じだった。
これは……。
“ソロキャン”を邪魔されたと思い、怒っている……?
例えそうだとしても。
アンジーは聡明だ。
身一つで逃げ出すなんて……。
そうなると、遠くへ逃げていることはないハズだ。
少なくともこの“ソロキャン”エリア内にいると思う。
「うむむむむむ。この猪はすごい。猪どころではないと思ったが、アンジーは君が追ってくれる。ならば我々は、この貴重な命の恵みを無駄にするわけにはいかない」
ミットフォード伯爵はそう言うと、ご子息と騎士に命じ、巨大猪の解体に取り掛かった。
一方の僕は。
アンジー探しだ。
僕は嗅覚がすぐれているから、アンジーの匂いを追うことができる。彼女が向かった方角はすぐに分かった。アンジーの匂い。それはクッキーのように甘い香り。僕はその香りが大好きで、アンジーを抱きしめるのが大好きだった。
でも無邪気に抱きつけるのは子供まで。いくら婚約者とはいえ、騎士道精神まで学んでしまった僕は、安易にアンジーを抱きしめることができない。そこは騎士らしく、紳士らしく、スマートに……ってね。我慢することになる。
そんなことを思いながら、アンジーのクッキーのような甘い香りを追っていたのだが……。
匂いが弱くなっている。
そして自分がいる場所が、熊避けパウダーのトラップが作動した場所だと気が付く。
「これはヤバイな」
熊避けパウダーは粒子が細かいから、目や鼻などの粘膜に触れると大変なことになる。
アンジーのクッキーのような甘い香りをかぎたいのに。鼻から思いっきり空気を吸うと、空気中を漂う熊避けパウダーも吸い込んでしまう……!
ようやくトラップ作動エリアを抜けたが、まだなんだか鼻がうずうずする。
そこで足元の草を見て気が付く。赤みがかったオレンジ色の粉が、うっすらとついている草がある。
これは……アンジーが熊避けパウダーを踏んだ?
うっかり踏んだ。
それは誰しもあること。
だがアンジーは……。
自分が仕掛けたトラップにはまるほどドジではない。
これはつまり……。
うん。アンジー。僕は……それほどまでに嫌われてしまったのだろうか?
僕の嗅覚が優れていることなんて、アンジーはお見通しだ。匂いを頼りに僕がアンジーを追うと分かっている。だからだろう。僕の鼻が利かないようにするため、熊避けパウダーをあえて……。
何故だろう、アンジー。
僕はこんなにもアンジーが好きなのに。
ずっと……。
僕の片想いだったのだろうか?
婚約者としてアンジーは、いつも僕のそばにいてくれた。
時々無性に寂しそうな顔をするが、剣や弓を共に習い、成長してきたのに。
なんだか悲しくなってきた。
泣き虫ルディは返上したはずだ。
今、僕は騎士団の副団長。
こんな弱虫ではなかったはずだぞ。
なんとか自分を鼓舞するが。
僕は至って単純だった。
アンジーがそばにいて、笑っていてくれれば、それで幸せだ。
他には何もいらないと思えた。
でもアンジーが僕から離れてしまったら……。
僕はまた泣き虫ルディに戻ってしまいそうだ。
銃だってちゃんと扱えた。
あの巨大な猪を仕留めることもできた。
さっきまでの僕は自信に溢れ、アンジーの誤解を解き、改めて彼女にプロポーズをして、結婚式について話すつもりでいたのに。そのつもりだと、ミットフォード伯爵にも話したのに。
靴裏につけられた熊避けパウダー。
たったそれだけで、僕の耳は倒れ、尻尾から元気が失われている。
こんなにもアンジーが好きなのに、一方通行だったのかな。
普段はめったに出さない、銀狼としての声。
「きゅうん」と寂しく鳴いてしまう。
いや、ダメだ。こんな弱気では。女々し過ぎる。
騎士としての誇りにかけ、ちゃんと凛としないといけない。
もし。
もしも。
アンジーの誤解は解けず、婚約破棄を回避できなかったとしても……。
僕と結婚しないことでアンジーが幸せになれるなら。
それでいいんだ。
アンジーには……笑顔でいて欲しいから。
遠くで彼女の幸せを祈ろう。
だってアンジーは獣人族の僕を認め、爵位の上下を気にせず、僕と対等に接し、優しくしてくれた人なのだから。例え結ばれることがなくても、尊敬する気持ちは消えない。
あ……。
アンジーのあのクッキーのような甘い香りを感じた。
いる。
アンジーが。
この木の上だ。
「いた! アンジー。もう、大変だったよ。アンジー、熊避けパウダー踏んだだろう?」
そう切り出した僕は、冗談っぽく、熊避けパウダーの件を指摘する。
するとアンジーは……。
「ご、ごめんなさい、ルディ」
故意にやったことだろうに。実にストレートに謝ってくれた。
その瞬間。
なんだか本当に。素直な気持ちを口にしていた。
「いいよ、アンジー。僕はアンジーが大好きだから。例えわざと踏んでいたとしても、許すよ」